日中戦争は左翼の自作自演
蒋介石と日本を戦わせ弱らせて最後に中国共産党が支配するための自演であった。
若者を特攻隊で死なせたのも左翼のせいだった
共産党は労働者階級出身の純真な人には反戦平和を唱えさせ、逮捕されるデコイ役をさせ、
ごく少数の高等教育を受けたエリートには敗戦革命理論を実践、戦争を鼓舞させた。

近衛内閣書記官長 風見 章(かざみ あきら)
国際共産主義者ネットワーク(コミンテルン)から敗戦革命の密命を受けた工作員であった。
1909年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、国際通信、朝日新聞記者,信濃毎日新聞主筆
1937年6月4日第一次近衛内閣が成立。、
首相となった近衛文麿は当時全く面識の無かった風見を内閣書記官長に抜擢する。
風見も以前からの親友である、尾崎秀実(ゾルゲ事件)を内閣の嘱託に抜擢した。

1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発
当時の参謀総長は皇族の閑院宮載仁親王であり、
参謀次長今井清と支那駐屯軍司令官田代皖一郎は揃って病床にあったため、
陸軍が組織の機能不全の為に戦線拡大に消極的であった。

当初近衛内閣は不拡大を唱え7月11日には現地で和平が成立するが、
この日の閣議後に風見は朝日新聞、読売新聞ら報道陣の代表者と政財界各方面の有力者を官邸に招く。
ここで近衛は内地三個師団を派兵する北支派兵声明を発表、和平交渉を破壊した。
この後も近衛内閣は、7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。
7月26日には、陸軍が要求していない9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、
さらに7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、
陸軍を事変拡大の方向へと圧迫していた。
1941年10月ゾルゲ事件の後、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けるも訴追を免れる。
戦後1955年1月に左派社会党に入党、10月の左右社会党統一時に党顧問となった。
日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長
1957年には訪中して周恩来と会談した。
また、岸信介内閣の台湾政権支持、長崎国旗事件に反発し、
1958年7月14日、中島健蔵、細川嘉六、伊藤武雄と連名で
中国への「侵略」に対する「反省声明」を発表した。