【授業】国語力を高めるために【家庭】
国語力を高めるための実践を交流しましょう。国語力=言語に
よる思考力+言語による表現力+言語による理解力としておきます。
インプット→処理→アウトプット
↑ ↓
フィードバック← って概念図でご理解を。
別に過疎ってもよいスレなので、こうしてみたということがあれば
書き込みをどうぞ。国語科に対する批判などは実践を通した提案で
お願いします。 現行の指導要領には、話す・聞くという観点が儲けられております。
これは、音声言語によるやりとりができなくなってきている。
という危機感から生まれた観点なのです。
スピーチからディスカッションを目指してとりくむことになってます。
低学年では一人対一人でおしゃべり(やりとり)を長くする(対話)
が主な学習活動として設定されてます。
ところで、この活動をどう教師は見取ればよいのでしょうか。
一人対全体では、話し方や内容をチェックすることができます。
同時、何組もが異なる話題で対話する。(チャッティング)
それをどう見取るか。なかなか難しい問題ですよね。
どうしてますか? やりとりって、たずねて、答えることの繰り返しなので
話題をふる。
聞きたいこと(いつ、どこ、だれ、どうして、どのように、どのくらい
どうなった。)をたずねることになると思いませんか?
原則として、…て、…て、みたいな語りではなく。一文一内容でつながせて
いくことが大事だと思います。
モデルとしてのやりとりを示すことで一つの型を身につけさせることが入門
なのではないでしょうか?他の低学年の先生はどんな工夫をしておられるので
しょう?
どのような話ができたのかを作文させて確認しているんですが…。
2年生ならまだしも1年生だとそれも難しいです。
何かうまいチェックの方法がないものでしょうか? スレあり
基地害と一緒でよければ
↓
日本の国語教育22
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/edu/1227839083/
もっとまともなのと一緒になりたければ
↓
【つまらん?】 国語の授業 【おもしろい?】
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/edu/1132744506/
-----------------終了----------------- 方向が違うので一つお目こぼしを…
というか乱立しちゃってるのは、その人物のせいなので
仕方ないでしょ。 1年生だと、
…で、…て、……。
文末までしっかり話すのと、短い文で話すのを徹底した方がよさげですね。
絵を見せて、短文を作るのもいいですよね。
チーターが走っている絵を見て、
チーターが走っています。
とても早く走っています。
ぼくよりもずっと早いです。
ぐらいの文が作れればいいのじゃないでしょうか。 良スレ。
ありきたりだけどフィンランドや欧米式の言語教育を見習うべきかと。
つまり自分の意見を言う時にかならず理由も言う習慣。
すでに進んだ小学校ではやってるらしい。
主語・述語・目的語を明確に言う。
相手にわかりやすい易しい表現(短めでリズムと論理性のある文)
欧米式のPREP(Point Reason Example Point)を明確にする訓練
この変を意識して
人の前で話す技術
人に解り易く説明・説得する書く技術
これだけで飛躍的に国語力も上がるし、英語力もあがる。
つまり通じる英語力は国語力を鍛えることで実現できる。
日本的な「感動しました」「xxxを見習いたいと思います」的な
優等生的なステレオタイプの読書感想文ばかりでは頭も言葉も
世界に通じないレベルになってしまう。
スレあり
基地害と一緒でよければ
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日本の国語教育22
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【つまらん?】 国語の授業 【おもしろい?】
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-----------------終了----------------- 国語力ってことで許されよ。
PREPはとてもわかりやすい形式ですね。
ただ、レトリックってことを忘れると事務的になりそうです。
日本語がニュアンスのようなものを特に敏感に構成することばですので、
そうならないような「新しいことば遣い」というものが必要だと考えて
います。 Pのところで
わたしたちは、わが社は、わたしは、と主張する人を主語とするのか、
あるいは、マーケットは、自動車は、など対象を主語とするのか、
日本語ではどちらの方が<理解されやすく、興味をもってもらえるのか>
主体意識があいまいな日本では、責任と一体化している主語の意識は、
なかなか根付かない。けれど、それを根付かせることがこれからの力に
なるなら、しなければならない。
そのことを実証する方法がないのが痛い。 「新しいことば使い」はあくまでも日本語であり、翻訳のような、他の
言語の形式に似せて作られるものではないでしょう。
英語は関係を表すにはとても便利なことばです。それは、実は英語と
いうことばが神と人間の関係において成り立っていることばだからでは
ないでしょうか。神に対して、自分は何者であり、何をするのか、何を
したのかを報告するのであれば、主語と述語というあの関係は抜かすこ
とのできないものでしょう。
その英語による世界の破綻が量子です。波でもあり粒子でもある…
そのような表現は英語では非常に難しいのです。現象は物ではありま
せんから。
日本語では(中国語というべきなのでしょうか)色即是空など、
両義的なあり方は物事の根本であるような表現がそろっています。 ですから、説明や関係を表す優れた表現を日本語はもっているし、
もつことができるはずです。
それを「よいことば使い」としてどこまで認知していけるか。
わたしたちは、悪いことば使い、間違ったことばにばかり気を
取られて、正しいことば使い、正しいことばに直すことばかり
指導しているのではないでしょうか? 反語のような表現。
問いかけのような表現から、小学校の説明文は始まってますが、
案外に「よいこと」なのではないかと思っています。
何について話すのか。何のために話すのか。を端的に表現しており、
読み取りの助けになっています。
ただ、例示や実験の組み立てがどうしてその順番なのかがわからない
文章が載っていることがあります。
「花を見つける手がかり」は科学的な説明のよい例だと思っています。
あと、日本言語技術教育学会という組織もあり、教科書づくりも行って
います。
http://www.katch.ne.jp/~gengi-nagoya/
わたしはTOSSERじゃないので分析的授業や言語技術を扱う授業が
まるで向山発信であるかのような扱いはとても残念です。
テキスト分析による授業づくりは各教育大学の有志の教授たちで
進められてきていましたし、その教授がおられる大学では生徒た
ちはその視点で授業をどう作るかという授業を受けていました。
プロパガンダによる看板作りによってこのような研究が全部
向山の二番煎じ扱いされることにはとても遺憾です。教師は、
案外、よい学生だったので、最初の刷り込みに左右されやすい
面をもちます。情報の真偽についても、誰が話しているかだけ
で信用するような面もあります。
一番、情報リテラテシー能力を要求されるはずなのに、一番
身についてないのが教師かも知れません。 よい文章を書くことを子ども自身が目指す仕掛けをつくることも大事です。
句点1っこで500エン。
「」一組100エン
様子を詳しくすることば300円
漢字一文字100円など
くわしく書く。わかりやすく書くためのポイントを点数化して
自己採点させてみるのもよいのではないでしょうか。 日記を書かせることだね。本気で国語力をつけたければ。
もちろん、それに何らかの反応をすべきだが。
学校が当てになる時代は終わった。 この「が」の使い方も日本語の特徴なんですよね。
学校を当てにする時代は終わった。といえることを
学校が当てになる時代は終わった。という。
学校を当てにするは時代にかかる修飾です。ですから、時代は終わった。
が主述です。
ところが、
学校が当てになる時代は終わった。だと、当てになる時代の方が学校に
属するような感覚になります。主述が学校が終わった。に思えてくるの
です。(いえいえ、本当は時代は終わったですよ。)
これも新しいことばづかいなのだと思います。ただ、それがわかりやすい
か、表現したいことが伝わっているか…それを基準に考えなければいけま
せんが。 日記。
これずっと国語教師は言うんだけど、本当にそう思ってるのか疑問。
なぜか。
日記っていうのはもともとスケジュール記録から始まったもの。
宮中は一年中が何かしらの行事が設定されていて、言わば毎日が、
行事とその準備に明け暮れると…えええ、会議とか仕事は?さあ?
ものすごーくエライ人だけが決めてるんじゃないの。(摂関政治)
ってことでこのスケジュール管理がえらい大変だったので、女御
たちが日記を書いて、去年の今日は何をした。みたいなことを、
始めたのが始まり。
それから日本人の日記好きががよくわかる話。太平洋戦争のとき、
二等兵から士官まで日記を手帳に書いていて、占領した後、処理
されてない日記から日本軍の内情がもろバレしていたという嘘み
たいな本当の話がある。
業務日誌が日記なんだよね。その業務がなんていうか日常とか
内面みたいな感じにとらえられるようになるのは、墨東日記とか
あの辺の作家のネタ帳としての日記だろう。はたして、普通の生
徒はそんなネタ帳が書けるのか?書く動機が持続できるのか?
それより、純粋に書く技術を学び、実践する方がいいのではな
いでしょうか? 日記を書くぐらいなら、デジカメで写真を一枚撮って、
一句添えるを毎日やる方が…表現力を鍛えそうな気がします。 自分の書いた文章の質を自分でつかむための指標が必要です。
読んでみればわかるだろ。と思うのは、その指標をもっている人の言うこと
です。多くの人は
「何を書いていいのか」
「どう書いていいのか」
「これで伝わるのか」がわからないのです。 重複のオナニースレウゼーよ!
自分のブログででもやってろ!
日本の国語教育22
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-----------------終了----------------- オナニも芸の内。伊集院光はオナニー新聞作りでお笑いに目覚めたらしい
ですから。 ことばをことばとして使えるためには単語意識がなければなりません。
「ことばは」は一文節(とりあえずね文節って概念を借りましょうよ。)
ですが、単語は二つです。
どうも、ことばをうまく使えない子はことばをカプセルのようなものだと
思っているらしいのです。
ことば=意味のカプセル で わからないことばがあるとお手上げになる。
実はことばは機械のかたまりだと考えた方がよいのではないでしょうか?
しかも、この機械は接続すること、他の機械とつながることによって機能を
獲得し作動します。わたし+はで「わたしは」という機械ができあがります。
そのときの機能こそが問題であり、わたしとは何か、はとは何かが問題じゃ
ないはずです。 このような「ことば観」をもつことは、日本語以外の言語を理解
するときにも役立ちます。
その言語においては「つなぎ方のルールが厳密なのか、緩いのか」
という観点で語順やかかり方を理解できるからです。格変化などは、
つなぎ部分の形状の違いとして理解すればよいのです。
それでも単語という概念を確定することはとても重要になります。 何を書けばいいのか。を解消するのは、
「見たこと、聞いたこと」といい、何かを見せて、聞かせて
書かせるのでいいのではないでしょうか。
同じものを見ていれば、「足りている」「足りてない」
「順序が違う」などの判定が学習者同士でできます。
違うものを見ていれば
「どのくらい」「どのような」「どうして」など学習者
同士での問いかけが「足りない」をわからせてくれます。 [どう書いていいのか」の方が問題です。
一文一内容から徹底して、その文で一番いいたいことをくわしく(修飾)
することをていねいに教えていく必要があります。
ものやことに修飾する場合と、動きや意味、様子に修飾する場合
ではことば使いが違うので、ひとつひとつていねいにやります。
最初の内は一文一段落になってしまっていいとわりきるべきです。
くわしく書くということがわからない子がいる。
学校でみせるのにはふさわしくないかもしれないが
ペキンパーという映画監督の作品がわかりやすい。
迫力を出したいところでは、スローモーションにして
細かい動きまでしっかり見せるという技法を使っている。
中心となる出来事では、スローモーションを意識して書くとよい。
ワイドカメラからズームカメラのような書き方も練習するとよい。
小さな村がありました。
小さな川が流れていました。
小さな橋がかかっていました。
小さな子どもたちが手をつないで歩いていました。
小さな学校へと歩いていました。
その逆もあるが…こちらはなぜか大きくなるのでは
なく小さなものの中に内包されるイメージになりがち
である。これは文と文を相互に関係させる場合。前の文
が因であったり条件であったりするという約束が脳の中
にあるためらしい。 段落構成として、気をつけることは
順接の場合、よほどのことがないかぎり、接続詞を使わない。
逆接の接続詞は多くても二つにする。
段落同士の関係が逆接でも接続詞を使わなくても表現できることもある。
雨が降っていた。
傘は持っていた。
濡れて帰った。
逆接であるが、けれども、を使わなくても逆接は伝わる。 考えを書くというのは、実は、相手に説明をするということなので、
わかりやすさが要求される。
ところが、このわかりやすさをどのような観点から度合いとして
計測するかということが確立されてない。
だから、多くの意見文は思いの発表になってしまい。提言たりえ
ていない。檄にすぎなかったり、感情の同調を強制したりするよう
なことばづかいになってしまう。 そもそも筆者と読者が同じものを見ることを仕組まなくてはいけないのだが、
多くの生徒は、
「同じものを見ている」
「同じ考えを共有している」
という前提で書き始めてしまう。
もしも、そうならば考えを書く=伝えるということ自体が無意味な
ことには思い当たらない。 だから、話題の振り方の修行から始めないと問題意識が
どこかへ散らばってしまう。
ごみを公園に捨てる人がいる。という事実をどう提示するか
どうしてそれが問題かをきちんと自分のことばで言えるように
しなければならない。 説得を説明の目的にするとハードルは一気に上がってしまう。
やりとりのきっかけとして目的を設定するのがよい。
ゴミ箱を公園に置こう。
ゴミを公園に捨てる人がいる。
ゴミ箱があれば、ほどんどの人は自分から捨ててくれる。
落ちているゴミも誰もが拾って捨てやすい。
であえて問題点や質問をふってもらうようにすると、自分でいろんな見方を
するという高度な作業を共同作業にできるだけ楽になるし、いろんな見方の
具体的経験を積むことができる。 このようにコミュニケーションを通して
表現を練っていくということがこれまでは
先生⇔生徒の間でしかなかった。
それは、生徒⇔生徒のコミュニケーションは成り立っている
という前提があったからだ。
しかし、今や生徒⇔生徒のコミュニケーションが一番成立して
いない。
だからこそ、そのコミュニケーションをしくんでいく必要がある。 短時間でもコミュニケーションの練習をする方法はある。
学校ではよく並ぶ。このときの順番を誕生月順、出席番号順、など
お互いの情報を知らないとできないものにすると、お互いにやりと
りしなくても並べない。
条件を一つつけることによって、その行為を引き出すことはいくら
でも可能である。 三森ゆりか(つくば言語技術研究所)はものわかりのわるい親になれ
(教師)になれと
言語コミュニケーション能力を鍛えるためには、分かり合えない相手
とのコミュニケーションが大事であることを示している。
http://garyusha.com/modules/xfsection/index.php?category=119 ものわかりがわるいとは
「紙〜」といわれて
「わたしは紙じゃない」
「何枚いるの」
「どうしているの」
など尋ねかえすやり方である。
子どもの方はめんどくさいかもしれないが…。少なくとも
自分は何をどのくらいどうしてほしいのかを文で考え表現
することになる。
要求とは 何かを 何のために どのくらい どうして 欲しい
を伝えることだと認識することはとても大事なことなのだ。 日本人は自分が何かされたときに
「何もしてないのに」と自分に非がないことを根拠にして
相手の行為が不当であることをまさに小さなころから主張する。
この裏は「相手が悪ければ」何をしかえししてもよいということ
になる。
しかも、相手がどう悪いかは主観的な判断であるので結局は、
相手が嫌いと思えば、相手が何をしてもそれは悪いことになりうる。
その上、しかえしの定量がない。
だからこそ、自分に非はない。という主張を根拠にして相手の非を
主張することのやり方は改めなければならない。
相手の行為は単に迷惑だからだめなのである。その迷惑がなぜ発生
したかは話し合いではっきりさせればよい。自分は悪くないという
主張は不要である。 >>39
アメリカや中国が日本は情けないとかろくでもないとかけなしながら
日本にろくでもない要求つきつけて日本がアップアップして
ほんとはアメリカや中国の要求の方が悪いのになかなか言い返せないあの感覚ね
マスコミが日本人はクソなんだみたいな言い方しながら
マスコミがろくでもないことやってまかり通って
一般人もマスコミが良くないってわかっていても日本は情けない国だと思わせられてしまうあの感覚ね >>40
こりゃまた実によい悪文のサンプルをありがとうございます。
まず一文がやたら長すぎます。
そして、述語が あの感覚ね。と指示語が入っています。
それは、あの感覚と同じである。のような意味であればそう書くべきです。
そして、あのが何を指示しているのかあいまいです。
あのときの感覚ではないことから刺激に対する感覚でなければなりません。
その上で誰の感覚なのかをはっきりしないといったい何が主体なのか
皆目見当がつきません。
アメリカや中国→大国が
日本は情けないとかろくでもないとかけなしながら→日本を侮蔑
しておいて、
日本にろくでもない要求をつきつけて→日本に様々な要求をしてくる。
(一度切りましょう。)
ほんとは、アメリカや中国の要求の方→本当は大国の要求の方?おやこれは変です。
要求の中身が変のように読めますね。
わかりやすくするためには。→要求そのものが
悪いのに言い返せない。どうして悪いのか根拠がありません。→意に沿わないもの
であるのにもかかわらず、それに従っている。
その感じと一緒ですね。
と言いたいのではないですか?ずいぶん穴がある気がしますが…。 >>41
なんか昨今の人間の頭がコチンコチンで思考がうまくまわらない病でうまく考えが話せない 書くことがそのまま整理することなので、14歳の自分にわかるように
書くようにしましょう。
こつは主語と述語の距離はできるだけ近づけるです。
ぼくは、きのう、母さんにもらったおいしいおにぎりを12こも食べて、
その後、パンを5こも食べて、おなかが痛い。
よりは、
ぼくはお腹がいたい。きのう、お母さんがおにぎりを作ってくれた。
おいしかった。それで12こも食べてしまった。
しかも、その後、ついパンを5こも食べてしまったのだ。
と書く方がわかりやすいです。 ああ
>>42
も、すごい悪文ですね。
うまく考えが話せない。という述部にかかるのは、何なのでしょう?
え 考えが 話せない。で主述だと?まさか、そんなことはありませんよ。
ぼくは、とか 日本人はとかがこの上にこなければいけません。 某スレの
かもしれない。 これは そうであるか そうでないかという含みが
かも 疑問の「か」に「も」がついている形だがこの「も」が否定の
意味をもっていることはなかなか気づきづらい。
〜かも。などはそうであったのか!という驚嘆で当然、そうは思ってなかった
という前提において驚嘆足りえる。
問題は「しれない」だがこれを「知れない」とすると間違いである。
これは「する=し」なのである。
これをもって可能性を表す。かもしれないとはそうであることもそうで
ないこともわからないときに使う表現である。
(非常にわかりやすいですね。)
で自分のコミュニケーション技能(表面ばかり取り繕うのがそうだ
と思っていたり、、、いや、、、それじゃあ自分とコミュニケーション
できてないでしょ。)がないことを相手の理解力のなさにしてしまって
はいけない。
どのような学習も大事なのはフィードバックであり、読み手のフィー
ドバックに対して反応できなければ発信者の技能不足であるし、思考力
が足りてない。(実際は結局、自分でも何がしたいのか何がいいたいの
かがわかってないのだ。だから、表面以外のことになったときに対応が
変になってしまう。) 日本人がたぶん一番誤解しているのは<交渉>ということではないか?
相手に自分の主張をどう認めさせるかそのための話し合いだと思ってや
しないだろうか?
もちろん、そんなことではない。
現状の問題を相手と協働で解決する手段が<交渉>なのである。
ちょっとシリーズで考えたい。 交渉の際に大事なのは、
自分と相手の関係がどうなることが大切なのかを意識することであって、
結果としての利得ではない。
相手との関係性がよくなることは一時の利得よりもはるかに大きな利得
である。
ごり押しにはフォローが必要。当たり前のこと。 スレあり
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-----------------終了----------------- いつも気にしてくださりありがとうございます。
基地害とはもう関わりたくないです。
もう十分です。
もう一つのスレの方も実は基地害作成のスレでして、
隔離の隔離というへんてこな由来をもっています。はい。
小難しくするなということですので…ちょっとニュアンスが
チガウンデス。 交渉とは、相手にとっても、自分にとってもベターな何かを見つける
作業です。
おもちゃが欲しいという欲求をただ訴えていたのが、
勉強の役に立つから、DSIを買って欲しい。
冬休みの自由研究にも生かしたい。
買うに当たっては、毎月のおこづかいから500円ずつ
ローンになってもかまわない。
というような主張へと変わっていくことが交渉です。 スレあり
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-----------------終了----------------- 相手に譲歩させることをねらう交渉の弱点
そもそもが交渉=相手との相談が不可能になった場合、どのような選択
が可能なのかがまったく見えない。つまり、脅しのかけあいになり、長期
に渡るチキンレースになりやすい。
その上、それだけが当事者たちに関わる問題ではないので、ロスが大きい。
どちらも予期しないような最善ではなくても目的をもった提案に行きつく方が
はるかによい。
論争(ディスカッション)でも知的生産性を度外視して行えば、ことばと時
間の無駄である。そもそも、その論点を話し合うことが、その論点を含むさら
に大きな問題や文脈にアクセスすることになったり、アクセスする可能性をも
たらすのかということが考えられるべきだ。
あー揶揄は違うよ。揶揄は<態度表明>だからね。
態度をあからさまにすることが得である場合と損である場合がある。
揶揄や罵倒っていうのは<戦略>にかかわる部分で<戦略>はゼロ
サムゲームに関わる考え方です。将棋などね。勝つか負けるしかない
ようなゲームの場合このような戦略的な思考が登場します。
横道ですね。 交渉=価値創造と考えよう。
話し合いによってもたらされるものは<変化>です。
どのような<変化>が当事者同士に必要なのか。
それを策定する作業が交渉なのです。 交渉する際、われわれが陥りやすい一つの罠。
自分が何かの代表であり、だからーーー自分には何でも決める権限がある
[ーーーみんなと相談しなければ何も決められない。
そのどちらもが間違い。
あらかじめ、自分には何を決められて、何が決められないかをはっきりさせて
のぞむこと。
議論においては、そもそも何が論点であり、その論点について自分は何が語り
うるのか、語りえないのかをはっきりさせることである。 演習
クリスマスパーティを自宅で開きたい。
どうして、何のために、どのように、どんなことを手伝って、
…親にも利益があるように説明しなさい。 演習の途中であるが、某スレトンでも議論。
自己なんていうからわけがわからなくなるアートマンだと考えれば
簡単なこと。
心理学的にいえば、心理学っていうのは社会的な意識を扱うもの。
無意識でさえ、それが社会化されていないものとして扱っている。
ありとあらゆる認識が社会的な文脈によってなされると考えるのが
心理学の心理に対する基本理解である。
一方でユングだとかはその社会化が可能であるのはなぜかという
問いに答えるために心理学の枠からはみ出した研究領域である。
で<自己>という概念を持ち出すのだが、これブラフマンとアートマン
との関係を翻訳したものだ。
アートマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3
は人の側からみたもの
ブラフマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
は自然の側からみたもの
梵我一如こそが現実の状態だと考える。
で梵我一如に至ろうとすることをユングは自己実現といったわけね。
これは社会的自我=パーソナルティ=ペルソナとの関係で自己をと
らえるときに人の行動動機(なぜ、人は不合理なことをするのかの
説明)を考えるとこう説明するしかなかった。 >>57
これは臨床心理学の説明ではあるな。
実験心理学(行動心理学)は、科学的であろうとするがゆえに科学的で
なかったりする面もある。
心理というものが物の運動から導き出されるものであるかどうかわからない。
実験心理学が観察という素朴な手法よりもどれぐらい上等かは眉唾であると思
う。 横道解説。
第一「超自然的自我」ということばがユングがどうのなどという
ことで考えられてもしかたがない。
ことばをカプセルとして考えている。
ことばは機械である。連結することによって作動し、その機能が
定められるのだ。
で、コミュニケーションの齟齬が起こってる。
ことばを文脈で読まなければいけない。という主張の例にむかって
学問的にその例には意味がない。というようなことを言ってる。
その結果、文脈で読むことの方法やことばの機能の定め方という
問題にアクセスせずに、どちらがより<知ってるか>というような
問題にすりかわっている。もちろん、そんなことを立証するために
ディスカッションすることは無意味である。
(超自然的自我ということば自体は確かにナンセンスだと思う。
だけれども、そういうことばを使って何かを表現した文章がある
としたら、その文章の主張はそのことばを使って読み取るしかない。) 演習にもどる。
この演習では、客観的な要求の表記、組み立てということを意識しなければ
ならない。
つまり、何のためのクリスマスパーティなのか
どうしてしなければならないのか。(←したいではない。)
そのために、何を協力してほしいのか。
そのことを自分で自覚することが交渉の第一歩だからだ。 某スレ。
ポッカーン。
ハア。
「何をどう知ってるか」の比べあいじゃないというメッセージに対して
「きみは何も知ってはいない。」なる応答はコミュニケーションとして
成り立つのか?
自我とは何かなんてことはその文章の中で考えるべきことで、別に
オっペケペーだろうと、スットコドッコイだろうと関係ない。
でなければ、蘭学事始での翻訳が成り立たない。
キャッチボールができないのにどうやって教えてるのか。 某所の議論。
あまりにも当たり前のことに気づいてなくそこに突っ込みを入れてない。
「すべてが知識」だとして、じゃあ、その「知識をどう身につける」
→本を読め。辞書を引け。
読むことは知識(スキル)である。知識(インテリジェンス
情報)がなければ成立しない。なんてことを言っても仕方がない。
じゃあ、それをどう身につけるのか、読むことによって…。
どう読むのかを指導するのが本当である。 まだまだ、ことばを(意味)みたいなカプセルだと思っている人が多い。
そうではない。
ことばは機械であり、そのつながり方やどの箱からその機械を取り出したか
という<つなぐという行為=言語使用>こそが意味を成り立たせるのである。
一つ一つのことばはそれぞれ異なる箱に入っている。何かを表現したいとき、
われわれは、その何かが属する部屋の中にある箱から何かを表すのに適当な
機械(ことば)を取り出す。
この部屋や箱を社会的文脈という。これはその機械が、これまでどのように
つながれてきたかによって分類され格納されているのだ。
どの部屋のどの箱から取り出したのか、ひとつひとつの機械には番号や矢印が
ついている。 文という機械はどのような機械のつながりなのだろう。
文には機能別に二つにわかれる。
何がどんなだ。(何はどうだ。何が何である。)
何がどうした。(何が何をどうした。)
の二つである。ここで文ではなく、メッセージとしては、何というだけで
成り立つ場合。どんなだ。や、どうする。だけで成り立つ場合がある。
が、それでも、あくまでも理解の途中では文として処理されている。
だから、この二つの文の形、形式、パターンこそが基本になる。 何がどんなだ。何は何であるという文を存在文(仮)とする。
何がどうする。何がどうなる。という文を過程文(仮)とする。
どのような文章であってもこの二つの文からできている。
存在文は関係を表し、過程文は変化(時間、空間など)を表す。
したがって、小説、物語などは過程文によって綴られることが多い。
一方、論説文は存在文で綴られることが多い。
そして、われわれは日常では存在文よりも過程文によって自分の考えや
状況を判断することが多くはないだろうか?論説文などの存
在文を読み取ることが経験的に少ないのではないのか?
それゆえに、論説文の文構成の形式を身につけないまま、そこで使われて
いることばにつまづいて立ち止まってしまうのではないか?
花は美しい。も、植物は光合成によって二酸化炭素を固定する働きを自然界
の中ではもっている。どちらの文も実は構造は同じなのだと読み取ることがで
きないのではないだろうか? /⌒⌒ヽ
`_//⌒⌒\\_
`ヽ_/⌒⌒\_/
| / \ / |
|/ ゚ ,゚ /
(6 ιつ /
| / __\
| / 山 ̄
|  ̄ ̄/
昔はこんな感じの学校の先生が多くて授業でひたすら黒板に字を書いて
よくそれをノートに写させられたっけ
ノートを取るのにモタモタしていたら先生が近づいてきて
「書くのが遅い」などと言っていきなりアタマを叩かれたりしたものだけど… いまは「黒板を消すのがはやい」と言って
保護者の苦情をうけた校長に諭される始末。 【衝撃の】 天皇家は韓国系 【真実】
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1228918702/
天皇陛下 日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。
韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。
日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。
私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。
ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,
それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。
http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h13.html
宮内庁ホームページ 国語科をどのように教えるか。
よりも、
もはや、一人一人のソーシャルスキルの低下をどうふせぐかという
次元に公立校は立っていると認識した方がよい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%8A%80%E8%83%BD 昔と違って見るのは映像が主体になってしまってる。
活字を見る習慣もっともっと。 >>66
そもそもお前の文章わかりにくいんだよ
独自の用語使い過ぎだし、例えがわかりにくいし
内容が抽象的だし、おまけに長い!
>>81
効果はあると思うけど今の子供は本当に活字の本とか読まないからなー 先日のこと、
オレ;「明日から“大造じいさんとがん”をやりま〜す!」
児童;「え〜っ! こういう所は、せんでええんよ〜 4年の頃は飛ばしたし〜」
児童;「○○小学校は、もう下に入っています!」
オレ;「やると言ったら、やります! 先生は“大造じいさんとがん”が好きなんです!!」
たしかに、巻末のページで、新出漢字もカラーテストもない。
しかし、こんな名作をせずして、「ニュース番組を作ろう」みたいな
愚にもつかないことを延々とさせるのはいかがなものかと思うぞ。 そうそう! 東書なんですよ!!
東書は、名作嫌ってるとしか思えない。 学図の国語はページ数が厚く、そうした表現のものは少ない、読書教材が充実している。 国語力が低下しているのは子供だけじゃない
たとえばある政治家の一言だけを抜き出して問題発言だとか言う記事とかよくあるけど
本当にその人の話を最初から最後まで聞いていたら問題発言だと解釈するほうが間違っていることとかも多い >>83
文学一辺倒だった国語教師に、「ニュース番組を作ろう」みたいなことをさせるのは確かに愚にもつかないが、
そういう試みは当然あって然るべきだと思うよ
ただ、明らかにやり方がまずいw
国語=国文学でないという考えは大いに賛同するが・・・ >>90
実際にやってみりゃわかるけど、ニュース番組づくりは、一部の優秀な子どもが
あまり一生懸命にならず、大した発見もないままそこそこ良い発表を作り上げ、
大多数の子どもが、苦労してデキの悪い発表に何とかこぎつけるという構図に
陥りやすい。
数多くの実践例を見てきたが、そこそこに良い発表のできていたクラスは
例外無くかなりの指導をしこまれていた。むしろ限られた時間数の中で
一般的な労力程度でできる実りある教材がほしい。つまりコスト意識の
問題。たしかに教師側が研究を重ね、しっかりと指導を行い、ビデオカメラの
準備や取材先の確保などをきちんとやればそれなりの授業はできなくもないが
そもそもビデオカメラを準備してるヒマがあれば、算数の具体物を作成している
ほうがよっぽど有効な時間活用に思えてならない。 国語の学習指導要領作ってるやつって、
現場を見る目のなさが他教科に比べても群を抜きすぎているよなw 昨日の「クローズアップ現代」で、昨今の国語力の低下のことをやってた。
前半は、「たしかにそういうことあるな〜」と思って見てたのだが、
後半は、対策として筑波の言語教育研究所の言語技術の実践を取り上げられたのを見て、
「あらら〜 そっち行ったかぁ・・・」と思ってしまった。
そもそも国語表現みたいに、大学であまり専門的に学ぶ機会のないものまで
国語の科目にしちゃうのがどうなんかなあと
例えばスピーチを学ばせるにしたって、最近の国語教師はそうでもないけど
文学オタクにありがちな引っ込み思案な奴が国語教師になっちゃったとして、
そんな奴にスピーチを教えてもらいたいって普通は思わないよw 読解をていねいにやって語彙を増やすことなく、表現(特に「話す」)をしても
だめだよなぁ・・・・ 唐沢俊一ホームページ 裏モノ日記
http://www.tobunken.com/diary/diary20061114172636.html
>ただし論としての危弱なポイントも指摘してくれていた。参考になる。
http://www.wdic.org/w/WDIC/%E5%8D%B1%E5%BC%B1
>危弱
>辞書:通信用語の基礎知識 通信俗語編 (CZYOGO)
>読み:きじゃく
>品詞:名詞
>脆弱(ぜいじゃく)のことらしい。脆弱をゼイジャクと読めずキジャクと誤読した上、
>漢字までそれにならって間違ってしまった例。
>そもそも正しくゼイジャクと入力出来ていれば、このような語は間違っても出てこない。
>そう、意識的に "きじゃく" と入力した結果が危弱なのである。弁解の余地はないだろう。 唐沢俊一ホームページ 裏モノ日記 2002年10月26日
http://www.tobunken.com/diary/diary20021026000000.html
>つつしんで冥福をお祈りし、あわせて出版書律に、(略)
唐沢俊一ホームページ 裏モノ日記 2003年9月8日
http://www.tobunken.com/diary/diary20030908000000.html
>メールボックスを見たら、書律『宝珍』からメール。
おいおい「書律」って???????
書店(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E5%BA%97
>書店(しょてん)は、本(書籍、雑誌)の小売店や出版社、卸業者である。本屋(ほんや)とも
>呼ばれる(古い時代の呼称に書肆(しょし)というものもある)。 ニュース番組を作ろうという教材を否定する教師は、いつも、目の前の
授業を適当にこじくりまわして形だけなんとかするということの繰り返し
だけやっている。
一年間なり、6年間の指導計画があって、あらゆる教材は配置されている
ので、その教材のねらいをきちんとひとつひとつ積み上げることが大事だ。
はっきり、スラスラ、ゆっくり、大きな声で言える低学年を育てなければ
何を言うというスピーチの内容へ入っていけない。中学年でも
「声が小さい」という指導を入れなきゃならないとしたら、2年間が全くの
無駄ということだ。
本を読む=言語活動というのは単に自分がそうやって国語という授業を
すごしてきたからにすぎない。何のために何の本を読むのかという次元を
主体的に読書指導としてする視点がない。(たかが、小学校教師にそんな
こと考えてる人間はいないと文科省の人間はいうかもしれないが…) 負け組の教育論なんて聞きたくねー
自分の教育もできねーヤツが、人様にあれこれいうな!
もうしわけないという謙虚さをもって遠慮せよ!