ハウルの動く城を解説したい
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金曜ロードショーで何度目かのハウル見たけど、初見の時は色々わからなかったことが今回は完璧に理解できた。 小説の原作のほうでは明確にソフィも魔法が使える存在である、という描写がある。
モノに命を与える魔法だったかな。物語が進むにつれ自分の魔法に気が付いていくんだけど、
宮崎駿のハウルではあえて言わないんだろう。
とにかく、ソフィも作中で何度も魔法を使うが、その多くは「魔法を解く」魔法だ。
荒れ地の魔女が「私は魔法をかけられるけど、解けない魔女なの」というセリフがあるが、
それはソフィは逆の「魔法を解除、あるいは中和する魔女だ」ということを示していると思う。 冒頭でソフィは妹や母と対照的に描かれる。
容姿からして華やかで人気者の妹、地味な格好で自分は「長女だから」というソフィ、
「自分は美しくない」というコンプレックスでガチガチのソフィだが、
老婆になって家の外へ出た瞬間から彼女はノリノリでばーちゃんとして生きはじめる。 カルシファーがソフィをみて「こんがらがった呪いだ」みたいなことを言うが、
それはソフィが無意識で老婆であることを望んでいるから、そういう事になる。
老婆であれば美しいとか美しくないとかいうコンプレックスから解放されて、
長女だからと守っていた家も出て憧れたハウルに会いに行くこともできる。
実は老婆であることはソフィにとってはいいことづくめな状態なのだ。 眠っているときは娘に戻っていたり、
「私なんて美しかったことなんて一度もない!」と本音を吐き出せた後では、
90代くらいから中年くらいまで背筋が伸びていること、
ハウルに「きれいだよ」と言われた瞬間、それを拒否して娘から老婆に変化することなど、
老化の度合いはソフィがコンプレックスを感じている度合いとシンクロしている。 サリマンの前で堂々と持論をぶちかます時はぐんぐんと若返るなど、
自信をもって本来の自分を表現できる時は、本来の姿に近くなる。
荒野の魔女の呪いはかなり初期の時点でソフィによって解かれており、
後はソフィの無意識が老化の度合いをコントロールしていると言える。 そしてハウルもまた作中でころころ恰好が変わる。
これも全部意味が読み取れたと思う。 ハウルの課題は「支配する母性からの自立」だ。
千と千尋 で描かれた坊と油婆の関係とも通じるものがある。 油婆は坊を建物のてっぺんの一室に閉じ込め「おんもに出ると病気になる」と吹きこむ
外での経験で成長できない坊は赤ん坊のまま体ばかり大きくなった文字通りの「でっかい赤ちゃん」だ。
母親が婆ぁになり、赤ん坊が成人にならずあそこまででかくなるのには相当の年月が暗示されている。 サリマンはハウルに後継者にしようとするが、
ハウルはそこから逃げたという。
しかしハウルがどのくらいサリマンの影響下にあるか、
あるいはどのくらい自立しているのかが、恰好で分かるようになっている。 物語冒頭でハウルは金髪だが、それは実はサリマンの趣味だ。
サリマンがわらわらと同じ顔の金髪おかっぱ少年をはべらせているのを見て
薄気味悪いと思ったのは自分だけではないはず。 ハウルの本来の髪色は黒なのを、金に染めている。
ソフィが棚をいじってオレンジや緑の髪になるが、
金でなくてはならないのだ。サリマンの好みの金髪でなくては。
「美しくなくては生きている意味がない」はハウルの名言だが、
正しくは「サリマン先生の望む自分でなくては、生きている意味がない」だ。
髪なんか染めなおせばいいだろうに、ゲルが出るほどハウルが落ち込むのはそういうことで、
しかし、それもソフィの魔法なのか、以降ハウルの髪は本来の黒だ。 城の温室でソフィがサリマンに啖呵をきった後、ようやく出て来たハウルはサリマンと一戦交える。
おそらくは初めての師への反発だったのだろう。
そして動く城に帰ってきて「引越しをしよう」と言うハウルの恰好は冒頭とは全然違っている。
サリマンの趣味(サリマンの恰好も宝石もりもり)の金髪カラフル派手外套から、
黒髪、白シャツ、黒ズボン。形はオサレだが超シンプルである。 ハウルのサリマンへの態度は、
ひたすら逃げ回る から
疑似家族を守るため戦う に変わる。
しかし「支配する母性」の象徴サリマンはめちゃめちゃに強力だ。
国家間の戦争をコントロールし、雑魚魔法使いをいくらでも使い捨ての駒にしてくる。
鳥化や飛行機を落とすような魔法は使えば使う程、人間に戻れなくなるという代償が伴うので、
ハウルには勝ち目がない。 このへんで、初見の時はこの戦争をどーにかこーにかしていく物語なのかと思ったんだよね。
ナウシカとか、もののけ姫とかみたいな、
激しい戦闘シーンとか価値観の衝突とかそういうカタルシスがあるのかと思って見てたら、
過去に戻って「未来で待っててー」とか当時はポカーンだったわ。 でもハウルのテーマは、コンプレックスの解消とか、精神的な自立とか、
そういう内面的な葛藤の昇華にあるんだよね。心理学とかそういうジャンルの物語なんだ。
だからソフィーはハウルの深層心理の底へと降りていく、という展開になる。 宮崎駿の作品には、よくトンネルをくぐる的なイメージが登場して、
それが意味するものは色々あるけど、
ハウルの場合はハウルのごちゃごちゃした私室の扉の奥がそのトンネルで、
ハウルの顕在意識・無意識、その先の集合的無意識、更にその先の神秘的領域・・・
と続くもので間違いないと思う。
ソフィーはヒンとハウルを探しにそこへ向かう。そんなとこに探しに行くわけだから、
もうそれは通常の自我とかじゃなくて、
存在の核とか、アートマンとかそんなレベルのハウルなわけよ。 そこでソフィはハウルとカルシファーの核となる出来事を見る、
見る、とか気が付くって事が心理学的なプロセスではすごく重要なことで、
気が付いて、自覚すればそれだけで問題行動とかが解消してしまうこともあるくらい。
そしてソフィはハウルに心臓を返して「そうよ、心って重いの」と言う。
これはハウルの解離していた心を本来の円満な状態に昇華したってこと。
そうすると何が起きるか? 支配のつけいるスキがなくなる。
だからサリマンは異様なほどあっさり引き下がるんだよね。 ここが宮崎駿天才すぎる所なんだと思うけど、もうちょっと解説していくと、
普通の物語だと主人公の意識が、
ひたすら逃げ回る から
なにかを守るため戦う にシフトしたら、
もうあとは戦って戦ってなんとかして勝つ!
以外にはパターンがないと思うんだけど、それだと
あの「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!」のやつみたいに、
二項対立のレベルを超えられない。 支配したいサリマンと支配されたくないハウル、の構図だと、
それはどこまでいっても対立であって自立ではないわけだ。
だから対立のうちは決してサリマンは諦めない。
勝てばハウルを支配できるからね。 結局「支配する母性」が成立するのは、
「サリマン先生の望む自分でなくては、生きている意味がない」
みたいな、母性に認められたい、愛されたいという欲求があるからなんだよね。
他者に愛を求めると、代償に支配されることもある っていう。 あと作中に代償のある魔法と、代償がない(ように見える)魔法が混在してるよね。
「宮殿には爆弾が落ちないが、代わりに周りの街に落ちる、魔法とはそういうものだ」とか、
千と千尋でも 油婆が契約書を持って「そういうきまりなんだよ」と言うところがあるけど。
そのへんも宮崎駿は確信を持って描写してると思う。
代償のない魔法があるってことも、魔法の力がどこからくるのかってことも。 流れ星が地上に落ちて力を失う前に捕まえて、契約で使役するっていうイメージにも原型がある。
そして、ソフィの代償のない魔法でなら契約が終わってもカルシファーは新しい存在になって戻ってこれる。 なるほど、面白いし納得です
まだ続くのかな?もし最後だったら終わりってレスして欲しいな やっぱりこの物語の秘密の部分は文章にしようとすると難しい。誤解を招きやすい表現になる。
だからクリエイターは小説とか映画とか、物語で伝えようとするんだと思った。
先にもう少し分かりやすいところの話をしよう。名前の話とか ソフィっていうのはギリシア語で知恵のこと。ハウルってのは叫ぶってこと。
ソフィは理性や知性、ハウルは本能や情動 を表すような名前になってる。
サリマンは支配する母性だったりと、キャラクターたちはそれぞれ心の一部や働きを示している。 荒野の魔女が象徴しているのは 欲 だね。ずっとハウルの心臓が欲しいと言ってる。
マルクルはマーキュリー、ヘルメスとかギリシャ神話の神様だと思う。
この神様は伝令とかメッセンジャーの側面がある。
マルクルは、寄せ集めでバラバラのメンバーの間をつないで疑似的な家族にまとめる役だ。
家族の機能というか基本に子供を育てる場ってことがある。マルクルという「子ども」がいることで、
ハウルは父、ソフィは母、荒れ地の魔女は祖母、そしてペットの犬という役割が割り当てられて、
家族としての見た目になる。 初見の時は、ハウルが唐突に荒野の魔女やヒンまでまとめて家族、
と呼んだことに違和感があったな。いやそいつら敵だから!と思ったわ。
でもハウルの心はそれが必要な段階だった。
ハウルのスタンスがサリマンから逃げる、から対決する、にシフトした時、
ハウルはまだ人格が円満な状態じゃなかった。
心に欠けがあってサリマンへの思慕と恐怖もあった。
だからなにかそれらしい理由をみつけて自分を鼓舞しないといけなかった。
そこに家族に見えるメンツが揃ったから、家族を守るのが自分の戦う動機だ、
と思い込んだわけ。 今回の金ローで見た時、荒野の魔女ってマツコデラックスみたいだなーと思ったけど。
この映画が公開した時はまだマツコいなかったよなあ。 ソフィがよぼよぼになった荒野の魔女を連れてきて、受け入れてしまうのにも意味がある。
荒野の魔女は、人の欲の象徴だ。
欲ってのは厄介なもので、切り捨てようとしたり、見ないふりしたり、抑圧したりすると、
思いもよらない形で表出して問題行動になったり、暴走したりする。人格をいびつにすることもある。
知性によってあきらかにし、理性によって制御することで、
ポジティブな原動力として、心になくてはならない素晴らしいものになる。 ソフィは欲たる荒野の魔女を自らの内に招き入れる。
目を離した隙にカルシファーとハウルの心臓を一度は獲られちゃうけどね。
そして荒野の魔女は力ずくでは決して心臓を離してはくれないんだ。
ガッチリかかえこんで、燃えても引っ張っても水かけても事態が急変しても
城が足場だけになって崖の上をフラフラしててもおかまいなし。
欲求のもつ力というのは盲目的でそれだけに強力なのがよくわかる描写だ。
すべてを理解したソフィが抱きしめることで、はじめて手をはなしてくれるけど、
欲が、知と理、そして愛によって昇華され正しく人格に統合される
なんて高度な心の動きをこんな風にキャラクターで表現できるとかさあ・・・
駿マジやべえよ・・・これを毎年のようにタダで見れるとかここはとんでもねえ国だよ・・・ だんだん長文になるな。まだ自分の中でも理解が足りないから、短くまとめられないのかも。
「解った!」っていう感じはしてるんだけど。
ここから更に文が混乱するかもしれないけど、
動く城のドアの、円盤と鍵穴の上の 黒 が示すものや、ソフィの魔法について書いてみたい。 ここからは心理学的領域の先の、神智学とか、
スピリチュアルとかニューエイジのなかでも高度な概念の領域になってくる。
だから抵抗を感じる人も多いはず。
だから駿はメッセージを物語に託してそれ以上を語らないんだと思う。 千と千尋でリンと釜爺が
「なにがどうなったの?」「分からんか、愛だよ、愛」
というやりとりをするけど、
あれはじいさんのセンチメンタリズムとか、情感もあるけど、それ以上の意味もある言葉で、
今から書こうとすることも、結局まとめるとその一言で済む、という気がしてる。
解る人には解るし、解らない人の心にもなにかは残る。それでいい、というわけだ。 ソフィが子供に「そうさ、この国で一番こわ〜い魔女さ」という場面があるけど、
これって実は本当っていうか、ハウルよりサリマンより一番高等な魔法を使うのがソフィなんだよね。
なんで高等かっていうとそれは代償のいるレベルを超えているから。
もっと言うとそれは、魔法以上の 創造 のレベルだから。
だから宮崎駿は作中でソフィが魔法使いであるとは決して言わない。 1はよく分析出来てると思う。
俺は原作読んでないんであれだけど、
荒れ地の魔女は何故、ハウルに執着し、何故、心臓なのか。
魔女は「若い子の心臓はいい」と言うんだけど、これらは単純に、若くてイイ男が好きで、対象の根源を欲するという、悪魔的な感覚として捉えていいのか。それだとちょっと安直な気がする。
ラストで心を取り戻したハウルが、俺の記憶の限りでは、それまでと同じソフィの白髪を見て「綺麗だ、星色に染めたね」と言う。
これらが分からない。
それからこれは ながら見で分からなかったんだけど、老いた魔女が先生から贈られた葉巻を吸う、この葉巻の効果と、葉巻を吸った理由について教えてほしい。
ついでに ソフィが過去に遡って、ハウルとカリシュファー?に「未来で待ってる」と言う。彼らと目が合うんで気がついてるはずなんだけど、
このシーンの意味は?ドラマチック狙いなだけ?原作にはあるのかなこれ。 魔法は代償が必用と言う人があるけど、それは悪魔絡みの私欲を叶えるための魔法に限られるんで、代償うんぬんは作中で言及されていないと思うんだけど。原作読んでないんであれなんだけど。
また、どなたかが、解除の呪文はソフィのオンリーみたいに書いてた気がしたが、先生は荒れ地の魔女の魔力そのものを解除したわけだから。 ソフィが作中で使ったと思しき魔法は、まずカルシファーの守りを解いて動く城に入る、
老婆化をコントロールする、ハウルの深層心理やその先の領域にアクセスする、
動く城を解体する、カルシファーに水をかけても死なない、
もうほぼ力尽きているハウルにキスをしてカルシファーのところへ移動する、
キスでカブの呪いを解く、などまだまだあって、
なんなの万能なの?、
ご都合主義乙wwつまんねwとか思ってた。初見の時は。
はっきり代償があったのは髪を与えてカルシファーの力を増したとこと、
あと、星の色に染まったという髪。
これは「どうかカルシファーが千年も生き、ハウルが心を取り戻しますように」の代償だろう。 お、長めのレス、というか質問が来た。
じゃ、さきにそっちの答えられるやつから書くね 荒れ地の魔女は 欲 そのものの権化と理解すればいいと思う。
欲しいったら欲しい、手に入れるまで欲しがる。ていう行動原理なんだ。
なぜ、とか手に入れてどうする、は知性とか理性に属してくる。
きっと彼女は欲しいという思いが生まれた瞬間からもう盲目的に欲しい!しかないキャラ。
王様とかサリマンへの執着もなんか、50年待った、とか言ってたじゃん?
50年だよ?まあいくつかは知らんけどさ。
コントロールされない欲が人を執念、執着、妄執のかたまりにしてしまうっていう例でもある。 葉巻は、サリマンの作戦では。
サリマンは荒地の魔女がハウルと一緒にいることを知っている。
荒れ地の魔女がハウルの心臓が欲しい事も知っている。
で、ソフィの母を使ってハウルの居場所はわかったけど、
カルシファーの守りが強くて、使い魔を送り込むことができない。
だから荒れ地の魔女と葉巻を使ってカルシファーを弱らせようとした。
荒れ地の魔女は疑似家族のなかに組み込まれてるけどさ、
別に味方になったわけでもないんだよね。かといって敵でもないのがミソなんだけど。
ハウルがピンチになれば心臓を手に入れるチャンスだから、
「これでカルシファーを弱らせなさい」というサリマンの誘いに乗ったわけ。
でも覗き見は気に食わないから黒い虫は「カルちゃん燃して」と。
その虫もカルシファーを弱らせてたね。 なんでハウルとハウルの心臓に執着するのかと言う問い。
葉巻の流れはそんなだったんだね。
魔女の意識がだんだんしっかりするのは、ソフィの魔法だよね。
原作ではソフィは魔法が上達すると書いてたけど、どういう魔法を使うようになるの? 「未来で待ってて」のあたりは丁寧にやりたいからちょっと待ってほしい。
で、自分めっちゃ何回も代償って言葉使っててごめんだけど、
それは解説だからであって、作中にはそういうモロな言葉の表現はないね。
物語だから言及はなくて、暗示やメタファーがあって、
それを読み解いていくってことを今やってるつもり。野暮っちゃー野暮な話ではあるけど。
王に扮したハウルが言う
「サリマンの魔法でこの城には爆弾は落ちないが、代わりに周りの街に落ちる、
魔法というのはそういうものだ」
これね。これ大事なセリフ。
宮崎駿が魔法をどういうものとして描いているか、
そして実は、その魔法を超えるというレベルについても描かれている。
そんな話をするのはまた明日になりそう・・・。
ハウルと荒れ地の魔女の出会いについては描かれてないから、
何があったかはわかんないし、そこはおはなしの本筋じゃないから描かれていないんだと思う。
自由に想像していいんじゃないかな。
原作は自分もうろ覚えっていうか忘れたごめん。でも映画とは全然違うよ。 悪魔絡みの私欲を叶えるための魔法
あー、そういう事を言ったのはサリマンだよね。
それはサリマンの話術っていうか。
まあ事実なんだけど、本当のことを全部は言ってないっていうか。
そこもなるべく書いてみる、また明日ね。 これからもたまに質問とか、自分なりの考察のレスがあるかもしれないので、
名前つけてくれると分かりやすいな 名前をリクエストされるとは。スレらしくなってきた〜 昨日質問いただきましたハウルと荒れ地の魔女についてもう少し考えた。
つまりハウルと荒れ地の魔女の関係に、
なんか象徴的とか心理学的な意味がないかってことを聞かれてたのかな。
この2人って実は作中では会話する場面が一回しかないよね。
「あなたとはいつかゆっくり話がしたいわ」「僕もですマダム、でも今は時間がありません。」
この2人に関してはこのセリフが全てなんだな。
というのも、ハウルは情動や感情で、荒れ地の魔女は欲。
この2人の示す心の働きはきわめて近いところにあるんだよね。
だからこの2人は荒れ地の魔女が欲しがって、ハウルが逃げるの平行線っていうか、
クロスして関わることで生まれるドラマチックっていうのがあんまりないっていうか。 あ、これ毎回名前入力すんのか。忘れそう・・・
で、まあ荒れ地の魔女が「若い心臓はいいよ〜」とかいうところもあるけど。
なんかおぞましい若返りの魔術とかに使うのかなーくらいの感じじゃないかな。
この世界の魔法の概念だと、他人の心や力を奪ってそのまま自分の力にする、
なんてことはできないはずだから。 そんで、自分だけ解ってて説明が足りてなかったから補足。
「サリマンの魔法でこの城には爆弾は落ちないが、代わりに周りの街に落ちる、
魔法というのはそういうものだ」というモロなセリフの他にも
魔法には相応の対価とか、代償が必要である。と暗喩している場面は繰り返しあって、
カルシファーの「そいつら後悔することになるな、まず人間には戻れないぜ」とか、
鳥化や攻撃の魔法を使ったあと、ハウルの姿がひどく疲れて透けた様子だったり、
ハウルが花畑で飛行機を攻撃したとき手が異形になっていたり。
ソフィがカルシファーに髪を与えて力を強めたり、
「どうか〜しますように」で髪が星色に染まったり、
あと、サリマンの魔法だと荒れ地の魔女に360度で光をあてて、
影で籠目籠目をするやつには、誰かの手が電源を入れるカットがあるよね。
ああいう風に、電球のセットとか電気とかも対価に相当する、と読み取れる。 カブとサリマンについても先に書いとこ。
カブはかかしだよね、かかしっていうのはオズの魔法使いに出てくるかかしなんだ。
ドロシーやかかし達はエメラルドの都の魔法使いオズに、それぞれ願いを叶えてもらいにいく。
かかしの願いは「こころがほしい」だ。
つまりカブはこの物語全体を象徴している。
ソフィ、ハウル、荒れ地の魔女はそれぞれ心の重要なはたらきを示すのに、
物語開始時、それぞれ欠陥を抱えてる。
ソフィ(知)は自分を抑圧しているし、ハウル(情動)は一部が解離している、
荒れ地の魔女(欲望)は野放しでやりたい放題だ。
それが紆余曲折を経ておのおの完全性を取り戻したとき、
この物語全体が、ひとつの完全なこころ を示すものになる。
その瞬間、こころを得たかかしはかかしから人間へと生まれ変わる、というわけ。 カルシファーの名前が「熱量」を表すカル(calorie)と悪魔を表すルシファー
を足したものだっていうのはググればすぐ出てくる公式っていうか周知の話なんだけど、
サリマンの名前の由来って調べてもでてこないよね?自分は見たことない。
でも自分はサリマンは
サタンとアーリマンを足した名前
なんじゃないかと思ってる。サタンは有名な悪魔だよね、
アーリマンもゾロアスター教の悪神なんだ。 意外に思うよね?
だってサリマンはまあ悪役だけど、
上品な老婦人で、物腰も話し方も柔らかでさ。素晴らしい宮殿の奥の美しい温室にいて、
足が悪いのか豪華なんだけど車椅子に座ってて、魔法学校の校長で、国の要職についててさ。
荒れ地の魔女みたいなのを懲らしめて、
まあハウルには良い母役ではなかったのかも知れないけど、
なんかこうとにかく正しくて立派な人なんですってオーラ全開だからね? 上記の特徴のすべてはサリマンの巧妙な目くらまし。
サリマンはハウルにとっては「支配する母性」だけど、
宮崎駿がサリマンという存在で暗喩しようとしたものは、
もっとマジ半端なく恐ろしい存在だ。この地球で生きる人類すべての脅威と言っていい。 サリマンが示すものについて書くのは怖い。
58の対価や代償の話の続きなんだけど、恐らく対価は他者に支払わせることも可能だ。
それはいわゆるイケニエとか犠牲とか人柱とか、そういう方法だ。
ハガレンで一国の人民すべてを対価に・・・
というやつがあるけれど、それもできるし、
マギのマグノシュタット編の、最下層民の生命力をじわじわと生かしながら奪う・・・
というあれもできる。
サリマンの流れ星をいくつも使役する魔法の対価はどんな方法で支払われていると思う?
ハウルはなぜ戦場の空を飛んでいたんだと思う?
「ひどい戦争だ、南から北まで火の海だ」と言っていたけど、
その戦争はハウルとどう関係するのか、描写があったっけ? ハウルが魔法の実質について語るところの真意は、視聴者の抱える所である所の魔法万能論を覆すのと同時に、えてして自らの願望を満たす場合にのみ効力を発するものだという旨であり、皮肉。
代償は悪魔が要望するもので、悪魔と契約していないソフィやサリマンは魔法を使ってもノーリスク。
宮崎駿作品には基本的に悪役が出ない。ラピュタくらい。サリマンは政治を行うことから清濁合わせ飲むが、悪者ではない。
明確な悪者である原作のボスキャラが映画では割愛してある。カブに呪いをかけ、戦争を焚き付けたのはそいつと考えるとスムーズ。ヒンに呪いをかけ犬にしたのもそいつ。 もうほんとさあ・・・
ハウルだって才能ある魔法使いだっていうのに、全力で逃げに徹して、
サリマンの前に顏を出すことすら恐ろしくてできない。
ましてや言い返すなんて無理無理絶対無理っていうのも、
ただ臆病ってだけじゃないんだ。良くわかるよ。
やってることだけでもも吐き気を催す邪悪!だというのに、
その上であの柔和な笑顔で自分は絶対に正しいのですよってアピールしてくるってさぁ・・・
そんな奴を一見あそこまで魅力的に描いた駿も凄すぎて怖いけどざぁ・・・ でも、本当にサリマンのモデルになる存在がいるんだよ、この世界には。
陰謀論とかでググったら分かるよ。接するだけでも影響あるから深入りしないほうがいいけど。
サリマンの闇を理解するほど、
「お言葉ですが」と言ってのけたソフィ
戦ってはダメだと言って、ハウルの心に完全性を取り戻したソフィの光も理解できる。
心を完成させて愛で満たし、対立の段階を超える、
そうすればサリマンは手を引く。「仕方ないわね」と苦笑するだけで執着はしてこない。
彼女は超合理主義とでもいうか、無駄な事はしないからね。 >64 あ、原作知ってる人なんだ。教えてくれてありがとう。
そうだね、サリマンには知恵ある政治家っていう一面もあるよね。立派な教育者とかね。
それも間違いないと思うよ。
サリマンの行いに救われた人だってきっといると思う。ハウルもそうかも知れないし。
でも自分はサリマンは悪魔と契約どころか悪魔そのものだとすら描写されている、
と理解しているんだ。
多分、魔法とか、悪魔という概念が意味するものが、ダイアナウィンジョーンズの考え方と
宮崎駿の考え方とで違うと思うんだ。まあ小説はほぼ忘れたんだけど・・・
千と千尋とか、ポニョでも垣間見える、宮崎駿が描写する世界観を自分なりに解説しております。
>視聴者の抱える所である所の魔法万能論を覆す
そうそう魔法って言っちゃうとなんでもできる万能の力かな〜って思っちゃうからね。 サリマンの「仕方ないわね」は、それまでの危惧だった戦争と、戦争の原因である王子の呪いが解けた事、心配していたハウルの契約が解けた事、一同の円満ぶりを見せられた事が重なり、気の抜けた心情を表している。
原作ではサリマンの身体が犬、ヒンの材料となっている。では映画のヒンは誰なのかと。
サリマンの身体、サリマンの片割れ→夫ないしフィアンセだろう。これで浮気者とのセリフに納得がいくし、ほんらい裏切り者であるはずのヒンを呆れ程度で許してしまう寛容や信頼関係の根拠になる。
上記を踏まえて、サリマンのハウルへの執着の度合いと動機について、ネットでは妄想交えて過剰に語られるが、そうでもないんではないか。
かなり力のある魔法使いなんで戦時中は手中におさめたい。手のかかる教え子である。それ以上の執着はないとするのが素直な見方。
ハウルの地毛は黒なんで、サリマンが従者をハウルに寄せたんではない。あの世界の美少年の記号的な表現だと思われる。
宮崎駿は記号表現をあんまり使わない人なんで、この点については違和感ある結び。ここから逆算すると上記の考察も覆るかもしれない。 >宮崎駿作品には基本的に悪役が出ない
そうそう、色んな立場の人がいて、それぞれ背景があるからね。
善とか悪とか単純にわりきれないんだよね。
だからもしハウルが対立に勝利して少年誌的にサリマンをぶっとばして無力化したりしたら、
王国も混乱するし、周辺国も混乱するしで、サリマンがコントロールした戦争状態より、
もっと泥沼の悲劇に・・・、とか、有り得るわけだなあ。 >68 おおおそうなんですか。面白いです。ちょっと考えさせてほしいです。
とりあえず理解できたと思った事は書けるだけ書いてしまおうと思うんですが、
原作を読んだらまた理解が変わったりしそうです。ありがとうございます。
スレたてて良かったなあ。 ヒンがサリマンの足など、サリマンの一部であるなら、
彼女もソフィ達が成した完全性の中に組み込まれている、ということもあり得ますね。
対立を超え、支配を退け、敵だったものをも統合に巻き込み、さらに大きな調和を完成させる。
ということまで描写されているというのか・・・。
そういえばヒンはサリマンの足元に座っていましたねえ・・・。 ヒンの道案内としての力量の巧さも、サリマンの一部であるなら説明できるし、
サリマンが温室から一歩も出てこないという事も、ヒンという存在を生み出した代償なのか。
足が象徴する移動する力をまるごとヒンにしちゃったって事か・・・ うろ覚えだけど、原作じゃサリマンは男でハウルの同期。魔女と魔女を操るボス悪魔と対立する。これらに敗けて身体をバラバラにされ、犬の材料の一部となる。
なぜあえてサリマンを犬と同時に登場させたかと言う部分で、サリマンと犬とは別人格でありながら等しい存在であるという暗示だろうと。じゃあ旦那か恋人でしょう、と。
足ってのも面白いね。足が確認できる描写はなかったろうか。 今夜も書いていくけど、ちょっと時間ができたから覗きに来た。
解っていることを書くだけだから、すぐ終わるだろうとおもったけど、長くなったなあ。
サリマンだけど、彼女も色んな面がある存在なのは間違いないよな。
その最も最もダークなサイドを書こうとして、昨日はちょっと興奮してたわ。
想像だけど、もし魔法の対価に他人の命を使っているだろう!と暴いて責めたとしても、
サリマンはあの柔和な態度で言うと思うよ「それは仕方のないことなのです。」ってね。
自分が殺さなくても人は勝手に争って死んでいくから、ちょっと利用してるだけ、とか
どっかのアリの王様みたいに、質を考慮に入れて選別してる、とか、
殺さないでちょっとずつ貰ってるだけ、魔法の恩恵は皆に還元してますよ、とか色々思いつくな。
そういうやつをぶっとばすのは、もうハガレンでもマギでもハンタでも、多くの物語で語られていることで、
ハウルはもっと高度なレベルの解決を描いていくんだ。 悪魔っていうのも、その多くはキリスト教によって追いやられた、
その土地の神様達だったりするからね。
サタンも元は人に知恵(の実)を与える慈母神だったんだと
ジョーゼフキャンベルの本で読んことある。 >足が確認できる描写
はなかったけど、サリマンが金髪少年に車椅子を押してもらっていること、温室から出てこないことが、
彼女が 移動する力 をまるっと失っているってことを示していると思う。
足がなくても魔法で移動すればいいじゃんってのは、できないはず。
油婆風にいうなら、「そういうきまりなんだよ」っていうことだと思う。 質問なんですが
マルクルはいつからハウルといるの?
家族が欲しそうだったからやっぱり捨て子とかだったのをハウルが拾って弟子として自由に城に住まわせてたのかな
父親かわりになって育ててるって感じでは無かったよね
行くところがないならここにいれば?みたいな雰囲気で。 さあ、そろそろ 魔法 というのはなんなのかについて書いていけるかな・・・。
動く城の扉の、「この黒いところはどこに行くの」「ハウルさんしか知りません」という、
黒いところってなんなのっていう話。
この長文だらけのスレをここまで読んでくれるほど、ハウルの動く城を知りたい人なら
ここからのクッソ怪しい話にもつきあってくれると信じるよ。
サリマンも「逃がしませんよ」と杖をついたとき、地面に一瞬黒い穴が開くよね。
あれも同じところへアクセスしたって表現だ。
そういえば、まずサリマンから波が迫ってくるのは、海は母の象徴だからだね。 >>77
と思ったら質問だーしかも知らないやつだー。
それはページの外の物語だからなぁ。
魔法使いは独立したら弟子をとらなくてはならない、とか決まりでもあるのかもね。
お腹すいたからまた深夜に来ます >>77
マルクルが家族が欲しそうっていうのは
「ソフィ行かないで、僕ソフィが好きだ」とか「僕たち家族?」って言うからね。
そう思うよね。
マルクルって、キャラの背景とか、動機づけが全然描かれない。
彼はソフィに懐くし、ヒンを「飼っていい?」と聞く、荒野の魔女に孫のように寄り添うし、労わる。
彼は子どもらしくふるまい、メンバーを家族として繋げていくけど、
それはメンバーと物語にとって必要なことなんだけど、
でも彼がなぜそうするかっていう動機はまったく描かれていない。
だから子どもらしくてかわいいけど、あまり魅力的ではないと思ってたな、最初のころは。
でも宮崎駿がさ、そんな不手際なキャラ造形するわきゃなかったわ。こども大好きおじさんなんだから。
マルクルってさ、声が神木隆之介だよね。
前作で坊だった彼がまた登用されていることでも、
油婆と坊の関係の物語がハウルの動く城に引きつがれているのを感じるんだけどさ、
もっと言うと、つまりマルクルって坊なんじゃないかな。
家族の中で育つって、子どもにとって必要なことだったのに、坊はその機会を奪われていたよね。
千尋と冒険して、成長して帰ってくるけど、
駿はもっと坊を描きたかったんじゃないかな。できれば救済を与えてあげたかった。
だからマルクルの動機や背景は、ハウルじゃなくて千と千尋の中にある。
「家族の中で育つ子ども」だね。
質問ありがとう。マルクルについて書き足りてなかったし、
書きながら考えがまとまりました。
さて・・・
秘密について書こうとすると、質問が来て流れが変わるっていうのは、
まだ早いか、今自分がやろうとしてる書き方じゃマズイってことかなぁ・・・ ん?言葉足りないかな?
だから、マルクルは坊の「家族のなかで育ってみたかった」っていう思いを
ひきついでいて、それを昇華するキャラってことなんだけど。
そいうえばハウルが「マルクル、掃除婦さんに掃除もたいがいにしろって言っておいて」
ってソフィが目の前にいるのにわざわざマルクルを伝令につかうのも、
マルクルがメルクリウスでメッセンジャーなことを言いたい場面だよね。
ハウルのヘタレっぽさの表現にもなってるけど 神木隆之介と言えば千と千尋とハウルの間の時期かな?キリクの主演もやってるよね。
あれも対立を争いを超えて解決する素晴らしい物語で、そこもハウルに通じるものがある。
しかもハウルは難解だけど、キリクは明快にそれが解るし。 はえー
千と千尋の物語も引き継いでいるとは...
宮崎駿の映画は考察聞くのも面白いねぇ
返信ありがとう
今日録画してた金曜ロードショーほぼ初見で観て気になって質問してしまったw流れぶったぎって悪いw
これからの解説も楽しみにしてる! 秘密については慎重にやるべきなようなので、ずばり書こうとしないで外堀から埋めていこう。
ただ、この世界には、対価や代償がいる魔法と、
そのレベルを超えた真の魔法、 奇跡 や 創造 と呼ぶような何かがあること、
そしてそれは、本当は誰でも、
魔法の勉強なんてしたこともない平凡な帽子屋の娘のような誰かでも、
その領域に触れることができるものなんだってことを前置きしておく。
魔女の宅急便の、やさしさに包まれたならっていい曲だよね。
あの曲も、そういうことを歌っていると思う。 まだ、動く城そのものについてのトピックが残ってた。
城、っていうと普通はもうちょっと貴人が住む豪華な建物とかを想像するんだが、
どう見てもあれってガラクタの山に足が生えて
怪物になって動いてるって見た目だと思わない?
確かダイアナウィンジョーンズの本だと、
もうちょっと動く城っていう言葉どおりの見た目だったと思う。 しかも外からみると巨大なのに、中の生活空間は広いとは言えない。
めちゃくちゃに散らかって天井から埃が垂れ下がるレベルの汚部屋であることを差し置いても、
暖炉のある一階はキッチンとダイニングと玄関がひとまとめにあって、
二階はマルクルの私室、ハウルの私室、ベランダも大して広くない。
あろうことかトイレ、風呂は同室だ。ユニットバスの城なんか聞いたことねーわ。
当然客間もないからソフィは一階の隅で寝てたよね。 動く城は、ハウルの心がどういう状態なのかを表している。
実はあらかたの人間たちの心もこういう状態にある。
ガラクタの山をまるごと、大量のエネルギーをつぎ込んで動かしているのに、
実際に使う空間は狭いし、散らかっていておよそ快適とは言えない。
ハウルの私室をぎゅうぎゅうにしているのも魔女除けのまじないだと言ってて、
仕事部屋や書斎なんかもないから、暖炉の前で本読んで道具使って炊事して飯食って・・・
ていう生活が見えるようだ。洗濯なんかしてたとは思えん・・・。
ガラクタの山の動く城は、まず中をソフィによって掃除される。
そして引越しの魔法で、家族の住める広さと快適さになる。
引越しを見て、ハウルはいつでも魔法で部屋を片付けられたのでは、と
思った人もいただろうが、それはしないっていうかできないっていうか。
ハウルの心そのものの姿だからね。
そして終盤では解体されて、あらかたのガラクタを捨ててコンパクトになる。
ラストでは木なんか植えて、庭もついて、居心地の良さそうな家になって、
空を飛んでいく。
空を飛ぶのは宮崎駿が好む表現だけど、
この物語で示されたようなプロセスを経て、人間の心ってものが完全性へ近づけば、
マジで人は空ぐらい飛べるかもって思う。 ハウルの動く城では、みんな姿がどんどん変わるよね、
ソフィも荒れ地の魔女もハウルも、マルクルの変装はおまけかなって気がするけど。
彼らの外見の変化は、すべて内面の変化にシンクロしている。
意味のある描写なんだ。
動く城もそう。変わる事には意味があって、物語は読み解かれるのを待っている。
ガラクタってのは、なんのメタファーなのか?
それは人間の心をがんじがらめにしている色んな思い込みのことだ。
言い方は色々ある。
思い込み、常識、トラウマ、しがらみ、行動パターン、ルーティン、過去の再生・・・
しきたりとか規範とか信条とか信仰とか、まだまだあると思うけど。 人間存在は、本来奇跡や創造の領域から生まれてくるんだけど、
生まれて来るとそのことを忘れる。
そして親や自分を育てた人間、周囲の環境から実に様々な思考パターンを吸収して育つ。
そして人格が形成されたころにはガラクタの山のような膨大な思考パターンを
自動再生しながら生きている、というような状態になる。
もちろん人によって程度の差はあるけどね。
ここから脳や心のはたらきをパソコンにも例えていくね。
ガラクタの城を動かすのに大量のエネルギーをつぎこみ、
なのに実際には大して使えてないってのは、
デスクトップがアイコンでいっぱいで、色んなプログラムやアプリが開いて機能が衝突とかしてて、
処理が落ちてて、ネットも電波が弱い、みたいな散々な状態だ。
自分のパソコンがそんな風にパフォーマンスが落ちてると気が付いたら、どうする?
まずアイコンはゴミ箱に捨てて、ゴミ箱を空にする。
アプリは閉じて、いらないのや衝突してるのがないか調べてアンインストールする。
ネットは接続を確認して、安定して容量の大きい回線に、そんで再起動するやん?
ソフィのお掃除はこれに相当する。
ヒーリングってまずはクリーニングなんだよね。 話が抽象的過ぎるか?
なんか例をあげるなら、ソフィの心も城であらわしたとしたら、やはりガラクタがある。
「私は美しくない」「自分は長女だから」
「帽子屋をやりたいかはわからないが、父の店を守らなくては」
で、ハウルなら
「美しくなくてはいきている意味がない」
「母性に愛され、認められていたい」
こういうものがガラクタの思考パターンだ。
こういう思い込みは数限りなくあって、人間存在のパフォーマンス(性能)を落としている。 人の脳や心を、パソコンに例えたけど、
実はハウルはパソコン本体は処理が落ちたガラクタの城の状態なのに、
ネットだけはめちゃめちゃに強力、といった状態だと言える。
サリマンの「あの子は心をなくしたのに、力があり過ぎる」みたいなセリフはこれのことだ。
魔法や創造に続く黒い空間は、ネットに例えると理解しやすい。
また、ハウルはドアの向こうに体ごと飛び込んでしまうけど、
サリマンは杖を使い、黒い穴の空間もごく小さいく開ける。
この差は二人の力の使い方、習熟度を表している。
本体の性能が落ち、心が欠けた状態で、体ごと黒い空間へダイブするのは危険な行為だ。
ソフィは扉の向こうへ行くとき、本来の年齢の姿だったし、
指輪というコンパス(目的地を指すもの)と
ヒン(現実への帰り道を知るもの)という道案内があった。 ぬうう 書いてる自分もまどろっこしいこの感じ・・・。この例えで
わかるかなぁ、わっかんねえだろうなあ・・・・(古い) そうそう、このトピックも書かなきゃ。
サリマンの追っ手を撒いたハウルが透けて半人半鳥の血まみれで帰ってきた後で、
ソフィは娘の姿でハウルの私室に入るよね。
ソフィが娘の姿で身支度するのに違和感を感じない事、最期に寝ててはっと起きる感じな事で
あの一連のシーンは現実ではソフィは寝てて夢を見て、
でも2人の心のなかでは本当に起きたこと、ていう場面なんだけど、
ソフィがドアを開けると、部屋がトンネルになってるよね。
そしてなぜか道が二股に分岐しているんだ。
そしてソフィは片方を選んで進む、そしてそこには神話の怪物みたいなハウルがいる。
これはハウルの深層意識のほうへと進んだってことなんだ。
そしてそこが夢のなかで、本来の姿だから、ソフィはハウルに「愛してる」と言うことができる。
現実のソフィだとまだ言えないよねwそして「もう遅い」とか拒絶されるから老婆に戻って目が覚める。
で、もう一方の道はどこへ続いていたんだと思う?
それは、ソフィが指輪とヒンを伴って行く扉の向こうの黒い空間のことだ。
そこは魔法やきまりごとのあるところ、流れ星の存在がいるところ、
そしてその先の創造の領域へと続いている。 なんでもう夜明け・・・時間かかり過ぎてつらたん・・・
ちょっと時間おくわ。
読んでくれてる人ありがとう、
きっといつかあなたも優しさに包まれてカーテンをひらけますように。 今週の金ローはトトロだ。
あれに「夢だけど、夢じゃなかったー!」ていうセリフがあるけど、
ソフィがトンネルを進んで怪物ハウルに会うシーンはまさにその言葉のとおりだった。
これから書く創造の領域でのできごとも、もし理解できて、更に実践もできれば
「夢だけど、夢じゃなかったー!」っていう感覚で掴めてくる。・・・はず。 今日は録画したハウルもう一回見てきた。
そしたらまだまだ書いたら面白いだろうな〜っていうトピックがあった・・・。
ソフィも魔女なんだと繰り返してきたけど、
いつからソフィは魔法を使えるようになったのか、今日解った。
あれだ、あの空中散歩だ。
ハウルに寄り添われながら「足を出して、歩いて」「上手だ」って
あれが魔法の手ほどきになってるんだわ。
あと指輪はハウルとカルシファーの方を指すほかにも
「無事に行って帰ってこれますように」ていうまじないがかかってた。
扉の向こうの黒い空間のなかで、目的地に行ったところまでで壊れちゃうけど。
帰り道にはヒンがいた、と。
黒い空間にアクセスする時は、十分に注意が必要で、
我流では危険が伴うってことも宮崎駿は描写している。 黒い空間に体ごとダイブするような接続をすることに、どういう危険が伴うのか・・・
色々考えられるけど、まあ魔王になるとか、荒れ地の魔女のようになるってサリマンは言ってたね。
堕落する、堕天使になるっていうか、菩薩の死、なんて言葉もある。
力のあるヒーラーや、スピリチュアルなマスターが陥りがちな罠だ。
具体的にいうなら、病気になる、酒色におぼれる、金を集める、人を支配する・・・
目がどろっと濁って肌艶が悪くなり、太るか逆にガリガリになるとか・・・
うさんくさい新興宗教の親玉みたいに多くの人の人生を狂わせるとか、死ぬとか。
死んだあとも、よろしくない存在になって彷徨うとか。
そんな感じかなぁ、あんまり考えたくないけど。 今日ハウルの冒頭を一緒に見てた人が言ったんだけど
「この妹は帽子屋はしないのか?」って。
そりゃ〜向いてないね。だって妹が働いてるのお菓子屋さんだよね。
お菓子屋さんって女性客が多いところなのに、
妹の前には大勢の男性客が押し寄せて、親切に声をかけてくるスタッフも男性ばかり。
妹は容姿が華やかで、性格も良くて、もう大人気のモッテモテ。
ソフィだけじゃなく、おおかたの女性が劣等感を抱く要素がてんこもりだ。
一方、ソフィの帽子屋にあるのは女物の帽子ばかり。
この店で妹が商売しても、男が詰めかけて、女は来なくなるだろうね。
母もどう見ても妹と同じ属性だ。
だから余計にソフィは「この店を守れるのは自分だけ」とか思ってたんだろう。 100レスまで来たぞ・・・。ちょっと頑張ったんじゃないか自分。
これ「未来で待ってて」まで書き終わったらまとめサイトとかに載らないかな・・・。
不思議ネットさ〜んファンでーすオナシャースww >>80の話題、マルクルは坊なんだって思って見たら、
もうそうとしか見えなくなった。声だけじゃなくて顔も似てる。
ちょっとツリ目気味の三白眼に、輪郭がちょっと角ばってる感じ、
髪が上に立ってるのも赤ちゃんぽいし。
坊があんなとこに閉じ込められてないで、普通に子供に育ったらきっとあんな感じじゃなないかな。 さて、魔法の力は黒い空間から来る、
黒い空間の入り口の辺りには人間の無意識・深層意識、ユングの言う集合的無意識なんかもある。
次に対価や代償のいる魔法、きまりごとの段階、流れ星の存在のいる層がある
そして、黒い空間のもっとも深奥というか、最上層には 奇跡 創造 の領域がある。
黒い空間を進む道のりにはロードマップがあるってことを言いたいんだ。
これを作中だけから読み取るのは無理だと思う。
素養とか才能で解る人もいると思うけど、予備知識がいる。
そのロードマップは普通の生活では感じないけど、
人間存在が道を求めだすと、向こうからやってきたり、そこにあったことに気が付いたりする。
それは古い知恵や、神話のなかにある。
禅みたいな精神修養とか、密教、精神世界のメソッドは
ロードマップの通りに道を進んでいく練習方法だ。
最後に参考文献を書いておかないとな、と思ってる。 ソフィは最初は無意識に奇跡を使っている。
これって実は多くの人間も普段から同じことをしている。
人間存在は奇跡や創造の領域から生まれてくるからね。(これマジな)
小さいころは神様がいて、不思議に夢を叶えてくれた っていうのはそういう意味だ。
心がガラクタの山の状態でも、その領域との接続は弱まりはしても切れてしまったりはしない。
生きている、存在している、っていうエネルギーは常にその領域からやってきている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています