>>573 (続き)

 「(略)あの長い間続いた中国報道の誤りは、一人の過ちではなくて全社の――社長をトップとしておそらく
 すべての幹部が関係し、下は一般記者にいたるまで苦々しい思いで参加し、あるいは抵抗したという構造を
 持つものだった。
  にもかかわらず、社として今日まで何の処置も取っておらず、誰かが責任を取ったという話も聞かない。
 …(略)…」


 誰のことでもない自分の体験をあってはならないことと考え、この工藤も、かなり時間が経ってからではあるが、
右のような思いを局報の中でしたためたのだろうが、彼が望んだような自己検証、改革は何ひとつなされなかった。
まるで、次に来るあの慰安婦虚報放置の予行練習でもしていたかのように、である。
 2002年に94歳で死去した広岡を悼む『追想 広岡知男』(2003年、『追想 広岡知男』刊行委員会編集・発行)に
件の秋岡家栄がこんな話を寄稿している。


 「広岡さんは中国が好きだった。
  広岡さんが1970年春、松村謙三さんたちと北京を訪ねたあと(筆者注 自由民主党衆議院議員の松村謙三を
 団長とする訪中使節団に松村の友人という資格で朝日新聞社長広岡が同行していた)、当時はまだ、北京、
 東京間に直行便がなかったので、香港経由で帰国するため、広東に着いた。私は広東出発まで、広岡さんに
 付き添った。
  迎賓館に入って夕食を終わったら、『秋岡君、ちょっと散歩をしたいんだけど、車を用意できないかね』という
 電話がかかってきた。『樹の多いところがいいね』という御注文に、旧租界の沙面へ行った。
 『実はね』と広岡さんが、感慨深げに口を開いた。『ボクの先祖は千年まえ、中国の広東から日本へ来た。
 医者だったと言うんだ。秦と言ったそうだ』」

(続く)