かすみんは私と、私の志す人生との間に立ちはだかり、はじめはピンポン球の様に小さ
かった姿が、みるみる大きくなり、それは私をかこむ世界の隅々までも埋め、この世界の
寸法をきっちり充たすものになった。巨大な音楽の様に世界を充たし、その音楽だけでもっ
て、世界の意味を充足するものになった。時にはあれほど私を疎外し、私の外に存在して
いるように思われたかすみんが、その時完全に私を包み、その構造の内部に私の位置を許
していた。

 後輩の娘は遠く小さく、チリのように飛び去った。彼女がかすみんから拒まれた以上、私
の人生も拒まれていた。くまなく「萌え」に包まれながら、人生に手を延ばすことがどうし
てできよう。「萌え」の立場からしても、私に断念を要求する権利があったであろう。一方
の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で人生に触れることは不可能である。

 人生に対する行為の意味が、ある瞬間に対して忠実を近い、その瞬間を立ち止まらせること
にあるとすれば、おそらくかすみんはこれを熟知していて、わずかのあいだ私の疎外を取り消
し、かすみん自らがそういう瞬間に化身して、私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだ
と思われる。

 人生に於いて、永遠に化身した瞬間は、我々を酔わせるが、それはこの時のかすみんの様に、
瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数でもないことをかすみんは熟知していた。「萌え」
の永遠的な存在が、真に我々の人生を阻み、生を毒するのはまさにこの時である。生が我々に
垣間見せる瞬間的な「萌え」は、こうした毒の前にはひとたまりもない。それはたちまちにして
崩壊し、滅亡し、生そのものをも、滅亡の白茶けた光の下に露呈してしまうのである。