ハウルの動く城を解説したい
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金曜ロードショーで何度目かのハウル見たけど、初見の時は色々わからなかったことが今回は完璧に理解できた。 まずなぜソフィは娘になったり老婆になったりコロコロ変わるのか、
婆っていっても90歳くらいの腰の曲がったのから、
背筋の伸びた中年くらいまでと幅があったりするのか。
まずそこから分からない人もいるだろうな。 ポイントは「ソフィも魔女」
ソフィもハウルや荒れ地の魔女、サリマンと同じく魔法を使える存在である、ということ。
これが飲みこめてないと、ハウルはわけがわからないという感想になる。 小説の原作のほうでは明確にソフィも魔法が使える存在である、という描写がある。
モノに命を与える魔法だったかな。物語が進むにつれ自分の魔法に気が付いていくんだけど、
宮崎駿のハウルではあえて言わないんだろう。
とにかく、ソフィも作中で何度も魔法を使うが、その多くは「魔法を解く」魔法だ。
荒れ地の魔女が「私は魔法をかけられるけど、解けない魔女なの」というセリフがあるが、
それはソフィは逆の「魔法を解除、あるいは中和する魔女だ」ということを示していると思う。 冒頭でソフィは妹や母と対照的に描かれる。
容姿からして華やかで人気者の妹、地味な格好で自分は「長女だから」というソフィ、
「自分は美しくない」というコンプレックスでガチガチのソフィだが、
老婆になって家の外へ出た瞬間から彼女はノリノリでばーちゃんとして生きはじめる。 カルシファーがソフィをみて「こんがらがった呪いだ」みたいなことを言うが、
それはソフィが無意識で老婆であることを望んでいるから、そういう事になる。
老婆であれば美しいとか美しくないとかいうコンプレックスから解放されて、
長女だからと守っていた家も出て憧れたハウルに会いに行くこともできる。
実は老婆であることはソフィにとってはいいことづくめな状態なのだ。 眠っているときは娘に戻っていたり、
「私なんて美しかったことなんて一度もない!」と本音を吐き出せた後では、
90代くらいから中年くらいまで背筋が伸びていること、
ハウルに「きれいだよ」と言われた瞬間、それを拒否して娘から老婆に変化することなど、
老化の度合いはソフィがコンプレックスを感じている度合いとシンクロしている。 サリマンの前で堂々と持論をぶちかます時はぐんぐんと若返るなど、
自信をもって本来の自分を表現できる時は、本来の姿に近くなる。
荒野の魔女の呪いはかなり初期の時点でソフィによって解かれており、
後はソフィの無意識が老化の度合いをコントロールしていると言える。 そしてハウルもまた作中でころころ恰好が変わる。
これも全部意味が読み取れたと思う。 ハウルの課題は「支配する母性からの自立」だ。
千と千尋 で描かれた坊と油婆の関係とも通じるものがある。 油婆は坊を建物のてっぺんの一室に閉じ込め「おんもに出ると病気になる」と吹きこむ
外での経験で成長できない坊は赤ん坊のまま体ばかり大きくなった文字通りの「でっかい赤ちゃん」だ。
母親が婆ぁになり、赤ん坊が成人にならずあそこまででかくなるのには相当の年月が暗示されている。 サリマンはハウルに後継者にしようとするが、
ハウルはそこから逃げたという。
しかしハウルがどのくらいサリマンの影響下にあるか、
あるいはどのくらい自立しているのかが、恰好で分かるようになっている。 物語冒頭でハウルは金髪だが、それは実はサリマンの趣味だ。
サリマンがわらわらと同じ顔の金髪おかっぱ少年をはべらせているのを見て
薄気味悪いと思ったのは自分だけではないはず。 ハウルの本来の髪色は黒なのを、金に染めている。
ソフィが棚をいじってオレンジや緑の髪になるが、
金でなくてはならないのだ。サリマンの好みの金髪でなくては。
「美しくなくては生きている意味がない」はハウルの名言だが、
正しくは「サリマン先生の望む自分でなくては、生きている意味がない」だ。
髪なんか染めなおせばいいだろうに、ゲルが出るほどハウルが落ち込むのはそういうことで、
しかし、それもソフィの魔法なのか、以降ハウルの髪は本来の黒だ。 城の温室でソフィがサリマンに啖呵をきった後、ようやく出て来たハウルはサリマンと一戦交える。
おそらくは初めての師への反発だったのだろう。
そして動く城に帰ってきて「引越しをしよう」と言うハウルの恰好は冒頭とは全然違っている。
サリマンの趣味(サリマンの恰好も宝石もりもり)の金髪カラフル派手外套から、
黒髪、白シャツ、黒ズボン。形はオサレだが超シンプルである。 ハウルのサリマンへの態度は、
ひたすら逃げ回る から
疑似家族を守るため戦う に変わる。
しかし「支配する母性」の象徴サリマンはめちゃめちゃに強力だ。
国家間の戦争をコントロールし、雑魚魔法使いをいくらでも使い捨ての駒にしてくる。
鳥化や飛行機を落とすような魔法は使えば使う程、人間に戻れなくなるという代償が伴うので、
ハウルには勝ち目がない。 このへんで、初見の時はこの戦争をどーにかこーにかしていく物語なのかと思ったんだよね。
ナウシカとか、もののけ姫とかみたいな、
激しい戦闘シーンとか価値観の衝突とかそういうカタルシスがあるのかと思って見てたら、
過去に戻って「未来で待っててー」とか当時はポカーンだったわ。 でもハウルのテーマは、コンプレックスの解消とか、精神的な自立とか、
そういう内面的な葛藤の昇華にあるんだよね。心理学とかそういうジャンルの物語なんだ。
だからソフィーはハウルの深層心理の底へと降りていく、という展開になる。 宮崎駿の作品には、よくトンネルをくぐる的なイメージが登場して、
それが意味するものは色々あるけど、
ハウルの場合はハウルのごちゃごちゃした私室の扉の奥がそのトンネルで、
ハウルの顕在意識・無意識、その先の集合的無意識、更にその先の神秘的領域・・・
と続くもので間違いないと思う。
ソフィーはヒンとハウルを探しにそこへ向かう。そんなとこに探しに行くわけだから、
もうそれは通常の自我とかじゃなくて、
存在の核とか、アートマンとかそんなレベルのハウルなわけよ。 そこでソフィはハウルとカルシファーの核となる出来事を見る、
見る、とか気が付くって事が心理学的なプロセスではすごく重要なことで、
気が付いて、自覚すればそれだけで問題行動とかが解消してしまうこともあるくらい。
そしてソフィはハウルに心臓を返して「そうよ、心って重いの」と言う。
これはハウルの解離していた心を本来の円満な状態に昇華したってこと。
そうすると何が起きるか? 支配のつけいるスキがなくなる。
だからサリマンは異様なほどあっさり引き下がるんだよね。 ここが宮崎駿天才すぎる所なんだと思うけど、もうちょっと解説していくと、
普通の物語だと主人公の意識が、
ひたすら逃げ回る から
なにかを守るため戦う にシフトしたら、
もうあとは戦って戦ってなんとかして勝つ!
以外にはパターンがないと思うんだけど、それだと
あの「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!」のやつみたいに、
二項対立のレベルを超えられない。 支配したいサリマンと支配されたくないハウル、の構図だと、
それはどこまでいっても対立であって自立ではないわけだ。
だから対立のうちは決してサリマンは諦めない。
勝てばハウルを支配できるからね。 結局「支配する母性」が成立するのは、
「サリマン先生の望む自分でなくては、生きている意味がない」
みたいな、母性に認められたい、愛されたいという欲求があるからなんだよね。
他者に愛を求めると、代償に支配されることもある っていう。 あと作中に代償のある魔法と、代償がない(ように見える)魔法が混在してるよね。
「宮殿には爆弾が落ちないが、代わりに周りの街に落ちる、魔法とはそういうものだ」とか、
千と千尋でも 油婆が契約書を持って「そういうきまりなんだよ」と言うところがあるけど。
そのへんも宮崎駿は確信を持って描写してると思う。
代償のない魔法があるってことも、魔法の力がどこからくるのかってことも。 流れ星が地上に落ちて力を失う前に捕まえて、契約で使役するっていうイメージにも原型がある。
そして、ソフィの代償のない魔法でなら契約が終わってもカルシファーは新しい存在になって戻ってこれる。 なるほど、面白いし納得です
まだ続くのかな?もし最後だったら終わりってレスして欲しいな やっぱりこの物語の秘密の部分は文章にしようとすると難しい。誤解を招きやすい表現になる。
だからクリエイターは小説とか映画とか、物語で伝えようとするんだと思った。
先にもう少し分かりやすいところの話をしよう。名前の話とか ソフィっていうのはギリシア語で知恵のこと。ハウルってのは叫ぶってこと。
ソフィは理性や知性、ハウルは本能や情動 を表すような名前になってる。
サリマンは支配する母性だったりと、キャラクターたちはそれぞれ心の一部や働きを示している。 荒野の魔女が象徴しているのは 欲 だね。ずっとハウルの心臓が欲しいと言ってる。
マルクルはマーキュリー、ヘルメスとかギリシャ神話の神様だと思う。
この神様は伝令とかメッセンジャーの側面がある。
マルクルは、寄せ集めでバラバラのメンバーの間をつないで疑似的な家族にまとめる役だ。
家族の機能というか基本に子供を育てる場ってことがある。マルクルという「子ども」がいることで、
ハウルは父、ソフィは母、荒れ地の魔女は祖母、そしてペットの犬という役割が割り当てられて、
家族としての見た目になる。 初見の時は、ハウルが唐突に荒野の魔女やヒンまでまとめて家族、
と呼んだことに違和感があったな。いやそいつら敵だから!と思ったわ。
でもハウルの心はそれが必要な段階だった。
ハウルのスタンスがサリマンから逃げる、から対決する、にシフトした時、
ハウルはまだ人格が円満な状態じゃなかった。
心に欠けがあってサリマンへの思慕と恐怖もあった。
だからなにかそれらしい理由をみつけて自分を鼓舞しないといけなかった。
そこに家族に見えるメンツが揃ったから、家族を守るのが自分の戦う動機だ、
と思い込んだわけ。 今回の金ローで見た時、荒野の魔女ってマツコデラックスみたいだなーと思ったけど。
この映画が公開した時はまだマツコいなかったよなあ。 ソフィがよぼよぼになった荒野の魔女を連れてきて、受け入れてしまうのにも意味がある。
荒野の魔女は、人の欲の象徴だ。
欲ってのは厄介なもので、切り捨てようとしたり、見ないふりしたり、抑圧したりすると、
思いもよらない形で表出して問題行動になったり、暴走したりする。人格をいびつにすることもある。
知性によってあきらかにし、理性によって制御することで、
ポジティブな原動力として、心になくてはならない素晴らしいものになる。 ソフィは欲たる荒野の魔女を自らの内に招き入れる。
目を離した隙にカルシファーとハウルの心臓を一度は獲られちゃうけどね。
そして荒野の魔女は力ずくでは決して心臓を離してはくれないんだ。
ガッチリかかえこんで、燃えても引っ張っても水かけても事態が急変しても
城が足場だけになって崖の上をフラフラしててもおかまいなし。
欲求のもつ力というのは盲目的でそれだけに強力なのがよくわかる描写だ。
すべてを理解したソフィが抱きしめることで、はじめて手をはなしてくれるけど、
欲が、知と理、そして愛によって昇華され正しく人格に統合される
なんて高度な心の動きをこんな風にキャラクターで表現できるとかさあ・・・
駿マジやべえよ・・・これを毎年のようにタダで見れるとかここはとんでもねえ国だよ・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています