昔の東武バスを語ろうよ!4
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京王は中型車ベースの長尺車の導入。ワンステでもありドヤ顔でアピールしていたな。
東武と神奈中はダウンサイジング=時代の趨勢との認識だったかと。明らかに先細りの東武はともかく神奈中には時期尚早で95年の1年こっきりだったかと。 >>155
大型ベースの低床車より遥かに居住性がよく遥かに安かったからな中ロン
都心の道路事情にもマッチしてたし >>146さん
本数このままにバスのサイズを小さくするとは、鉄道でいうところのやはり本数
据え置きで編成両数を減らしてしまうようなものだよね? それでもって更に
バス離れを誘発するとか結局は自分の首を自分で締めてしまったようなものだな。
東武グループの場合、中型化と引き換えの増便は子会社化してようやくの
実現だったしな。 >>157
実際積み残しってどれくらいあったんだろう? >>160
少なくとも平成8〜9年頃大51や大61ではありました。
大51はHRでも支障があって通常は入れられなかったのですが
今じゃエルガミオ入れても朝夕のごく一部を除けば大丈夫そうな。 茨城県五霞村の江川車庫はどれくらいの規模でしたか? しらこばと団地は給水塔のとこらへんでグルっと回ってたんですか >>161
>>157だけど、今は大51でもそのような状態なのはやはり乗客が減り続けてる
いうことかね? それともコロナ禍による一時的なものなのかな? ツーマン路線で道が狭くてワンマン化できないと、東武の場合は路線を部分廃止にするか全廃していたのが1960年代と70年代。
高崎経済大学の先生の書いた群馬の東武バスについてかいた表紙の写真のバスが沼田営業所のナロー車だったな。
群馬県内の各営業所にその日野ナロー車が配置されて、道路が狭い区間のある路線のワンマン化をしたな。
群馬県の場合は富士重工のお膝元なので、純正ボディ以外に富士重ボディもいた。
1983年頃の太田営業所だと、尾島三菱電機、宝団地、東毛病院、新宿経由足利両毛駅、植木野経由足利両毛駅、太田呑竜経由青年の家ゆきと、ほとんどナロー車。
青年の家ゆきは大型バスでの運用もあったが。
熊谷駅、桐生天神町、館林駅、西小泉駅経由赤岩統合中学ゆきなどが大型バスだった。 >>166
横からだけど浦33が日中毎時4本出てた時代だと浦33と大51で4本ずつ、計毎時8本で
7〜8分間隔
そこに時期によっては1〜2時間に1本の大52や大67があった
今は大51と稀にある大53だけが運行されていて毎時5〜6本、大体10分間隔
乗車率は今も昔もそんなに変わった感じはないが昔の方が若干多かった気がする
まだ大51は安定して乗ってる気がするが赤芝まで並走する大42は確実に減ってるし
大41/66の方面に至っては路線自体存在しない
浦33がなくなったのは新都心駅開業で片倉への乗客が消滅したのが決定打なんだけど
(当時はまだコクーン2がなく現在のコクーン3にヨーカドーがあり残った片倉工業関係者と共に通勤需要があった)
新都心駅〜与野駅間が国際興業が北浦50で復活したにも関わらず途中通過になってしまっている
旧高台橋や旧三菱研究所辺りは停留所置いてもいいような気がするのだが
高台橋は上り線のピットを広く取り過ぎて違法駐車の温床となり閉鎖されたし難しい問題もあるんだろうね >>171
だまされちゃいかんよ。
旧中山道の富士見町から東に折れて、17号を横切ってしばらく進んだ団地の北端の角を右に曲がり、
突き当りに保育所を見ながら、給水塔をぐるっと時計回りに一周していたのだよ。
今はなき24号棟の裏がしらこばと団地停留所になっていて、木でできたベンチが置かれていた。
最初は尾11が上尾車庫との間を結んでいたが、その廃止と引き換えに、それまで車庫止で団地は経由
していなかった熊08が鴻巣で系統分割され大52となり大宮駅東口まで延伸され、団地に乗り入れる
ようになった。
このとき同時に鴻03という宮原駅までという中途半端な系統も設けられた。
上り下り全てのバスが一方通行で乗り入れてくるので、バスが3台連なって入ってくることもあった。
その後は年を追うごとに本数は減り、鴻03の廃止を皮切りに区間も短縮されいつの間にか全廃された。
上越新幹線が開業するまで存在した高崎線の昼の大穴に当たる土曜日の下校時にはよく利用していた。
昼下がりの時間帯にもかかわらず、途中駅周辺では立客も出るなど、そこそこ盛況だった。
大52は熊谷営業所の担当で鴻巣に到着後は熊08となって新島車庫まで行っていた。
鴻03は加須営業所だったのかな。両者で車体メーカーが全く違っており、車体を見れば大宮へ行く
のか宮原止まりなのかが遠くからでもわかった。
熊谷系統が団地乗り入れを開始した当時、菖蒲から商工会館まで行く大65も数便だけまだ残っていた
が、団地に寄ることはないまま廃止となった。 >>172
昭和50年頃は上尾市内からよく利用した。
時刻表の表記は朝と夜しか時刻が出ていなくて、
その間は「この間は頻繁運転」と書かれ、時刻
表示が省略されていた。
しかし、バスが来るまで結構待った記憶が殆ど
であり、何をもってして頻繁運転なのかは疑問
が残るところ。
当時は赤芝を過ぎると道路混雑に巻き込まれて
以降は到着遅延することが多かった。
結果、電車に乗った方が早いことも多かったの
だが、当時は圧倒的に本数が少なく、移動距離
も電車の方が多かった。 >>173
とても詳しく教えていただいてどうもありがとうございます
やっぱり給水塔なんですね 旧中仙道をバスで縦断したのが大学を卒業した翌年の1989年だったかな。
熊谷駅から鴻巣えきまではあっさり行けたが、鴻巣駅>上尾駅が本数が少なくて結構またされた。
後日、上尾駅から浦和県庁前まで乗車した。
国際十王交通に移管されて、今年廃止になった、熊谷駅~深谷駅に乗車できなかった。 >>172
浦33が上尾まで直通してた時代、あったね。懐かしいな。この系統が後年まで
上尾直通だったのは片倉工業さん関連を中心に大宮駅を跨ぐ需要がそれだけ多
かったってことかな? >>181
上越新幹線開業前は高崎線が特急を主軸としたダイヤだったため、各駅停車しか利用できない上尾駅・宮原駅利用者は浦和大宮方面行きのバスの方が利便性が高かったと聞いたことがあるような気がする >>164
昭和50年ころからなら
栃22 かな ・5?? で3〜4台
栃22 かな ・7?? で3〜4台
あったと思うけど。
かな の部分は あ い か 忘れた。
たまーにフロントウィンドウの傾斜の大きい車
(前扉の上半分が三角形)がやってきて
当たりくじを引いたような気がしたっけ。
予備車か、栃木か小山あたりの車だったか。 >>182
片倉通勤客は大宮駅跨いでも赤芝か富士写真辺りからが殆どだった記憶がある
上尾・宮原からの浦和への需要は高崎線が日中浦和駅に停まらなかったのと
県庁や公官庁用務や浦和駅西口周辺への買い物需要があった
伊勢丹コルソが出来る前でも浦和のヨーカドーが大宮にはないGMS店舗で
自家用車がなければバスで来るという事にはなっていたよう
浦和駅に日中でも高崎線が停車するようになって追って大宮西口にDOM(ダイエー)が、
上尾にヨーカドーGMS店舗とボンベルタ(笑)が建って高島屋や大宮東口界隈のリニューアルもあって
伊勢丹にどうしてもという以外は上尾・宮原から浦和への買い物需要はほぼ消滅した
浦33ローカルとしては上木崎とか針ヶ谷辺りからの需要もあったはずだが駅に近いというのは鉄道並行路線の致命的な問題で
大宮(大宮警察〜東口間)の渋滞で定時性が崩壊してるし針ヶ谷でも当てにしていなかったのだろうと推測される >>183
栃22は「い」ですね。
栃木22で「う」。 >>186
かなは「い」でしたか。
宇都宮駅―西川田駅 の話ね。
昭和48年か49年。
それまで
栃22 い ・5?? 十の位は4だったか?
が定番だったのに、
栃22 い ・7?? 十の位は3だったか?
の車両が来たんだよね。
このバスに乗ったらどこに連れて行かれるんだろう?
と怖くなって乗れなかった幼稚園時代のおもいで。 >>187
栃木ナンバーの栃ナンバー時代は
営業用大型枠(大判プレート)は「あ」ですよ。
営業用小型枠(中判プレート)は「い」
昭和63年1月から栃木ナンバーになって
大判プレートは「う」
中判プレートは「え」でした。 「あ」でしたか<栃22
私の記憶違いか。失礼しました。 >>182さん
>>184さん
そう言えば、高崎線の普通列車が不便・この更に昔は日中に浦和を通過
していた時代があったね。東武バスには直接は関係ないけど、中電が浦
和を通過してたのは近距離を京浜東北線に振り分けるためだったのだろうか?
>>185さん
そ言えば、「さ33」ありましたね。系統番号記号がひらがななのは
珍しかったですよね。この後元浦33のさいたま新都心以南は完全廃止
するものの、ここから大宮駅までは別系統が入るためにまた大幅に
増便する結果になりましたね。元浦33、「そのうち大宮駅以南が
完全に廃止なるんじゃ?」思ってただけに、この区間の形を変えた
増便は意外でしたね。 >>190
大昔は特急に乗れるのは特権階級の人たちだけだった。
だから一般市民が長距離移動するときは鈍行に乗った。
青森行きとか新潟行きの列車に浦和で降りる客が乗ったら邪魔。
浦和から青森行きに乗りたかったら京浜東北で大宮へ出ろ、って理屈が通用した。
現在は電車だけになった高崎線の普通列車で客車列車も走っていた頃の話。 単に浦和客乗せられるほど中電の本数設定できなかっただけだ 客車列車と言えば東北本線は普通でありながら「東大宮・野木通過」でしたね。
特急優先の時代に少ない普通列車が少ない駅をさらに飛ばす訳だから小山から宇都宮や古河へのバスもそれなりに利用者がいた筈ですな。 >>191
なるべく停車駅を減らして、特急・急行の邪魔をしたくなかったのと、昔の長距離普通列車が近郊で停車駅が少なかったのを引き継いだというのがある。
上野を出て尾久・赤羽・大宮と停車していたけど、尾久は代替できる電車や列車がないし、赤羽は乗り換えで必要だったから、京浜東北で代替できる浦和は通過になった。
ただし、朝夕は京浜東北だけで輸送力が足りないから、停車していた。
上越新幹線が開業した1982年11月のダイヤ改正で、中距離列車の浦和終日停車が実現した。
>>192
大宮始発の高崎行きとか宇都宮行きもあったな、昼間に。
臨時特急が走るから、上野〜大宮は区間運休なんていうこともザラにあった。
今となっては信じられないけど、1982年頃までは当然だった。 新幹線大宮開業前の上野駅は夕方行くとディーゼル急行の夜行列車とか停まってて楽しかったな
高崎線と常磐線は上越新幹線開業まで旧型客車の鈍行があった 先日、下妻に行った。東武バスが走っていたとは信じられない感じであった。
JR・茨城急行とも下妻には乗り入れていないので、古河方面にバスはない。
八千代町は下妻が最寄り駅で、バス路線が下妻方面にないのは、
ちょっと意外な感じがした。ほとんど利用客はいなかったのだろうか? >>196
今は古河方面にしかバスがないみたいですね
下妻に出ても乗り継ぐ先が常総線でアクセスが悪いので時間がかかっても古河方面に出てしまうんじゃないですかね? 文が変だったので補足
今の八千代町は古河方面にしかバスがないみたいです >>197
常総線は増発したし、一部時間帯で快速運転が始まって便利になった。
守谷からつくばエクスプレスに乗れば東京の東側へは便利。
昔と状況が変わったのだから、下妻を拠点に路線バスのネットワークを再構築できればいいと思う。 >>190で大昔の中電浦和通過の件でレスした者だけど、みんな俺のほぼスレ違いな
疑問に答えてくれてありがとう。
そう言えば、上尾駅東口の再開発が完了してからしばらくは上尾駅東口行きの
バスの行先表示に「アリコベール前」ってあったな。アリコベール自体、東武
グループさんで開発した商業施設だったし、宣伝的な意図があったのだろうか? >>200-201
古河方面と土浦・つくば方面が1時間ごとに等間隔で発車すれば便利だろうけどね。
全列車接続でなくても構わないんじゃないかな。
下妻駅前に時間を潰せるような施設があるといいけど。
>>202
鉄道とバスは密接に関係しているから、スレ違いとまでは思わない。
実際の所要時分はともかく、停車駅が少なかった頃は気分爽快だったのを思い出した。 >>202
しらこばと団地を通る上尾駅東口行きは
「上尾駅東口・アリコベール行きでございます」
と放送していたな。 50年位前に志木駅南口と朝霞テックを走ってた路線なかったっけ? 小学生時代オヤジと東武バスで古河駅前から下妻経由して土浦駅まで
2回ほど利用したことがあります。当時はまだ車掌さんがいましたよ。 >>208
古河駅から国道125号線をひたすら走っていました。
下妻市に入ると内山観光の車庫を横目に下妻駅に一旦入り
戻って下妻上町から125号線に出て
筑波町北条の商店街を通って土浦駅の西口に到着
2時間ぐらいかけて走っていました。
筑波山へ行く場合、北条で乗り換えの案内もしていましたね >>209
ご教示いただきありがとうございます
諸川経由の下妻へのルートですね
下妻から土浦まではいつ頃に廃止されたのでしょうか 昭和の上尾や鴻巣はあちこちの方向に東武バスが発着する、今でいう
「ハブ」みたいな感じだったよね。上尾では今もある川越行や西上尾
団地行に朝日さんへ移管された伊奈方面の他に浦和方面に熊谷方面
まであったし、大宮行きなんか東西どちらの出入口からも出てたよ。
鴻巣にしてもやはり今は亡き羽生行や熊谷行も出ていたし。鴻巣の場合、
残ってる路線もほとんどが朝日さんまたは川観さんに移管・川里循環も
今や「フラワー号」がこの代わりみたいなものだよ。 >>211
ネットワークがしっかりしていたから、路線バスの利便性が今よりもずっと高かったのだろうね。
路線が減りだすと、どんどん不便になる。
駅まで行く路線があってもその先がなくなると、駅までのバスを利用しなくなる可能性が高くなる。
これが悪循環というもの。
そのうち、住民ですら路線バスがあるのかどうかすらわからなくなる。 利用者が少なければハブになっているような路線でも維持するのは難しくなるし仕方ないとおもう
平行している路線の場合、鉄道の本数が少なければバスのアドバンテージがあるが
首都圏のように東京に向かう鉄道路線は本数が多く、本数の少ないバスはどんどん不利な立場に追い込まれる
実際埼玉県内でも本数の少ない八高線沿いではまだ並行路線バスが残っていたりしますからね >>211 高崎線の大宮から籠原までの各駅はそれなりに路線網が残ってると思う。
線路沿いの街道路線は上尾より北で淘汰されてしまったけど、高崎線の増発と北上尾、
北鴻巣開業が大きいから仕方がない。でも籠原から高崎にかけては本庄、新町に細々と
路線がある以外はバスがない地域が増えたね。 伊奈町の友人が上尾駅~伊奈役場ゆきが東武バスから朝日自動車に移管された時に、車内で関東地区の共通のバスカードを買ったら、社名の所が東武バスだった。
運転士さんに朝日自動車の名前の入ったカードがないのかと聞いたら、当時は朝日自動車の親会社が東武だから、親会社のカードで対応すると言ったんだって。 >>215
その当時の「東武バス」は東武鉄道の直営じゃないのけ? 今もPASMOで乗車すると履歴は「東武CE」になるよ
朝日だけでなく川越観光や阪東なんかもおなじ >>217 子会社が別々にPASMO加盟するとそれぞれの加盟料を取られるから、
東武バスセントラルを幹事会社にしているのかな?
理由はともかく東武鉄道バス事業本部ファンとしては、子会社に移管された路線を
乗りバスしたあとカード履歴を確認したとき、「東武CE」の文字を見て東武バスに
乗ったような錯覚に浸れるから悪くない。 朝日になって本数増えて使いやすくなった路線は多い。
しかし越谷〜岩槻線は今でも微妙に東武ナイズ。
基本的に通し運行なのに昼間だけ双方から水上公園折り返しに。
東武時代からこうだったのかな? >>219
東武の時は基本通しで越谷からは水上公園区間便が有ったけど、岩槻発は知らない
夜間は荻島小止まりがあったはず 昔、大宮駅から、東松山行きがあったみたいですが、本数と廃止された時期を教えて下さいますか? 晩年は荒川を境に大宮駅〜平方と出丸〜東松山駅に分割されて、今でも大宮駅〜平方の路線は残ってるね
反対側の東松山駅〜出丸の路線は昭和末期まで何故か日中に2本ぐらい免許維持のごとく残っていたようです >>224さん
大宮〜平方間は今でもそこそこの本数が確保されていますね。
私もこの路線が昔は東松山まで繋がってたと知っていますが、
これを初めて聞いたときには驚きでした。平方から東松山の
バス路線、今となっては夢物語ですよね。 東武時刻表によると昭和54年の時点で東松山から平方へは1日1本しかない 日中に2本ぐらい免許維持のごとく残っていたのって川越からの出丸循環じゃね? まだ10年そこそこだけど川越とえば芳野中学校循環ていうのもありましたね。
宮下町循環はまだあるのかな? >>229
川越05芳野循環だな
芳中先回り、医大先回り、芳中止まりがあった
宮下町循環はあるけど宮下町バス停は改称してしまったね 春日部駅で。
「西口循環(左)」「西口循環(右)」って
うっすら覚えてる。 >>232
流石にそんな長距離はないが
草加から柏までは直通があったはず >>232 春日部からあった長距離路線は春日部〜大宮線だと思う。
水戸からはどんなに遠くても下館までだったかと。 群馬県は上越線の後閑駅、未だにターンテーブル現役だったな。
しかも薄れつつも「東武バス」と書かれた看板と、東武鉄道名義の国鉄用地使用承認標が残ってたな。
しかしなんで、後閑なんて田舎にターンテーブル作ったんだろ。都内や埼玉の駅前と違って特別駅前が狭いわけではないのに。 東武佐野線の吉水駅に「佐野日大高校」と書かれた東武のオレンジポールが残っているね
今でも関東自動車が運行してるのかな? >>236東武鉄道は組合が強くて他の大手私鉄に比べて、車掌乗務のツーマン路線が残ったけど、ワンマン化に際して誘導員を常駐させるよりもターンテーブルを置いた方が人件費削減になるという考えかと。後閑駅は今よりバスのロータリーが昔は狭かったとか? なんで東武は練馬や豊島から撤退しちゃったのだろうな。
免許維持程度でいいから路線を持っていた方が良かったと思うが。
国際興業に不満はないけど、なんだかつまらなく感じる板橋区民の意見。 >>239
> 免許維持程度でいいから路線を持っていた方が良かったと思うが
確かにそうなんだけど
昭和40年代、路線バスが儲からなくなって各社でエリア調整したわけだから仕方がないよ 東武は元々バス参入が遅かったから
既にあのあたりは国際興業や西武が採算取れそうな路線は走らせてしまっていたから
微妙な路線ばかりだったのが原因では その西武だって、宿20を残しておいたから、池袋駅前にバス停を確保できて
これを使って高速バスを大量設定出来た。
東武も何か1系統だけでも池袋発着便を残しておけば、池袋〜栃木・群馬方面の高速バスを東武単独で設定出来たのに。
今でも東武単独で高速バスの停留所を作れるんだが、そのためには東上線・東武百貨店の敷地を削って
東武私有地内に置かなきゃいけない。バス停よりデパート化粧品売り場に使った方が儲かるのは当然の話。
今から池袋駅前の公道上にバス停の認可を取るのはほぼ不可能。 >>242
そんなことしなくても
東武には西口にミッドナイトアローのバス停があるんだけど >>245
ポールが別々だから間借りにはあたらない。
仮に間借りだとしても、バス停設置に運輸局への届け出も事業者ごとだかんね。
間借りだから却下されることは無い。
それと、西武バスの宿20系統と高速バスの池袋駅発着場所、それぞれ違う場所だかんね。
結局、東武グループとしては高速バスを運行してもうま味が無いってことなんじゃね。 >>248
ならどんな計画があったのかって話
そして、昔は昔、今は今。
路線の開設は今は届出制。
過去に様々な要因で路線開設が出来なかったとしても、今は可能。
仮に当時路線開設が出来たとしても、今現在、路線開設していないってことは、いずれ路線廃止される確率の方が高かったってこと。 >>249
無理やりな結論だなあw
今はJR直通特急があるから事情が違う >>250
ならそれが東武が高速バスをやらない理由なんじゃないのかな
JR乗り入れ特急列車だって、東武区間内のみで利用するにもJRシステム使うから、コストの割にあんまりうま味無い >>251
> コストの割にあんまりうま味無い
これ具体的な数字出してくれる? >>252
その前に東武が高速バスを池袋に乗り入れ出来なくて失敗したことが先だろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています