なぜ体育の授業は、というか、体育の先生は、例えば数学教師のような「補習授業をする」とか、「あの生徒は努力してるのに伸びないなあ、俺の教え方が悪いのかなあ」とか、
その他、苦手な生徒が得意になるために腐心しているが、
体育となると、習ってもないルールを「知っていて当然」という前提で始まるのはなぜだろうか?

数学教師などは、学生時代は数学が苦手だった人も多いから苦手な人の気持ちが分かる教師もいるのに対し、運動音痴な人はそもそも体育教師にならない(なれない)からか?
陸上競技できわめて基本である「ピッチ走法/ストライド走法」でさえ教わった覚えはないし、サッカーのオフサイドだの、バスケットのトラベリングだの、それらがどういう意味かすら教わった記憶がない。

余談だが、「体育に怪我は付き物」とか「スポーツにケガは付き物」は重大な誤謬がある。
どれだけ安全策を講じても防げない事故というのがあるだけという意味のはずが、「安全策を講じる必要がない」という意味にすり替わってしまっている。
(車で言えば、制限速度を守って早めライト点灯して、それでも防げない事故というのはあるが、だからといって、どうせ事故る時は事故るから最初から開き直って制限速度無視で爆走していいと言ってるようなもの)。

運動音痴の原因は発達障害アスペルガー症候群かも2 [転載禁止]2ch.net
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/noroma/1445654568/99-102
より追加抜粋

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柔道など事故(怪我)が起きやすいものはしっかりと基本の受け身から教えてくれるが、球技を中心に「知っていて当然」かのように始まる競技において基本を教わった記憶は私にはあまりない。
体育の先生も「スポーツは楽しくて当たり前」な環境で育った人が多いだろうから、むしろ練習や基礎より模擬試合の方が生徒も楽しめると思っているのだろう。こちとら模擬試合の方が苦痛なのに、
ここでも「“わからない”ことがわからない」という断絶が作用してしまう。
基本も教わらず、ただ惨めな公開処刑を体験する。それが、私にとっての「体育の授業」だった。
国語や算数といったいわゆる「五教科」「受験科目」には、基礎から教え、苦手な生徒をどうその教科に向き合わせるかといった方法論が深く議論されているイメージがある。私の実体験においても、例えば理解度によってクラスを分けて、
苦手な人にどう教えるかに腐心していた先生は多い記憶がある。しかし「体育」となると、途端にその性格が薄くなってはいかないだろうか。「スポーツは楽しくて当たり前」、そんな悪気のない前提で囲ってしまい、
「苦手な人」をどうそれに向き合わせるかという感覚に欠けてはいないだろうか。
もちろん、苦手な人に手を差し伸べる体育教師やイケメンウェイマンも世の中には沢山いるのだろうが、少なくとも私は不運にもあまりそのような人には出会えなかった。(すでにダメージが大きく気付けないパターンもあったかもしれない…)
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