瓜生山との関係を断ち切ったとしても、創立時の黒歴史は消せないだろう。
その点、相手(徳山某)のほうが何枚も上だったわけだ。
乗っ取り阻止したと自慢している場合じゃないぞ。

東北芸術工科大学生い立ちの記   徳山詳直
 最初にみえたのが、山形市の助役をしておられた渡部さんとおいう方で、蜂谷という青年を伴って京都へまいりました。
「山形に学校を誘致したい。あんたとこの学校はどうだろうか」という話を持ってこられました。
最初はご多聞にもれず地方自治体が地方活性化のために大学を誘致しようという動きだと思っておりました。
当時、全国いたるところに、ほんとうに雨後の筍のごとく大学誘致の運動が盛んでありましたから、私はそういう一連の話のなかの一つだろうと思って、ほとんど問題にしませんでした。
地方自治体が、地方の活性化のためにというような名目だけで、いわば工場誘致と同じレベルで大学を誘致するなどということは、バカげていると、じつは私は真剣にそう思っていたし、いまもそう思っております。
ですから、この話にはほとんど耳を傾けませんでした。
 ところが、この人はなかなか誠実な方で、忍耐強く何度も足を運ばれて、これからの大学はこうあらねばならないんだという私の拙い意見をじっと耳を傾けて下さいました。
「そういうことなら面白い。本気で取り組んでみるから協力してくれないか」という話をされてから、やがて金澤市長さんが、何度も京都まで、お見えになりました。
 そうこうするうちに、県の副知事をしておられた高橋さんという方が、また熱心に、市長さんを伴ったり、あるいは単独で京都にこられました。
私は熱意に、だんだんと感じいってまいりました。
  (略)
 したがって、私どもはほんとうに地位もいらないし、名誉もいりません。
ただここに素晴らしい大学ができてくれれば、そして京都の私どもがつくっている大学と、本気で腕を組んで、スクラムを組んで、
日本の新しい芸術作興のために、民族の歴史のために役立つ大学ができれば、それでよしと、思っております。