日本の学校って個性つぶすの大好き好きだろ
何でも自由がいいとはもちろん思わないが、
やりすぎ。
軍隊みたいな文化を愛しすぎ。
おれの高校母校早実な。あそこもヤバスだったな。 できひんことはできひんけど、少なくとも生きることに本気にはならなあかんにゃろな。
それで駄目ならしゃーない。 上に立つということは人の人生に責任を持つということ。そこから逃れることはできない。 欠点を隠そうとしないこと。
そんなものはあって当たり前なので、卑下することも開き直る必要もない。
むきになって責め立てる向きには、憐れみを覚えつつも取り合わないこと。 人の意見はどんな耳の痛い意見でも聞く耳を持つ。
しかしながら従うことも含めて、最後に決めるのは自分。
それが個人の自由ということ。 怒り、あるいは相手を嫌うことを人間関係の選択肢の一つに含めない情愛は、
どんなに必死に押し付けて来ようとも愛情とは認めない。
それはどこまでいってもまがい物の愛情。
波風を立てずにいこうとしてもいずれは追いつめられて人を恨むんだから、
怒りぐらいは自分の手元に引き付けておけってこと。
どこまでなら大丈夫かの匙加減さえ見誤らなければその方が健康的。 衝突する前からへしょれてしまうような骨なしならしょうがないが、
少しは気骨があるのなら緊張の高まりをセーブしたり、後からリカバリーするテクニックはいくらでもある。
が、それは衝突を恐れない構えがあった上での話。日々の経験の中からつかみ取るしかない。 自分や他人に過剰な期待をしないこと。俺はそれしか言っていない。
向上心の意味を履き違えないこと。 好意であれ悪意であれ相手の領域に踏み込むときは、
干渉する枠をきっちり定め、主体性の領域を侵害しないこと。
人格を認めるとはそういうこと。 もちろんそれは双方向のものである以上、相手が自分の主体性をないがしろにしてくることもある。
そこに厳格な一線を持つ限りにおいて。 後は流れに身をまかせるだけ。思い通りには行かないもんさ。 傷つくことを恐れる気持ちは誰にでもあるが、受けた心の傷の痛みを薄めようとしないこと。
痛みを痛みとして感じることができるのは人間にとって幸せなこと。 心が高揚しそうな時ほど手元に引き付けておく必要性。肌感覚を手放さないという問題。 時の流れを自分のものにするためには、まず自分の空虚さを受け入れること。
欠点は克服するものではなく受け入れるものだと分かれば、さらに生きる意志につながる。 どこへも逃げられないと自覚することは後ろを向いてはいけないということではない。
降りると踏みとどまるの間を行きつ戻りつしながら心に弾力を持たせるということ。 まったく無駄!!不要!!いらない!!
全ての公立学校はどんどん統廃合すべきだ!!
今いる教員数を3分の1以下にすべきである。
見せ掛けのための教育と管理第一主義の糞校長・教頭どもを全員クビにして
教育に効率の良い学校へ転換することだな。
税金の無駄使い公務員をブッ殺せ!!
教育を隠れミノにするなよ!!
悪徳公務員はさっさと死ね!!
偽善教育のバカ公務員死ね!! そりゃ一億総者地区社会ジャップランドだからでしょ
まわりの人間に同調して生きていかなきゃならんくそみたいな社会だからだ 努力なしに世の中を渡っていけないのは当然のこと。
努力が見える形で返ってくる境遇はそれだけで恵まれた人生。
世の中には努力だけではどうにもならない人生もいくらでもある。
自分の成功体験を人に押し付けないこと。 言うまでもなく何かをするということは何かを切り捨てるということ。
切り捨てられた者からの風当たりの矢面に立つことだけが、切り捨てた者への筋の通し方。
公立学校をすべて潰し、クズどもを一掃しよう!!
クズどもから教育されることは何もない!!
公立学校教育をすべて廃止しクズどもを皆殺しにすべきだ!!
今の日本の教育システムをブッ潰し効率の良い学校へつくり変えよう!!
税金の無駄使い公務員をブッ殺せ!!
教育を隠れミノにするな!!
悪徳公務員はさっさと死ね!!
偽善教育のバカ公務員をブッ殺そう!! 世の中はきれいごとだけでは回らない。
目先の損得勘定に優先する理想の存在も含めて、長期的視野に立った老獪な戦略性の必要。 舞い上がった気持ちを抑えきれない向きは、一度吐き出すだけ吐き出して、
行く所まで行った方がいいのかもしれんな。
中途半端に押さえつけるのは心の健康に良くないのかもしれん。. 自分にとって得か損かの利害感覚を手元に引き付けることができない人間は結局何もできない。
エゴイズムが核にない人間ほど、薄っぺらい理想に吸い寄せられて身につかないきれいごとで自分を慰めるもの。 自分の存在がそこにいるだけで、多くの人間を押しのけ可能性を塞いでいるという宿命を噛みしめること。 大事であれ小事であれ気負わず淡々と。
どんなに力み返っても壁にぶち当たる時は当たるもの。
その時は嫌でも悩むんだから。 物事を大仰に受け止めないこと。
どんな想定を超える状況に立ち至っても、結果はプロセスの一つの通過点に過ぎない。
自分の想定と現実の間に落差をつくらないこと。 どんなに切羽詰まった状況が見えてきても張りつめないこと。
これは原因を外部に求め取り除くことで解消するのではなく、ひとえに自分の心のありようの問題。
どんな状況でも心に緩みを持たせ、遊び心を忘れないこと。 相手の気持ちは気持ちとして理解するとして、それに自分を左右されないこと。
どんなに距離の近い相手でも、どこまでいっても自分とは立場・人格の異なる人間。
情の存在は不可欠だが、それに流されないこと。
人間は他人に迷惑をかけずには生きられない。
逆に言えば他人から当然のように迷惑をかけられながら生きるしかない。
どちらの可能性も引き受けること。 夢を持つなんて本来子供の使う言葉やで。
そういうものがあったとしても、ええ大人が人にひけらかすようなこっちゃない。 自分の人生と自分が関わる世界にどのような未来が待っているか誰にも分からないということを受け入れること。 人生に過剰な意味づけをしないこと。
それが分かれば、他人のことを詮索することも主観を押し付けることもない。 人生を楽しむなんてことをやたら力こぶを入れて強調する奴もなんだかなあって感じ。
それは生きる過程においてそういう瞬間も訪れることもあるってぐらいのことで、的にして追いかけるようなものじゃない。 何か問題にあたる時は、自分の動機・プロセスをある程度筋道立てて言語化しておくこと。
人間は全て理詰めで動く生き物ではないが、心に整理された言葉があれば
状況・気分に一方的に流されることはなくなる。 困難な状況に向かう時は自分をドラマチックに演出しないこと。 全力で戦う時も無理にあがかないこと。
諦めるのではなく、負けないことに必死にならない。 どうしても人に悪意を向けざるを得ない時は正面から。
相手から反撃される可能性を奪わないこと。 弱みを見せることは恥ずかしいことではないよ。
あるものをないものとして扱うことはできない。
人間突っ張って生きていてもしょうがない。 もっとはっきり言えば、自信なんてもんが要らんねん。
そんなものにすがるから人間は自分が道を踏み外すことにも気づかへん。
努力や積み重ねは必要だとしても、一瞬で崩れ去るものと自覚すべきだな。 世の中の全てが自分の思い通りに動くというのは幸せなことではないよ.。 その場その場で自分にできることに最善を尽くすこと。
失敗はあって当たり前。勝ちたいのも誰しも同じ。
勝つことにこだわり過ぎないこと。 あんまり楽々と越えられても困るってこと。
普通の人間がそこにたどり着くのには、どれ程の葛藤と闘わなければならないことか。
人生はそんなにお手軽なもんじゃないからね。 いつでもここに戻ってこれるように逃げ道を作っておくこと。 暗さ、弱さ、醜さ、それを認めることのできない自分を受け入れること。 前向きなものにせよ後ろ向きなものにせよ感情に気持ちを入れすぎないこと。 煮詰まったらさっさと諦めて次に進むこと。あまり考えこみすぎない。 人の気持ちなんてものをごちゃごちゃ考えない。それは考えるものではなく、感じるもの。 全ての始まりにおいて自分が馬鹿で無能だということを認めること。
知性や実力はその根本認識の上に積み上げるものであって、
中途半端なプライドや過去の実績・名声を頼みにすることは、冷静で客観的な自己イメージを見失う元。
これは謙虚とか傲慢といった他者評価の振れ幅で揺れ動く問題ではなく、徹頭徹尾個人的な生き方の問題。
何か問題が起こっても存在に関わるようなことでない限り、しばらく手を加えず放置する。
変化がない場合は、その後で対策を考える。
大概の問題はこれでふるい落とされる。 外的な刺激に心が揺れ動くのを抑える。
物事に動じないといった硬直した態度ではなく、心の波をなだらかにする。
心に極端な山と谷をつくらない。 人から理解されようとしないこと。
やりたいことの為ならどんな理不尽な汚名を被ってもいい。 社会の作り出す強迫的な空気感に無条件で乗せられない。
乗せられるのなら乗せられているという自覚を持つ。
時代の只中を流されるにせよ、どこかに一人の人間として時代を対等なものとして眺める態度は必要。 他人に迷惑をかけることを嫌がらないこと。
そこを踏まえないとやって良いことと悪いことの違いも身に沁みては分からない。 目的にまとわりつく余計な感傷を削ぎ落すこと。
それらは自らの意志をぼやけさせるだけ。 どこだっけ?
都立高校だったと思うが、新しい校長が校則のほとんどを撤廃したのは。
記事を探しているが、見つからん。 行動の主体をごまかさない。
自分が自分の為にやっているという感覚に他人を混ぜ込んであやふやにしない。 自分の言動の広がりに対して自分がけじめをつけられる範囲を意識する。立場を踏み外さない。 どんなにウザい相手でも反発したり立ちふさがって態度を硬化させる前に、相手の背景を理解するよう努めること。
譲らない自分が明確にあれば、殊更それを人に押し付けることもない。 この世の不条理を受け入れること。
その強さがあればこそ自分を高めることができる。 あとは全力でいい加減に生きるこっちゃな。
それで世の中ちゃんと回るようにできてるんだから不思議なもんだ。 まあ世の中なんてそんなもんだ。
自分にできることなんてたかが知れている。
嘘にまみれた世の中だが、そういうものと諦めて自分のことだけ考えて生きていくしかないな。 色んな問題があるけど、それはしゃーないんちゃうかな。
一々まともに向き合ってたらしんどいだけ。 小学校3年生の時、クラス全員の子供と親、担任教師が放課後に集まり
簡単なゲーム等をする親睦会の行事が有った。
私の親は都合で来られなかったので、私自身も不参加にした。
建前上は自由参加だから、何も悪い事はしていない。
ところが担任教師が直前に執拗に誘って来た。
「本当は参加したいんじゃないか?」
「親が来れらない子でも参加して良いんだ」と、しつこく誘って来た
あまりにしつこいので、私は素直に本音を言った。
「似た様な催しは2年生の時も有り、その時は参加したが、
つまらなかった。敢えて一人で参加する気がしない」
そうしたらバカ教師が急に不機嫌になって文句を言い始めた。
「みんなが楽しみにしているのに、つまらないなんて言うな。
おまえは利己主義だ」とか何とか。
しつこく誘うから、欠席の理由を正直に言っただけだ。
感じ方は児童の個性によって違って当たり前のはずなのに、
私は「利己主義」だそうだ。
あいつはきっと大人同士の付き合いでも、飲み会を欠席する奴がいたら
「利己主義だ」と言って、罵ったりしてるんだろうな。
日本の学校でイジメが深刻な問題になっているのは教師自身が
「他人と違う考えを持つのは悪い事」と子供に教えるからだ。 春高バレー活躍誓う、16強へ意欲 女子の磐城一が来社
2015年12月09日 10時24分
来社した(前列右から)草野主将、畠山副主将、(後列右から)斎藤副校長、菊池監督
来年1月5日に開幕するバレーボールの全日本高校選手権(春高バレー)に本県代表で2年連続2度目の出場となる
女子・磐城第一高校の草野明日香主将(3年)らは8日、出場あいさつのため福島民友新聞社を訪れ、目標の16強へ意欲を語った。
草野主将は「昨年できなかった初戦突破を果たし、ベスト16を目指したい」、畠山ほのか副主将(3年)は「チームワークと感謝の気持ちで、
緊張せず後悔のない試合をしたい」と決意を話した。
斎藤雄二 副校長 と菊池洋勝 監督が一緒に訪れた。菅野篤編集局長が激励金を手渡した。
大会は1月10日まで東京の東京体育館で行われ、同校は5日に1回戦で新発田商(新潟)と対戦する。 まあ人生なんて浮かれているのは幻みたいなもんで、本当は何一つ良いことなんかないんかもしれん。
それでも生きていれば何かが見えてくることもあるかもしれん。 日本の問題は、今俺がアイスクリームを食べたいということ。 めんどくさいけど付き合っていかなあかんにゃなあ。やれやれ。: 俺はやることはやるよ。どんなに風当たりがきつくてもな。
今の世の中、何かをやったつもりになってる奴ばっかりだ。 俺の思うがままwそろそろ終わりが見えてきたな。やってられへんわ。` 通すべき筋さえ通せば、後は何やってもいいよ。
誰も自分を否定することはできない。 後は分からんことを分かったつもりにならないこと。それだけ。 受け身で何が悪いねん
何にでもポジティブにがっつく人間なんて逆に気持ち悪い めんどくさいことごちゃごちゃ考えずに生きたいように生きればいいんだよ。
そら色んなことあるわ。, 俺も力説しすぎたな。
あまり必死になると、どんなにちゃんとしたことでも人は聞いてくれへん。
といって、何も言わなければ何の返りもない。
ということで、何事も程々に。 生活にかくあるべき姿を持ち込み過ぎないってことだな。
日々の縛りの中をどう気持ちを楽にやり過ごすかというか。 自分と他人の間に明確な一線を引くこと。
自分の問題は自分の問題。他人の問題は他人の問題。
揺れ動かない。 誰が何と言おうが今ある自分が自分。
無理に足掻かない。 人生なんて試行錯誤の繰り返し。
間違ったり、くよくよしたり、思いつめたりしながら進んでいく。 どうせ大したことはできひんよ。いくらうんうんうなってもな。ま、やってみ? 早実って校則多いの?早稲田学院はほとんど校則ないって言ってたよ。
麻布は授業中のマージャン禁止だけらしい。 都立高校で、新しい校長が校則の大幅緩和を実施したそうじゃない。
「生徒の自主性に任せ、自主性を育てる」と。
尾木ママ大絶賛。
どこだっけ? 今は、学校の先生が生徒を1人の「人間」「心」や「魂(たましい)」だと思って、
大事にしない。「ただのモノ」「ペットショップの製品」みたいに扱う。
子供が学校でいじめられたり、事故で死ぬと、先生や校長は「ごめんなさい」でな
くて「私たちのせいではなかった」と、言い訳が先に出る。 日本人をモノにしたのは小泉だな。
あいつの登場以来、急速に世の中が変わった。
一部の支配層を除き、今の日本人は単なる物品さ。 個性を重視しすぎると、青い鳥症候群が増えてしまい、現実を見なくなる。個性重視を打ち出すことによって、知識の絶対量は不足している。
個性というものは、本来本能的に備わっているものであり、後から修得するものではない。集団教育で個性化教育をすれば、集約的な個性というものを軸に個性化教育をしていくことになる。これはもはや個性という名の集団教育であり、個性化教育とは言えない。 >個性というものは、本来本能的に備わっているものであり、後から修得するものではない。
違うだろ。 個性教育というのはギャンブル
未知の選択はリスクがともなう
結果をだした過去の成功例を
物まねすることこそが
凡人が成す道♪〜