どろろの過去回で、幼いわが子に食べ物をあたえようと、
施しの熱い粥を掌に受ける母、というのがある。

これは原作でもすごく心に残る場面だった。

母は、自分の食べるぶんも子に与え、飢えと病で行き倒れる。
母に守られていたどろろは生き残る。

こどもを生かすために、身を挺する母という構図は
古今東西、普遍的な感動があるテーマだ。
動物にすらそういう行動が見られることがあって、それは美談として紹介される。

自分達は、なぜか理想の母性というものを知っている気がする。
聖母か女神かってくらいの完全な母性存在というものを、心がどこかで知っている。

だから聖母子の姿、物語は時代も場所も文化も問わず理解され支持される。

キリスト教が布教時代に、土着の地母神信仰をマリア信仰にすり替えて
定着していったのも上手い戦略だ。

現実の母というのは、一人の人間だ。ひとつのパーソナリティだ。
大人になって省みれば、良い母であったとしても聖母でも女神でも有り得ないとわかる。

しかし、どんなに成熟した大人であっても、
幼少期は言語もなく生活力もなく、ただ母的存在の庇護によって生きていた期間がある。

その時にあったことは幼い認識では把握できないまま、
言語化も、分類も類推も比較検討もされないまま、
そのまんま心の底に横たわってたりするんだな。
幼児性健忘というベールをめくればまだそれはそこにある。みたいだ。