何がどんなだ。何は何であるという文を存在文(仮)とする。
何がどうする。何がどうなる。という文を過程文(仮)とする。

どのような文章であってもこの二つの文からできている。

存在文は関係を表し、過程文は変化(時間、空間など)を表す。
したがって、小説、物語などは過程文によって綴られることが多い。
一方、論説文は存在文で綴られることが多い。

 そして、われわれは日常では存在文よりも過程文によって自分の考えや
状況を判断することが多くはないだろうか?論説文などの存
在文を読み取ることが経験的に少ないのではないのか?

 それゆえに、論説文の文構成の形式を身につけないまま、そこで使われて
いることばにつまづいて立ち止まってしまうのではないか?

 花は美しい。も、植物は光合成によって二酸化炭素を固定する働きを自然界
の中ではもっている。どちらの文も実は構造は同じなのだと読み取ることがで
きないのではないだろうか?