体罰の源流は軍事教練

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 4. 学校教育と軍隊教育の結びつき
 学校教育が軍隊教育とどのようにして結びつくかということについて、佐藤秀夫は次のように述べている。
「近代的な学校が、全国民を対象にした低コストの教育をするためには、どうしても集団的な教授の形態をとる。はみ出る人間にはびしびし懲戒を加える必要が発生するわけです。
集団的な統制、規律というものが近代公教育に不可欠であった時代には、日本の場合も欧米の場合も、その直接のモデルは、軍隊に求められました。
ですから、軍隊の集団規律がそのまま公教育の学校に入ってくる。」このように規律維持を契機として、軍隊教育の方法が学校教育に入ってきた、という。
 日露戦争後は、今までの兵学の常識を越える軍事力が必要であり、「総力戦」であることを戦陣訓として残した。
また国内には厭戦気分があり、兵士の逃亡も相次いだため、軍は国民に服従の観念の徹底をはかる必要に迫られたのである。以後一貫して軍は教育に要求(干渉)するようになる。
その点で、臨時教育会議での教育政策の方策は、その後の教育に対する影響は大きく※、1917(大正6)年の「兵式体操振興ニ関スル建議」も1925(大正14)年には、
文政審議会が学校における軍事教練の実施を可決し、同年の文部省と陸軍省の覚え書きにより、体操科主任に配属将校をあてることになった。
「陸軍現役将校学校配属令」がこれであり、これにより現役将校が学校に入り、軍の教育への主導権が確立した。
※久保義三著『日本ファシズム教育政策史』41頁(明治図書 1969年)によれば、審議会には軍部の代表である 山梨半造中將が財閥の代表や右翼の代表とともに会議に列し、発言権を持ったことが書かれている。