ネトウヨ中学生やネトウヨ小学生をどうやって指導してる? [無断転載禁止]©2ch.net
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ある子が「韓国は反日で嫌い」という話をし教室で始めた。これだけでも不味い
ちなみに六年男子。
そして近代史のところの「朝鮮併合」と「植民地」のところで
「本当はいいことをした」とか言い始めたわけ
どうやって指導してる?または指導します? サンフランシスコ講和条約の直前、韓国政府は以下の要望を連合国に出した。
竹島と波浪(バラン)島を日本の放棄領土とし、韓国領とすること。
これに対し、連合国は、所謂「ラスク書簡」で竹島が日本に帰属することを伝えた。
これは竹島の領有権争いの中で、決定的な出来事であったが、今日話題にしたいのは竹島ではない。
もうひとつの島「波浪(バラン)島」である。
この波浪(パラン)島がどこにあるのかと尋ねられた韓国大使は、「鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と回答。
それを受けてアメリカ、及び韓国も懸命に捜査したが、その島は見つからなかった…
なんと!波浪(バラン)島は架空の島だったのである。
外交のやり取りの中で、就中、領土要求までしている島が、架空なのである。
驚くべきことだ。
しかし、これまでの朝鮮半島の離島に対する認識を遡れば、さもありなん、とも思う。
韓国は竹島の領有権を主張しているが、1枚の古地図も竹島だという島の位置を正確に示しているものはない。
そのほとんどが鬱陵島と朝鮮半島の間に、島が描かれていて、それを竹島だと、称している。
現実にはその位置に、竹島はおろか、島自体が存在しないのに、である。
どうしてこの様な地図が書かれるかといえば、朝鮮の古い言い伝えに鬱陵島のあたりに2つの島がある、という話があり、
想像で地図を描いているだけだからだ。
このように朝鮮という民族は、言い伝えや伝承で地図を書き、それを元に領土要求までしてしまう性質を持っているのだ。
結局公式には波浪(パラン)島の存在を否定せず、現在に至っている。
繰り返すが、領土要求までした島の認識がこの程度である。
伝説と現実の判別すらついていない韓国政府の言うことを、誰が信じようか。 朝鮮人は20万人もの同胞の若い娘が拉致連行され行くのを指を咥えて傍観していたのか?
それとも朝鮮半島ではそもそもそんな事件自体存在しなかったのか?
・朝鮮13道の知事の内、8人が朝鮮人知事
・裁判所の判事にも朝鮮人
・警察署長にも朝鮮人
・朝鮮人警部の部下に日本人巡査
・小学校の先生の半分は朝鮮人
・総督府の課長クラスにも朝鮮人
・地方公務員の7割が朝鮮人
・朝鮮鉄道職員の7割が朝鮮人
・日本人は朝鮮の人口のわずか1%
・朝鮮駐屯日本軍の2個師団はずっと満州、華北へ行ったまま
なぜこの環境下で拉致連行の記録書類や日記、これらの人々や村人など第三者の目撃証言が存在しないのか?
日本敗戦後なら日本軍を気にすることなく占領国のアメリカ軍の調査に被害を進言できたはずである
結論としては日本軍による20万人もの拉致連行は無かったということである 韓国大統領 朴正煕の言葉
「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。
私たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな
混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れ
て半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半
島になっていた。日本を選んだということは、ベストとはいわないけど、仕方なしに選
ばざるを得なかったならば、セコンド・ベストとして私は評価もしている」
「私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやって
きて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人
にしかられるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そ
この日本人教官が、お前よくできるな。日本の市谷の士官学校に推薦するから行け
といって入学。首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表し
て答辞を読んだ。私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支
配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやっ
たと思う」 李承晩
日本に併合される前の李朝朝鮮がまるで「東洋の理想国家」であったかのように、アメリカで宣伝。
ハースト系新聞が広めた日本=野蛮国論の一部となり、アメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。
韓国内の朝鮮史賛美は、李承晩の捏造から来ている。
韓民国成立直後は、日帝時代を具体的に知っている韓国国民が大多数だったが、公の場で
「日帝時代はよかった」「今の政府は駄目だ」等の批判をした者をすべて政治犯として、投獄・拷問・処刑を行った。
大韓民国成立後のたった2年で政治犯として、投獄された者の総数は日帝時代の約30年間の投獄者数を超えた。
今の韓国でも、親日論者として断罪される事が社会的に抹殺されるに等しいのはそのためである。 朝鮮人が井戸に毒を入れたのがデマだと最初に言い出したのは、
後藤新平内務大臣兼帝都復興院総裁。
後藤新平は、
「正力(松太郎)君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。
だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。
必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあたら、
腹を切ったくらいでは済まされない。
だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね。」
と正力に語り、正力はあえてデマ作戦で風評の打消しに徹した。 1919年の三・一運動直後、金元鳳(キム・ウォンボン)を中心に武装独立運動団体「義烈団」が結成された。
武力による独立を目標とした義烈団は21年9月、朝鮮総督府に爆弾を投げ、名前が知られるようになったが、
秘密結社だったため、活動状況の詳細はこれまで明らかになっていなかった。
義烈団の規模と活動状況を記録した英国秘密情報部(SIS)の秘密文書が先月28日、公開された。
文書は英国立公文書館が管理していたものを韓国の国家記録院が収集し、2010年から保管してきたものだ。
SISの極東支部が作成し、本国に送った1923年8月の報告書は、義烈団が約2000人のメンバーで構成される朝鮮人の秘密結社であり、
朝鮮と日本にいる日本人官吏を暗殺することを目的にしていると記録している。
報告書は「1カ月前、義烈団のメンバーの1人が中国・青島にいるドイツ人の作った爆弾160個を保有していたが、
うち100個が朝鮮に運び込まれた。現在約50人余りのメンバーが東京で活動中だ」などと詳細に記述している。
SISの文書は大韓民国臨時政府の活動状況についても記述している。
1919年10月に作成された報告書には「上海臨時政府が本国と米国からかなりの資金を受け取った。
臨時政府は現地の朝鮮人に税金をかけ、大半の朝鮮人は自発的に税金を支払った。
上海で発行されている独立新聞は、日本人への配慮からフランス当局(当時上海市内を租借)によって廃刊されたとみられる」との記述がある。
1923年に作成された「朝鮮独立運動の初期展開過程」という文書には、三・一運動について
「ソウルのある食堂で独立運動の指導者が集まり、独立宣言を発表した後、警察に電話をかけ、自分たちを逮捕するよう求めた。
主な都市、集落の独立闘士がデモを行った。多くの若い女子学生が積極的に運動に加わった」と書かれている。
独立記念館のキム・ドヒョン博士は「朝鮮の独立運動に対する英国の関心を反映する文書だ。
SIS極東支部は朝鮮の独立運動に対する情報を本国に継続的に報告していた。三・一運動が全世界に伝えられ、
英国内でも朝鮮独立を支持する世論が下院議員を中心に浮上した。同時に独立運動を弾圧した日本に批判的な世論が生じた」と指摘した。 抗日パルチザンや抗日ゲリラ一般人をスルーしているのだからwww
「義烈団(抗日テロ)」 1923年 8月に報告書
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関東大震災 1923年9月 ←ドンピシャw 「今子(べ・グムジャ)弁護士。
『大統領や政治家が平気で妄言を吐き、巨額の賄賂や政治資金にまみれても、「一銭も受け取って
いない」と平然と開き直る。経済界も外国企業の製品コピーを作って、堂々と自社製品として売る。
法廷では偽証が日常茶飯事であり、ウソ発見器にも反応しない。ウソに対する良心の呵責による
生理的な現象が見られない韓国国民は、人格欠陥者である。韓国は、国全体がウソの練習場で
ある。』
-------- 「朝鮮幽囚記」ヘンドリック・ハメル
『この国民の誠実、不誠実および勇気について。彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする
強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。』 ロシアに占領されれば、半島から多分朝鮮族消えていた、それをわざわざ、
軍隊出して、仁川上陸戦とか、散々ムチャして救ったのが日本
朝鮮族は、受けた厚意には甘え、恩は仇で返すだけ
朝鮮族を極東地域から強制追放した旧ソ連
【ソ連の朝鮮人政策、極東からの追放、強制移住】
ttp://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/45/oka/oka2.html
ttp://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/45/oka/oka3.html
1937年の強制移住には、極東における日本との軍事的緊張が 色濃く影響しているが、その根底には、
終始消えることの なかった朝鮮人に対する不信感が存在している。極東地方の 国境地域から、
もはやソ連国民となった彼らを追放したのも、 さらに極東全域から朝鮮人を一掃したのも、
そのような 疑惑の念が危機的な時期に一気に表出したためであった。
朝鮮人たちは、自分たちに対する差別に怒り、不安に駆られ、 あるいは虚無状態に陥ったまま、
中央アジアへ貨物列車で移送されていった。ウズベキスタンとカザフスタンに 移住させられた朝鮮人の一部は、
さらにキルギスタンとロシアの ヴォルゴグラード州アストラハン管区に送られた。
また37年以後、極東以外のロシア各地に住む朝鮮人に対しても
強制的な移住措置が適用され、1945年末までには
「ほぼすべての朝鮮人が中央アジアに送られた」。 戦前の圧政は朝鮮人や共産主義者が持ち込んだもの。
大正の関東大震災までは大正デモクラシーといって自由な空気があった。
摂政の宮(昭和天皇)の結婚式を狙って朝鮮人が暗殺計画を練って、暗殺道具を準備中
に突然の関東大震災が起き、チャンスとばかり計画を前倒し、実行におよんだ、ということが
わかっている。
難波大助昭和天皇暗殺未遂事件
大審院でも天皇制否定の主張を曲げず、裁判所の改悛慫慂政策は、判決直後、
難波の「日本無産労働者、日本共産党万歳」の絶叫で挫折した。
判決2日後の15日、大助は処刑された。26歳。
その後も昭和天皇暗殺未遂事件が起きる。
こうしたことから治安維持法が施行されることとなった。 治安維持法によって左翼日本共産党が一網打尽されると左翼は戦術を変えて、
天皇政打倒は後のこととして捕まらないようにエセ右翼を行うようになる、。
左翼は転向したふりして政府に入り込む。
スタ-リンの指図によって敗戦革命をめざす。
わざと勝てる見込みのない戦争を起こして、来る敗戦によって
荒廃させた後に起こる革命でソヴィエト陣営に引き込ませる作戦。
こうした人が後に問題となる圧政を生む事となる
負ける事のわかってる戦をめざす。
一億玉砕のスローガンもエセ右翼のコミンテルンの指導による敗戦革命が目的。
管理教育の起源でもある。 ■『ある戦後史の序章』
(「石田一郎の手記」西日本図書館コンサルタント協会 所収)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかの
エピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりつ いた。
そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで
朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている
光景 であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく
同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って
自決させ、 これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」 戰前に大言壮語の戦争を語ってズルズルと日本を戦争に引きずり込んだ人士と、
戦後に大言壮語の非武装の平和を語って日本を亡国へと導いている人物は、
実はまったく同じ人物たちだったという、驚愕の事実を証明している特集である。
これまで広く知らされてなかったことが、どの論考からも知らされるという意味で、
実に資料的価値が高い。
この点、前評者の指摘に賛同するものである。
今年は「知識人とファシズム」が翻訳され、実は戰前の全体主義者とは左翼たちだったのであり、
彼らが右翼の仮面を被っていたので、その仮面(右翼)に戦争の責任をを被せて断罪してきたという
詐術(トリック)を、我々は今はっきりと認識することのできる時代になったのである。
歴史は書き換えられなければならない。
戰前そして戦後も日本を真の危機に導いているのは、左翼的な思考の人びと、
特に国際共産主義シンパの人々だったのである。 韓国を助けるな、教えるな、関わるな 古田博司氏に聞く「東アジア3カ国との付き合い方」 | JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43424
日韓関係は冷却したまま。中国ともあつれきが絶えず、北朝鮮とは緊張関係が続いている。東アジア3カ国とどう付き合うべきか。左翼・リベラル派の政治家、マスコミ、研究者はもとより、保守派の
政治家、外交官、ジャーナリストでも大方は友好関係維持が基本的な考え方だ。極力、対話を続け、譲るところは譲ることが日本の長期的な平和と安全につながる、という意見が多い。
だが、長年、朝鮮半島の歴史や政治を研究してきた筑波大学大学院教授の古田博司氏は「韓国に対しては『助けない、教えない、関わらない』を『非韓三原則』にして日本への甘えを断ち切る
ことが肝要」と説く。
助けても教えても恩を仇で返すのが彼の国の性格で、関わらないのが日本のためになるという。中国、北朝鮮に対してもほぼ同様に接するのが賢明だと主張する。
「『それでは日本はアジアで孤立する』などと恐れることはない。日本は多くのアジア諸国から支持されている。孤立しているのは東洋的専制国家の東アジア3カ国の方だ。ただ、韓国と手を切る
戦略について日本の最大の同盟国である米国を納得させることが肝要だ」
こう主張する古田教授に、韓国を中心に東アジア3カ国との付き合い方を聞いた。
なぜ「非韓三原則」なのか 井本 「非韓三原則」を説く理由からお聞きします。
古田 助けてもロクなことがないから。教えても感謝せず、むしろ「ちゃんと教えない」などと難癖をつけてさらに要求してくる。
日本は幕末から明治維新にかけて初めて西洋に出会った、とよく言われますが、実は当時、東洋にも初めて出会ったのです。
何も知らないのに、自分も東洋人だから、東洋のことはよく知っていると思い込んでいた。それが間違いのもとだった。
明治期の朝鮮は驚くほど遅れた貧しい国家で、針一本作れない。木を丸くする技術もないので樽もクルマの車輪も作れない。染料がないので、衣服はすべて白衣でした。近世でも中世でもなく、
古代に近かった。
清国(中国)は大国ではあったが、古代王朝の世界に沈潜していた。ウソ、ごまかし、裏切り、汚職が横行する。それが東洋であり、実は日本は東洋ではなかった。それなのに、東アジアの現実を
何も知らず、「日本は東洋の国々と連携して西洋列強に対抗しなければならない」と考えるアジア主義が広がっていました。それは今でも続いていますが。
戦後は、戦前に中韓に迷惑をかけたという贖罪意識もあって友好第一ということになった。でも、援助しても教えても、反日運動は強まるばかり。プライドが高く、日本を見下しているからです。だから
関わらないことが日本にとって一番なんです。
井本 では戦前、韓国を併合したのも間違っていた?
古田 いや、当時は帝国主義の時代でロシアの南下を防ぐために、朝鮮を確保せざるを得ませんでした。朝鮮半島をロシアに取られたら、日本列島まで攻め込まれる危険が大きかった。
井本 日露戦争に勝利した後、韓国を併合せずに独立させていれば韓国は日本に感謝し、その後良好な関係が続いたはずだ、という見方もありますが。
古田 それは当時の朝鮮の経済、社会状態を知らない人の意見です。古代のような貧しい朝鮮は清国の属国として全面依存しており、とても独立できるだけの経済・社会基盤はなかった。朝鮮の
国庫は空だったのです。
で、日本は対ロ防衛のために朝鮮を近代化させる必要があった。莫大な投資をして教育水準を高め、民生を向上させねばならなかった。その負担が大きすぎ、日本の朝鮮経営は大赤字が
続きました。(以下略) 日本共産党綱領草案
レーニンはこう記している。
「『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』…
『共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。
――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、
真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、
不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない』
『共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。
公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』」
(同上書 p.41-42) 北朝鮮工作会員の「我らが民族同志」名簿の中に、
NHK職員の塚本壮一の名前やメールアドレスなどがリストアップされている。
この名前やメールアドレスなどは、NHKソウル支局長の塚*壮一(1965年4月12日生まれ)と判明した。
2013年04月05日11時20分、中央日報日本語版
NHK「坂の上の雲」で捏造と歴史偽造2009年12月27日放送で原作にない閔妃暗殺事件を取り上げ、
犯人を「三浦梧楼率いる日本人たち」と述べたが、
犯人は朝鮮人だ・首謀者は大院君で、 実行犯は禹範善である。 閔妃殺害関に日本人が関与したという記録は、以下の2点だけである。
1.「朝鮮旅行記」 『1895―1896年の南朝鮮旅行』にあるロシアのカルネイェフ中佐の発言
日本人が城を取り囲み殺したと殺害状況が書かれているが、以下の疑問があり証拠能力は、ほとんどない。
(疑問1) 城にいたとされるロシア人技術者から聞いた話らしい。つまり、又聞の又聞の旅行記に証拠能力があるか?
(疑問2) 日露戦争直前の敵国の軍人の又聞証言が信頼できるか?
(疑問3) 顔や実名さえ知られていない隔離された存在の閔妃の殺害現場を、ロシア人技術者が目撃するのは無理がある。
しかも、この本では、首謀者は日本人ではなく、大院君だとされている。(これも証拠能力などない) 2. 当時の官報号外「裁判宣告書」で、絞首刑判決を受けた朴銑が日本人を雇い入れてたという記録。
(疑問1) 雇い入れた日本人の名はない。
(疑問2) 朴銑 自身が日本人に成り済ましていた。(服装を含む)
(疑問3) 閔妃殺害関係者の中の恐らく最年少の26歳の若者が日本人を雇いれ殺害を計画したのか?
(疑問4) 後に、無罪となり保証金は支払われ、官位も復官されている。
この他には、日本政府側では、当時赴任したばかりの日本公使・三浦梧楼を始め、朝鮮にいた40数名が殺害の嫌疑を
かけられ日本へ償還されたが、裁判の結果無罪となっている。
つまり、殺害現場に日本人がいたという噂は当時からあり、日本側でも取り調べたが、殺害に加わった証拠は何もない。
最近、閔妃を見つけるための写真というものが民間芸人のプロマイド写真だと解明されている。
また、首謀者が三浦梧楼とする説も、角田房子の小説か韓国KBSドラマ由来の創作、仮説また捏造以外、何の記録もない。
首謀者についての確証はないが、当時の日本、朝鮮、ロシアでは、大院君であるとみられていた。
そもそも、現場で殺されたり捕まったりした日本人は1人もいない。
その後も、大韓政府側は1人として日本人を実行犯・計画犯として指名していない。
閔妃の夫の高宗や息子の純宗は閔妃が殺されるのを目撃してるし、実行犯のその場にいた大韓帝国軍人の多くに
死刑判決をだし、暗殺者まで雇っているが、日本人が係わったとは一言も言っていない。
高宗は、ロシアへ逃げ込んだりバーグ事件などで日本を散々批判しているにも係わらず、閔妃暗殺で日本を非難した
ことはない。 [ 鄭大均 著「在日・強制連行の神話」T(文春新書)]
著者の鄭大均・首都大学教授は、東アジアの国家アイデンティティーの研究が専門の学者で、この著書の中で
在日韓国・朝鮮人は戦前の日本国家によって強制連行されて日本にやってきた被害者とその子孫であるという、
現在日本だけでなく国際的にも広く流布している「常識」を否定し、在日1世は自らの意思で朝鮮半島から
日本に渡ってきた人々であると主張しています。
まず1955年に、日本人の朝鮮研究家・森田芳夫により「在日朝鮮人の処遇と推移」という本が出版されましたが、
その著書によると、朝鮮半島の人口が日本の統治により急増した結果、農村地帯に大量の余剰人口が発生し、それと
同時に日本では産業発展によって労働力不足が起こった為、多くの朝鮮人が出稼ぎ労働者として来日する事になった
と説明されている。つまり在日朝鮮人たちは、自らの意思で日本にやってきたと言っているのです。当時は朝鮮半島
も台湾も同じ大日本帝国の領土で、朝鮮半島に住む人間が日本の本州や九州に移住するのは、国内を移動するのと
大して変わりなかったと鄭教授も指摘しています。
対して、朝鮮大学校教員であった朴慶植が1965年に「朝鮮人強制連行の記録」を書いて、初めて強制連行なるものを
世に創作した直接の動機は、この森田の「在日出稼ぎ説」に反論して「いや在日1世は無理やり日本に連れて来られたのだ」
と主張する事にあったのだそうです。朴慶植は北朝鮮労働党の日本における下部組織である朝鮮総連のメンバーでもあった
人物で、この本を植民地下の朝鮮人は日本帝国主義に搾取された被害者であるという、戦後北朝鮮が採用していたマルクス
主義的なイデオロギーに沿って書いています。その目的は北朝鮮の対日工作の一環として、在日1世たちは日本に強制連行
されてやってきたというプロパガンダを流布することで、在日の被害者性を強調し日本人に集団的な罪悪感を植え付ける事
にあったと鄭教授は指摘しています。鄭教授によるとこの朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」には初歩的な誤りや意図的な
ごまかしが多数みられ、在日1世達が強制連行されたという自説を主張する為に、恣意的にデータが選択改ざんされている
そうです。 さらに鄭教授は、朴慶植がこの著書で朝鮮総連による在日朝鮮人の北朝鮮帰国運動についていっさい触れていない欺瞞性について
も指摘しています。北朝鮮帰国運動は、「地上の楽園」と聞かされていた北朝鮮が実際は極端に貧しい国であったことが判って
62年から帰還者が急減したという、帰国運動を推進した朝鮮総連には触れられたくない過去の事実です。
この運動を開始した頃から朝鮮総連は意図的に「在日強制連行説」を流すようになったそうです。
これに対して日本の外務省は1959年に「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」を発表して、強制連行を明確に否定しています。
〜この発表の要旨は次の通り〜
●戦前(昭和14年)日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)にはその数が約200万人に増加。
●増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別労働者と、その間の出生によるもので、残りの
30万人は 大部分が工鉱業・土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。
●国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮に適用された期間は昭和19年9月から翌年3月の7ヶ月間のみ。
●終戦時に200万人の在日朝鮮人の内、140万人が希望して朝鮮半島に帰還し現在登録されている在日朝鮮人は61万人で、
そのうち戦時中に徴用労務者としてきた者は245人に過ぎない。
戦時中在日朝鮮人の数が増えたのは、日本人男性が兵士として多数召集された穴埋めとして朝鮮人労働者が必要とされたからだが、
この内極少数ながら戦時中の国民徴用令によって徴用された労務者が存在します。彼らは自分の意思に反して日本に連れて来られた
事から強制連行されたといえるかもしれません。しかし鄭教授は当時は朝鮮人も台湾人も同じ大日本帝国の臣民であり、「日本人」
として平等に徴用義務を課せられたのであって、これを「強制連行」と呼ぶのは適切ではないと主張しています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています