体育の授業はイジメに繋がりやすい。球技などのチームプレーは特にそうだ。
また、例えば「負けたチームに腕立て伏せをさせる」のは、これでは、運動音痴へのイジメを助長するどころか、「勝った方が正義」という、インドのパル判事が嘆く植民地思想を生んでしまう。
「走るのは、みんなで手を繋いでゴール」とまでは言わないが、敗北チームに罰を課すのはあまりに問題が多い。指導要領を読めばあり得ない事と分かる。

体育の授業はイジメの温床なのに、体育教師は、何もしない。
むしろ、体育教師というのは他の教科の教師と違い、「教える」という事を殆どしない。
例えば「よし、今日はサッカーやれ」で終わりにして、サッカーのやり方などは教えない。
しかも、例えば英語や数学は「学生自身に英語が苦手だったからこそ、英語教師になった」という人が割と多いのに対し、運動音痴だった人が体育教師になる事はあり得ない(先天的なものだし)。つまり、体育教師は運動音痴の気持ちが解らない。

また、運動神経は先天的なものであり、仮にやり方を教わった所で、努力でどうにかできる範囲には限度がある。
体育をサボる学生に辛辣な教師は、その生徒の教育を受ける権利を奪ってるのはむしろ教師自身であると気付け。周囲から「お前、体育の授業出たらぶっ飛ばすぞ」と脅されてる場合さえある。

「社会でも仕事できない人は邪険にされるし、運動音痴が邪険に扱われるのは、イジメにならない程度なら仕方ない」という考え方もあるかもだが、
@学校は社会ではないAむしろ邪険された場合の対処法を教えるのが学校の役割B仕事と違い運動能力は努力で向上できない
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修学旅行や林間学校もそうだ。
教師の目の届かない密室で、一体どんなリンチが行われているのか?
昔、遊園地板?にあった、ネズミーランド制服修学旅行云々スレで「修学旅行にディズニーとか、『学を修める』という定義が崩壊してる」なんてカキコを見た記憶があるが、まあ経営的な勉強になるから学を修める事はできるかもだが、
修学旅行の本来の趣旨「金のない人が金を出し合って旅行に」は現状ではもはや必要無い。
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なにも、ニューヨークの割れ窓理論ほどやれとは言わないが、
しかし、イジメが起きやすい環境というのはある。
「イジメが起きてから対処する」ではなく、「そもそもイジメが発生しない環境作り」が、必要なのでないか?