昔の東武バスを語ろうよ!4
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あと付けで冷房車に改造したのに、機械が不調で使用停止、窓全開。日野のバス窓。群馬の営業所。 え、6983が新座の5Eだよね?
とか言って良いの? いま一度、貸切高速系のリヤウインドウステッカーの営業所別の一覧表が欲しい。
川越・熊谷・越谷・西柏の略号が未だにこんがらがってる件について 新座って7Eボディー車配属された事ないよね?
草加には日野シャーシの7E車とかいた。 >>32
新座はいすゞ車時代でも7Eは配属されないで日野車化された気がする >>32
短期間でかつ転属車だったけど、2000年代中頃にいすゞの7Eがいたような
新座だと8EのLRとRNは結構記憶に残っているよ 越生出張所って坂戸に移転するまで埼玉自動車時代と同じ黒岩バス停付近にあったんですかね?
昭和50年の航空写真を見ると田舎の町でよく見かける敷地いっぱいに屋根付き車庫らしきものがありますが
これだと数台しか入らなそう >>34
新座にLRいたんですか。
中型車はRJオンリーのイメージだったんで。 >>36
いたよ
ツーステかワンステかは記憶が曖昧だけど、中4枚扉の車両だった
今新座にいるエルガミオに置き換えられて消えたはず
RJがいたのは覚えているけど、個人的にはRJの方があまり記憶に残ってないな >>37
ツーステップで中扉なら基本的に都内配置車の玉突きだね
ワンステップだとメーカーで後扉の設定がなかったから後乗り地区でも中扉(4枚扉)仕様だったけど ツーステLRなのに4枚折戸の車もいたよな。
そこまでワイドドアにこだわるかと >>40
一応ツーステは前のり路線がある営業所向けに新車投入してたから、まだ良しとして・・・
あとから転属したりしたのもあったかもしれないけど
ワンステ・ノンステの4枚折戸は、後のり路線の営業所にも新車投入したから
新車時から廃車まで4枚折戸の半分しか開かないようにしてまで入れる意味あったのかねぇ・・・ >>40
他にもHTとRJで中4折戸ツーステのタイプがあって、どちらも最初から埼玉県内に配属だったな
>>41
ノンステ中4折戸は存在しないような
たしかに東武の中4折戸車はなぜか半分しか開けてなかったね
スロープを付けずに、真ん中に手すりを付けていたからなのかね 大宮の前のリ運賃申告制というと、日野のブルーリボンHTの3ドア車を思い出すな。
まだ、バスカードが出る前は紙の回数券だったし。
メジカルセンター行きを思い出すな。
バスカードができて、3ドア車は中ドアを締め切りにして、前後ドア車と同様に後ろのリ前降り運賃後払い整理券方式になったな。
大宮の3ドア車は前橋営業所に移籍して、そのあと関越交通に引き継がれたものもあったし。 3扉も東武らしい無駄の極みよな
前中扉車で十分だっただろうに、後乗り区間のためにわざわざ後扉つけるんだから
なんであんなに頑なに後扉に拘っていたのか >>45
>3扉も東武らしい無駄の極みよな
関東バス激怒 >>46
関東バスは降車時間の短縮にのために入れてたから東武と事情が異なるのでは 側面方向幕の照明は同じ物2個装備してるから?白熱灯で倹約してます。という謎のアピールw
中引戸車や後折戸車のそれは、蛍光灯だった。 東武系はやる気を無くす企業体質
テキトーに休んで楽な仕事して長く務めるのが得策
よく潰れないなと感心する >>45
ガードレールの切り口に合わせてたんでないの知らんけど ガードレールの問題もあるのかも知れませんが、その割に新車導入で余剰が出た都内配置の古い前中扉車を
後乗りの熊谷、行田、本庄、小川町、幸手、加須、菖蒲、群馬に大量に送って前後扉車と混用運用させたり謎w 都内で使っていた、前中ドアのバスを群馬県や埼玉県の営業所に異動させても、東武バスは側面方向幕の位置を改造せずに、前ドアの右側のままだった。
それだけ長くつかうわけでもないとか、改造費節約したんだろうな。
東武バスだけでなく、前のり中降りのバスを中古で購入した地方のバス会社でも、側面方向幕を中ドアの近くに移設する改造をしないでつかっているところが、最近多いし。
宮城交通とか名古屋市バスの前のり使用のばすとか側面方向幕は前ドアの右側だし、静岡の秋葉バスにも、日野の中型ロング(もやし)で元名鉄でない方が側面方向幕が前ドアの右側だし。 >>53
前中扉は特に熊谷に多かったね
埼玉県内だと熊谷、行田、本庄、加須、菖蒲、小川町あたりに都内からの前中扉車がいた
北部地区は新車配置が基本的になかったから、こういう玉突きで置き換えが進んでた
しかも前中扉に統一するわけでもなく、
千葉や埼玉県内の営業所から転属させた前後扉も併行して入れてたから統一感がなかった
平成にはいった頃は観光バス格下げ改造したゲテモノもいたっけ
廃車発生品の中扉新設、後部方向幕も車体組み込み改造、
行灯とグリルを外して路線車の廃車発生品のヘッドライトを付けた車とか
同じ改造内容の車両は1台もなかったんじゃないか 菖蒲の北本団地線は
前乗り先払いだったから
都内からのバスそのまま
使ってたな
後ドアのバスもいたけど 群馬県内だと貸切バスの改造で中ドアをつけたり、オデコに正面方向幕をつけたりと、前橋、桐生、あと沼田、渋川と山間部の路線を持つところが多かった。
平野部だと、太田営業所が熊谷にのりいれるので、一台だけ前中ドアの日野車がいた。
貸切り格下げはもっ桐生ボート専用になっていたな。
ただ、ある日一台だけ、いすゞのCJMの純正車体(川重)がはいって、日野指定の太田営業所ではめだった。
まさか、その数年後太田営業所が前橋営業所の管轄から熊谷営業所の管轄にかわりバスも日野からいすゞに変わった。
それをみこして、一台だけ入れたのか、たまたま、移籍できる日野車がなかったのか?今でも謎。 >>56
太田のCJMってあの整ったフォームの後期型のやつかな
一度妻沼で見かけた記憶が
群馬の営業所だともう晩年はどこもいすゞ日野混合状態だったからあまり考えず入れたんじゃないですかね
昭和末期から分社化までやってた新座、東松山、沼南と続いた、いすゞ車→日野車入れ替えで、
全体的にいすゞ車のほうが車齢が若いのが余ってたので、転属車が入る営業所だといすゞ車を入れやすかったかと >>57一度だけ熊谷駅→太田駅で太田営業所の前後ドアのCJM に乗った。
熊谷営業所にいた川重のBUと顔が違ったからCJMとわかった。
日野車でしかも富士重ボディもいた太田営業所ではめずらしかったし、東松山方面の東武バスはいすゞでも富士重だったし。1990年頃だったかな? 群馬県の平野部は1970年代後半から路線廃止とかでてきて、運賃が高くてバス離れも起きたり、元々車社会だからバスは弱かったのか。特に太田市はスバルの企業城下町だったし。
細谷駅近くにある私立大学も、東武伊勢崎線が少ないので車通学を認めていたし。
あの当時、太田駅〜東毛病院線のルートを下浜田交差点を直進せず、右折し、関東学園大学、太田就業高校、細谷駅、冠稲荷を通るコースにすれば良かったと思う。
対東毛病院だと、すこし寄り道するルートだけど、過去に太田駅〜冠稲荷〜細谷駅を1970年代に運行していたし、東毛病院線はナロー車(今の中型バス)限定路線だったけど、雨の日とか学生の利用が見こめた。
中小私鉄なら増収のためのルート変更はするけど、当時東武バスは大手私鉄を良いことに危機感がなかった、乗らないなら廃止に。とか。
1990年代に入って太田市がコミュニティバスを運転するようになって、やっと大学前によって、宝団地に行く路線ができたけど、路線再編で廃止になった。
長文失礼。 行先さえあってればいいだろ、とばかりに
系統番号の表示が適当だったり。
かと思えば「東武」だけだったり。
結局どこ行くのよ…と。 >>60
東武は行き先と系統番号は同じ幕だから手抜きしようがなくね? >>60
系統番号の付番の仕方がって事ですかね?
行先別に細分化された付番も枝番も設定せず一定方向はすべて同じ系統番号だったりそうでなかったりって事?
もしくは駅の東西発着を分けなかったりとかですかね?
>>61
同じ幕でもこういうのもあったり
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/94/6df107fa4c8065ea5e170aedfceb0b08.jpg >>62
「系統番号の表示が適当」であって「系統番号が適当」じゃないから違うだろ
本来
何ちゃら01系統何ちゃら駅前行なのに「何ちゃら02 何ちゃら駅」って表示出して走ってたってことじゃね? >>62昔、桐生営業所にいたバスのリアの方向幕と系統幕が別れていて、実際は一本の幕なので、系統幕は白、方向幕部分に桐生天神町だった。
窓枠のことを考えて、方向幕を作らないと、系統番号か窓枠に隠れて見えないとこうなるんだ。 そうじゃなくて、もともと系統と行先の間に間仕切りがある幕だったけど、間仕切り無しの車が増えてそれらと幕を共通化した結果じゃないの? そんな簡単に共用出来るもんじゃない
中身の機械全部入れ替えるぐらいしないと無理なんだよなあ 外野だけど東武の幕は系統と行先の幕が一枚物なんですね
地元のバスは別々だったので>>60や>>63のようなことがありました 他社の話だけど、国際興業バスは一本化する前は、正面は系統幕と行き先の方向幕が別れていた。
いすゞBUの時代かな。そのバスが岩手県交通に行くと、系統幕は幕も入れずそのまま、横の幕もそのままで、旧岩手中央バスエリアの盛岡市内のバスは鉄板のサボの経路図が入口についていたな。(1986年頃) いわき線で30分前に出ていた前便のJRバスを煽っていたのは懐かしい思い出 今では分けたけど
みーんな岩02だったなあって
岩槻駅には日に数本しか行かないけど
川越06はまだ同じみたいね あの路線は上尾担当に川越担当の区間便が混じってるから難しいんじゃね? 鴻巣駅〜免許センター
昔は全部東武鉄道だったのに、今や朝日加須がメインで次点国際。
東武バスは辛うじて来てるけど川越から平日の数本だけになっちゃったね
今や鴻巣なんて北の方で見る東武バスに違和感さえ覚える始末 大宮発の深夜急行バスに国際興業のなかったっけ?
それ以外だと朝日中心で東武と川観がちょっぴり顔出すってかんじだな >>75 >>76 国際十王のつもりで書いたんだが、そもそも間違ってたw
川越観光な
ちなみに今の鴻巣駅〜免許センター間て定期券はどういう扱いなんだろう
まさか3社共通ではないだろうし YouTubeで昔の白黒のニュース映像のに東武バスが出ていた。
タイトルが「バスに乗りません」
綾瀬駅〜東綾瀬団地の東武バスが20円から30円の運賃値上げに反対した団地の自治会が、タクシーの中型車で駅まで五人あい乗りすれば20円でゆけるからと、団地内に自治会がタクシー乗り場を作り、自治会が持ち回りで係員までおいている。
時間通りにくる東武バスは誰も乗らず、運転士さんだけのワンマンバスに。
東武バスの担当者のインタビューは、乗る乗らないはお客さんの判断ですからと。
シマシマカラーだから1960〜70年代の話ですが、結局路線は廃止になったかどうかは不明。
自治会が折れて、今でも走っているのだろうか?
今、路線を廃止にしますといったら、逆に泣きつかれて廃止しないでとなる。 >>80
それ見た記憶があります
東綾瀬団地〜綾瀬駅は現在バスで210円ですが、2kmなのでタクシーだと初乗り区間内
740円を5人で割ると148円で確かにタクシーの方が割安ですね・・・ 実際相乗りするとしても4人まででしょうから、そうなると185円
それでもバスより割安ですか >>80 そこは朝日自動車のはるかぜが通ってるね。
あれも越谷から何台も回送してくるんだからすごいよな >>81
近いのね
近すぎて定期代出ない会社が多かったのかな? 武里駅で「武03せんげん台駅行」を待ってる。
やってきたのは「千01せんげん台駅」の表示をしたやつだった。 北関東.埼玉県北の東武バスといえばこれからの季節が一番似合ってると思う
刈り取り後の田畑を灯油ヒーター効かせながら走る姿が好きだ
そして足立区や越谷あたりの団地路線との対比も好きだった。
今東武バスでこの雰囲気を味わえるのは川越〜鴻巣線くらいかな 「この先、踏切のため一旦停車します」というアナウンスが昔、あったな、熊谷駅〜太田駅の路線で、廃止になった東武熊谷線の踏切を渡るまえに流れた。
いまでも、踏切を渡る路線にはこのアナウンスがはいついるのでしょうか。 >>87
踏切アナウンスは多分営業所による
深谷駅〜寄居車庫線が東武バスだった頃そのアナウンス聞いた記憶がある
でも熊谷駅〜東松山駅が上熊谷駅前の踏切経由だった時代にそのアナウンスはなかった >>↑↑昭和30年代の全国のバスの写真を集めた写真集にグランドハイツの行き先表示をした東武バスが載っていたよ。 東武も練馬出張所があったらしいな
今は国際興業の縄張りだが。 さよなら、朝日自動車。
こんにちは、あさひ自動車。 都内の昔の路線図どこかにないですかね?北千住ー皿沼循環があった頃よりもう少し前、
たしかよくわからん西新井ー江北あたり?循環もあったような・・・ >>94
昭和50年代末には冊子で配っていた国際興業とは違って純正の路線図は車内に掲示されていたものくらいしかありません
倒産した人文社という地図出版社が発行していた広域道路地図にはバス停留所名が記載されているので
古いバージョンのものを(1980年代中盤くらいまでは市場に出ることがある)古本屋で探し出しましょう
あとはこのサイトはお薦めです↓
http://www.tsune-file.net/coach/246/index2.html あとは昔出してた雑誌サイズの東武時刻表にバスも全部じゃないけど載ってるね 自己レスですが
>古いバージョンのものを(1980年代中盤くらいまでは市場に出ることがある)古本屋で探し出しましょう
地図の場合数年に一度のバージョンアップがあるのは当然であくまで指定した時期のものを探さなくてはなりません
そしてネット通販の場合大体出版時期が非表示か間違っているケースもあります
ここら辺を充分ご注意の上お探しください
神保町の古本街でも中々手に入れにくいものですがバージョン関係なければネットには結構出ているものなんですね〜 昔の東武バスといえば群馬県内の営業所にいた、貸し切り落としで中ドア増設のバス。
入口脇の方向幕が縦長で、「回送」表示が縦。
普通は横長で、右から左に途中バス停が書かれていて、一番左に大きく終点が書いてある。
縦長の場合は、上から下だったきがする。
桐生営業所の貸し切り落としに、足利両毛駅から足利東武駅まで乗ったことがある。
正面はもちろんおでこに方向幕。 >>99
本庄にも配置されていたが、客側からは冷房付き、
座席数も多く乗り心地も良く好評だった。
運転手と、昔は貸切でこんな車でスキー場まで行った
などと車内で会話も弾んだ。
当時の路線車と比べて、パワステなので運転は楽だが、
通路が狭く通学時間帯は遅れ気味になると言っていた。
車号は5千番台、ちょっと流線型?のような顔立ちで
窓の上端と下端が前後方向に対して斜めになっている車だった。 貸切格下げ車は埼玉県内だと本庄、小川町、行田、幸手には所属してた
加須にはいたか記憶がない
熊谷にはいなかった 群馬の太田営業所にも一台貸し切り落としがいたけと、太田〜熊谷線につかわれることがなくて、
「桐生ボート」の熊谷駅〜桐生競艇場に使われていた。
大学四年間乗る機会がなかった。 太田の貸切落としはよく熊谷駅に現れていたような気がする
平成2年頃だけど その頃だと太田には何台も貸切落としがいたな
純粋な路線車の方が珍しいってぐらいに 桐生と前橋が無くなって、その貸切落としが太田にあつめられたのだろうか? 時期的に桐生閉所前だからなぁ
それどころかその時代なら渋川や沼田もあったはず
その後の閉所相次ぎでいすゞ車は余剰になってたから、玉突き的に格下げ車は廃車になったと思う
日野車配置だった太田のいすゞ車での置き換えも、そのいすゞ車が余剰になってたことに伴うものだろうし 館林営業所が太田営業所の出張所扱いに格下げになったころ。
朝、三台まとまって太田営業所に帰ってくるのを見たな。
館林地区の朝のラッシュ運用で使われたのだろうか? 1983年ころ東武バスの太田営業所担当路線★桐生営業所や足利営業所などの共管路線を含む。
・太田駅〜妻沼〜熊谷駅
・急行/熊谷駅~バイパス~妻沼★鉄道の東武熊谷線代替バス
・熊谷駅〜妻沼〜西小泉駅
・太田駅〜植木野〜足利両毛駅
・太田駅〜新宿〜足利両毛駅
・太田駅〜西小泉駅
・太田駅〜館林駅
・太田駅〜太田駅南口〜南一番街〜(太田バイパス)〜西小泉駅〜赤岩統合中学校
・太田駅〜広沢〜桐生天神町
・太田駅〜葉鹿下町〜桐生天神町(★一日1本)
・太田駅〜太田呑竜〜青年の家
・太田駅〜下浜田〜東毛病院
・太田駅〜由良局前〜宝団地
・太田駅〜由良局前〜宝団地〜木崎駅〜尾島三菱電機。 群馬最後の営業所だった太田と茨城最後の営業所だった境
どっちも群馬の営業所、茨城の営業所といっても埼玉に稼ぎに行く路線がほとんどだよね。
いまだに春日部で見る土浦・つくばナンバーに違和感があるよ。 >>101
おそらく加須にもいたと思う。
宮原駅⇔鴻巣駅の路線で、上尾駅にて1986年頃目撃したから。
担当が熊谷が違うと加須になるはずだから。
当時、日野のブルーリボンのような最新のバスが登場した頃で、
自分的には貸切車の改造など見たことなくて「なんだこりゃ」と驚いた。
当時は今みたいにカメラを持ち歩ける時代じゃないので、
今でも撮りたかったと悔しい思いでいるよ。 >>101
所属は茨城(岩井)だけど、たまに北越谷に顔出してたよ 群馬県最後の営業所が、前橋営業所の廃止で、前橋営業所太田出張所から、熊谷営業所太田出張所になった時点で、群馬ナンバーから熊谷ナンバーに変わったと、高崎経済大学の先生の本に書いてあった。
群馬県は日野が指定メーカーだったけど、熊谷営業所太田出張所になった時点で、太田出張所もいすゞの経年車を集めたのだろうか?
熊谷営業所の出張所になるのを見越してか、川重ボディのいすゞのBUかCJMが1台いたことがあって、偶然熊谷駅→太田駅で乗ったな。 >>115
桐生撤退以前からいすゞの車は群馬に転入していた
昭和末〜平成初めの頃の営業所と車両状況を単純に考えればわかるけど
埼玉県南(上尾以南)と都内、柏(西柏・沼南)に新車を配置し同数の経年車を捻出した場合
営業所のメーカー指定が従来のままでは日野が足りずでいすゞが余る それで東松山とか新座とか沼南はいすゞから日野に鞍替えしていた訳か。 昭和終わりの頃からだんだん日野車の新車割合を増やしてはいたが
逆に日野からいすゞになったというのは少なくとも新車が入る営業所ではなかった気がする
沼南が途中で諦めていすゞに戻したぐらいかな?
ただ日野車の新車をいすゞ車の営業所に入れていったせいで、いすゞ車のほうが年式が新しめのが余ってきてたので
群馬とかは日野車だった営業所も必然といすゞ車混合になっていったね そういやKC-LVが出た時の東武の嫌がりっぷりと言ったらなかったな。
撤退だ、ダウンサイジングだとドサクサに紛れて中型車ばかり入れてたが、いすゞの大型新車は補充と言うには極少量過ぎた。
V8になって突然排気量が増えたからねとは森林公園の物識りウテシ氏の解説だったけど。 中型車はどこでも嫌われていたね
朝日みたいに中型にする代わりに本数を増やすというならともかく、東武の場合は本数そのままで中型にしたから
平均乗客数を調査してある数字以下の路線は全部中型にしたから
昼間はあまり乗ってないけど、朝夜は混んでるといった路線は中型化されやすかった
当然、朝夜は大混雑乗り切れないといった事が発生してかえってバス離れを増やす結果に
あれもそんなに問題起きてなかったらその後も全部中型入れてたと思うよ 群馬や埼玉県の東武バスの路線を引き継いだ当初、朝日や川観が新車でいれたのが中型で、大型は東武バスからの移籍車だった。
朝日自転車の太田営業所は例外で全て中型の新車で元東武バスはいなかったはず。 >>121
朝日は2000年の越谷・春日部・行田営業所移管まで移管のたびに全部新車を大量に入れてたと思う
1台だけなぜか元東武の中型車が混ざってるというのはあったけど
風向きが変わったのが2001年の熊谷営業所の国際ハイヤー(当時)への移管
東武バス熊谷営業所に所属していた車両が丸々国際ハイヤーに譲渡されて新車は入らない事態に
朝日でも、2002年の菖蒲営業所移管から新車を一切入れず、大型も中型も全部東武の経年車を使ってましたね
川観も同じでそれまでは全部新車入れてましたが
2002年の森林公園営業所移管では、新車を一切入れず全部東武の経年車(大型中型とも)を使ってますね
この3つの営業所に共通することとしては、どこも所属台数が50台前後と巨大営業所だったので
数が多くて新車費用が重荷になるからか、あるいはいっぺんに新車を入れると置き換えが大変になるからかもしれません
ちなみに菖蒲と森林公園は東武時代末期まで新車が入ってた営業所なので
移管の際には東武バスの各営業所から集めてきた古い車両と入れ替えられて、朝日・川観に譲渡されています
やはりいすゞ車が余ってたので、日野車だった森林公園も譲渡されたのはいすゞ車だらけでしたね
ですので、菖蒲と森林公園出身の車両って数年前まであちこちの東武バスで見られました 野田あたりにKC-LV前後扉のツーステ車が1台だけいた気がする。 >>122
川観森林公園、9467は例外で新しいクルマが残った(ラッピング広告のため) 東武バスの太田出張所を朝日が引き継ぐときに、スバルのお膝元という理由で、富士重+UDの中型と日野RJの中型バスになったとか。 昔の東武鉄道バス時代なら熊谷のW杯ラクビ―は
東武バスを各地でかき集めて東武軍団でやったのだろうね。
埼玉博(東武バス・秩父鉄道バスが送迎を担当)を熊谷で
やった場所がラクビ―場になっている。 >>123 野田→西柏の2485ですね。7ELVあれ一台きりだった。
12年で置き換わっちゃったね。
あと菖蒲にいた新7Eワンステはわりと最近まで三郷にかたまってたな。 >>119
だけどエルガ世代のV8は普通に入れた。
いすゞはガーラとLRだけにしてブルリシティとモヤシを入れるという選択肢もあったはずなのに。
富士重が日野への架装をやめたので対応しているいすゞを継続させたのかもしれないが。 あの頃の東武バスは1円でも削れるものはとことん削ってたからな
中型車導入から始まり、大型が復活してもモヤシを入れたり、新車のサッシをブラウンからシルバーのに変えたり、
ベンチレーターも2個から1個へ減らしたり、再生タイヤを使ったり・・・ >>111
境営業所が越谷の出張所になったとき
土浦ナンバーが春日部ナンバーになったかと
後面の広告が「徳生のうどん」で、茨城のバスって雰囲気まんまだったな 昔、梅田7丁目なんて東武にあったそうだがどうやって折り返してたのか?
西新井〜安行なんかは七曲り通ってたのかなあ??皿沼循環が北千住発着だったのは
記憶にあるがどうもわからん・・・ >>122
俺、菖蒲が朝日バスに移管されたときに地元だった者だが、見た目は東武バス
このままで、東武カラーの日野車もあったな。まさか菖蒲で東武カラーの日野
車を見られるとは思わなかったよ。菖蒲に3扉車とは貴重な経験だったな。 >>132
3扉のでしたっけ?
確か移管寸前に森林公園に転属したのでそのまま川越観光に移籍する車両かと思いきや
移管前日に菖蒲に行ったのがあったはず 高崎経済大学の先生が書いた昔の東武バスの本の中に、群馬県内の主市と前橋市を結ぶ急行バスを運転していたと。
前橋〜館林は群馬中央バスも急行バスを運転していた。
2021年度を目処に、高崎駅〜館林駅の急行バス(BRT )をバイパス経由で運転する計画がある。
館林から前橋、高崎だと伊勢崎で乗り換えが必要で東武伊勢崎線は日中一時間に一本しかなく、遠回り。
バイパスは直線で高崎〜館林をむすんでいて、途中鉄道の駅との接点がなく、バス停も少なくてする。
もし、これが改行したら東武バスの急行バスの復活とみてよいかも。
ただし、東武バス以外の会社が群馬県から委託されてやる事業。
ただ、BRT 計画の予算が計上されていないようで、2021年度開業は? >>129 「東武バス」を「東 武」にすることで経費削減になるなんて冗談みたいな話を
聞いたことがあるけど、まんざら嘘ではないのかな >>135BRTの計画、災害復旧工事が先と県議会で話がでて、中止になっていた。
エリア外民なんで、情報が古かった。
災害復旧がすんだら、このバスの計画を進めてほしいな。
東武のからみがあるから、朝日自動車、関越交通、群馬中央バス、日本中央バスが委託を受けそうだ。 >>131
梅田七丁目は折り返しじゃなくてループだったよ
第二庁舎を直進するのが先回りかどうかは定かではないけど
これは余談だけど第二庁舎の帰りに梅島の東急ストアのおもちゃ売り場であそべっち買ったよ
西新井から安行のバスは七曲から前沼の交差点を抜けていたはず
あとで路線図見てみる >>133さん
そう言えば、朝日の菖蒲には2159号車いう、東武から一旦、国際に行ってから
菖蒲移管時にこちらに来たのも予備車ながらもいましたね。{同車を実見した
ときに「国際バス」「2013」(国際時代の社番)の文字がうっすら浮いてた}
そちらの仰る、森林公園・菖蒲の移管時に森林公園に転属しながらも移管
前日に菖蒲へは日野車でしたか? 確かにあの移管時はいろいろ
ありましたからね。 >>140
ありがとう。カリブの先あたりの一通でループしてたのかな?
東急ストアか。旧中央図書館並みに懐かしいな。
ぜひ路線図を見てみたいね。 >>129さん
20数年前の東武バスは新車をナロー車にしていましたね。しかしながら、この
ナロー車、私個人的には気に入っていました。今も当時の東武ナロー車、
どっかに譲渡されて活躍中かな? スレチ失礼。
90年代中頃って東京近辺て一斉に中型バスが導入されましたね。
東武だけでなく京成とか国際興業とか神奈中とか。
バブル崩壊の影響?? さらに共通してるのはその後子会社へ移管する流れだよね
東武の場合は輸送量減少してるから中型車でも大丈夫なはずだと本社のお偉いさんが実情を配慮せずに
中型車投入を決断して現場は大混乱って流れですなぁ
1日の輸送人数で見れば中型車でも余裕な路線でも
東京周辺の場合は通勤輸送のウエイトが大きいから、そういう時間帯の本数を増やさずに中型車にしたことで
朝夕は乗れないといった状況になってバス離れを進行させる原因に・・・ >>145
国際興業は大型も短尺(9M級)ばっかになったわね
愚かなこと とおくから、高級カメラを携えて
うれない街、東武線沿線の撮影地へ
ぶっそうな田舎の集落でべスポジをもとめて
てっていして線路脇の道なき道を匍匐前進
ついつい田畑を踏み荒らし、村の百姓の怒りを買うのはご愛嬌
どんな列車もバリサク・シチサンで撮影し
うれない土地にカネ落とさず
と おくから、高級カメラを携えて
う れない街、足立区内の撮影地へ
ぶ っそうな竹ノ塚の街中でべスポジをもとめて
て っていして線路脇の道を匍匐前進
つ いつい車の通行を妨げて、世間知らずの区民の怒りを買うのはご愛嬌
ど んな列車もバリサク・シチサンで撮影し
う れない足立にカネ落とさず とおくから、高級カメラを携えて
うれない街、東武線沿線の撮影地へ
ぶっそうな田舎の集落でべスポジをもとめて
てっていして線路脇の道なき道を匍匐前進
ついつい田畑を踏み荒らし、村の百姓の怒りを買うのはご愛嬌
どんな列車もバリサク・シチサンで撮影し
うれない土地にカネ落とさず
と おくから、高級カメラを携えて
う れない街、足立区内の撮影地へ
ぶ っそうな竹ノ塚の街中でべスポジをもとめて
て っていして線路脇の道を匍匐前進
つ いつい車の通行を妨げて、世間知らずの区民の怒りを買うのはご愛嬌
ど んな列車もバリサク・シチサンで撮影し
う れない足立にカネ落とさず とおくから、高級カメラを携えて
うれない街、東武線沿線の撮影地へ
ぶっそうな田舎の集落でべスポジをもとめて
てっていして線路脇の道なき道を匍匐前進
ついつい田畑を踏み荒らし、村の百姓の怒りを買うのはご愛嬌
どんな列車もバリサク・シチサンで撮影し
うれない土地にカネ落とさず
と おくから、高級カメラを携えて
う れない街、足立区内の撮影地へ
ぶ っそうな竹ノ塚の街中でべスポジをもとめて
て っていして線路脇の道を匍匐前進
つ いつい車の通行を妨げて、世間知らずの区民の怒りを買うのはご愛嬌
ど んな列車もバリサク・シチサンで撮影し
う れない足立にカネ落とさず ;┌─┐;
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板荷の出札窓口は明後日まで。硬券・補充券たくさん買わねば… 補充券天国東武万歳!!
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板荷駅の出札窓口、普通乗車券は完売…
野州大塚か渡瀬に行かねば… 京王は中型車ベースの長尺車の導入。ワンステでもありドヤ顔でアピールしていたな。
東武と神奈中はダウンサイジング=時代の趨勢との認識だったかと。明らかに先細りの東武はともかく神奈中には時期尚早で95年の1年こっきりだったかと。 >>155
大型ベースの低床車より遥かに居住性がよく遥かに安かったからな中ロン
都心の道路事情にもマッチしてたし >>146さん
本数このままにバスのサイズを小さくするとは、鉄道でいうところのやはり本数
据え置きで編成両数を減らしてしまうようなものだよね? それでもって更に
バス離れを誘発するとか結局は自分の首を自分で締めてしまったようなものだな。
東武グループの場合、中型化と引き換えの増便は子会社化してようやくの
実現だったしな。 >>157
実際積み残しってどれくらいあったんだろう? >>160
少なくとも平成8〜9年頃大51や大61ではありました。
大51はHRでも支障があって通常は入れられなかったのですが
今じゃエルガミオ入れても朝夕のごく一部を除けば大丈夫そうな。 茨城県五霞村の江川車庫はどれくらいの規模でしたか? しらこばと団地は給水塔のとこらへんでグルっと回ってたんですか >>161
>>157だけど、今は大51でもそのような状態なのはやはり乗客が減り続けてる
いうことかね? それともコロナ禍による一時的なものなのかな? ツーマン路線で道が狭くてワンマン化できないと、東武の場合は路線を部分廃止にするか全廃していたのが1960年代と70年代。
高崎経済大学の先生の書いた群馬の東武バスについてかいた表紙の写真のバスが沼田営業所のナロー車だったな。
群馬県内の各営業所にその日野ナロー車が配置されて、道路が狭い区間のある路線のワンマン化をしたな。
群馬県の場合は富士重工のお膝元なので、純正ボディ以外に富士重ボディもいた。
1983年頃の太田営業所だと、尾島三菱電機、宝団地、東毛病院、新宿経由足利両毛駅、植木野経由足利両毛駅、太田呑竜経由青年の家ゆきと、ほとんどナロー車。
青年の家ゆきは大型バスでの運用もあったが。
熊谷駅、桐生天神町、館林駅、西小泉駅経由赤岩統合中学ゆきなどが大型バスだった。 >>166
横からだけど浦33が日中毎時4本出てた時代だと浦33と大51で4本ずつ、計毎時8本で
7〜8分間隔
そこに時期によっては1〜2時間に1本の大52や大67があった
今は大51と稀にある大53だけが運行されていて毎時5〜6本、大体10分間隔
乗車率は今も昔もそんなに変わった感じはないが昔の方が若干多かった気がする
まだ大51は安定して乗ってる気がするが赤芝まで並走する大42は確実に減ってるし
大41/66の方面に至っては路線自体存在しない
浦33がなくなったのは新都心駅開業で片倉への乗客が消滅したのが決定打なんだけど
(当時はまだコクーン2がなく現在のコクーン3にヨーカドーがあり残った片倉工業関係者と共に通勤需要があった)
新都心駅〜与野駅間が国際興業が北浦50で復活したにも関わらず途中通過になってしまっている
旧高台橋や旧三菱研究所辺りは停留所置いてもいいような気がするのだが
高台橋は上り線のピットを広く取り過ぎて違法駐車の温床となり閉鎖されたし難しい問題もあるんだろうね >>171
だまされちゃいかんよ。
旧中山道の富士見町から東に折れて、17号を横切ってしばらく進んだ団地の北端の角を右に曲がり、
突き当りに保育所を見ながら、給水塔をぐるっと時計回りに一周していたのだよ。
今はなき24号棟の裏がしらこばと団地停留所になっていて、木でできたベンチが置かれていた。
最初は尾11が上尾車庫との間を結んでいたが、その廃止と引き換えに、それまで車庫止で団地は経由
していなかった熊08が鴻巣で系統分割され大52となり大宮駅東口まで延伸され、団地に乗り入れる
ようになった。
このとき同時に鴻03という宮原駅までという中途半端な系統も設けられた。
上り下り全てのバスが一方通行で乗り入れてくるので、バスが3台連なって入ってくることもあった。
その後は年を追うごとに本数は減り、鴻03の廃止を皮切りに区間も短縮されいつの間にか全廃された。
上越新幹線が開業するまで存在した高崎線の昼の大穴に当たる土曜日の下校時にはよく利用していた。
昼下がりの時間帯にもかかわらず、途中駅周辺では立客も出るなど、そこそこ盛況だった。
大52は熊谷営業所の担当で鴻巣に到着後は熊08となって新島車庫まで行っていた。
鴻03は加須営業所だったのかな。両者で車体メーカーが全く違っており、車体を見れば大宮へ行く
のか宮原止まりなのかが遠くからでもわかった。
熊谷系統が団地乗り入れを開始した当時、菖蒲から商工会館まで行く大65も数便だけまだ残っていた
が、団地に寄ることはないまま廃止となった。 >>172
昭和50年頃は上尾市内からよく利用した。
時刻表の表記は朝と夜しか時刻が出ていなくて、
その間は「この間は頻繁運転」と書かれ、時刻
表示が省略されていた。
しかし、バスが来るまで結構待った記憶が殆ど
であり、何をもってして頻繁運転なのかは疑問
が残るところ。
当時は赤芝を過ぎると道路混雑に巻き込まれて
以降は到着遅延することが多かった。
結果、電車に乗った方が早いことも多かったの
だが、当時は圧倒的に本数が少なく、移動距離
も電車の方が多かった。 >>173
とても詳しく教えていただいてどうもありがとうございます
やっぱり給水塔なんですね 旧中仙道をバスで縦断したのが大学を卒業した翌年の1989年だったかな。
熊谷駅から鴻巣えきまではあっさり行けたが、鴻巣駅>上尾駅が本数が少なくて結構またされた。
後日、上尾駅から浦和県庁前まで乗車した。
国際十王交通に移管されて、今年廃止になった、熊谷駅~深谷駅に乗車できなかった。 >>172
浦33が上尾まで直通してた時代、あったね。懐かしいな。この系統が後年まで
上尾直通だったのは片倉工業さん関連を中心に大宮駅を跨ぐ需要がそれだけ多
かったってことかな? >>181
上越新幹線開業前は高崎線が特急を主軸としたダイヤだったため、各駅停車しか利用できない上尾駅・宮原駅利用者は浦和大宮方面行きのバスの方が利便性が高かったと聞いたことがあるような気がする >>164
昭和50年ころからなら
栃22 かな ・5?? で3〜4台
栃22 かな ・7?? で3〜4台
あったと思うけど。
かな の部分は あ い か 忘れた。
たまーにフロントウィンドウの傾斜の大きい車
(前扉の上半分が三角形)がやってきて
当たりくじを引いたような気がしたっけ。
予備車か、栃木か小山あたりの車だったか。 >>182
片倉通勤客は大宮駅跨いでも赤芝か富士写真辺りからが殆どだった記憶がある
上尾・宮原からの浦和への需要は高崎線が日中浦和駅に停まらなかったのと
県庁や公官庁用務や浦和駅西口周辺への買い物需要があった
伊勢丹コルソが出来る前でも浦和のヨーカドーが大宮にはないGMS店舗で
自家用車がなければバスで来るという事にはなっていたよう
浦和駅に日中でも高崎線が停車するようになって追って大宮西口にDOM(ダイエー)が、
上尾にヨーカドーGMS店舗とボンベルタ(笑)が建って高島屋や大宮東口界隈のリニューアルもあって
伊勢丹にどうしてもという以外は上尾・宮原から浦和への買い物需要はほぼ消滅した
浦33ローカルとしては上木崎とか針ヶ谷辺りからの需要もあったはずだが駅に近いというのは鉄道並行路線の致命的な問題で
大宮(大宮警察〜東口間)の渋滞で定時性が崩壊してるし針ヶ谷でも当てにしていなかったのだろうと推測される >>183
栃22は「い」ですね。
栃木22で「う」。 >>186
かなは「い」でしたか。
宇都宮駅―西川田駅 の話ね。
昭和48年か49年。
それまで
栃22 い ・5?? 十の位は4だったか?
が定番だったのに、
栃22 い ・7?? 十の位は3だったか?
の車両が来たんだよね。
このバスに乗ったらどこに連れて行かれるんだろう?
と怖くなって乗れなかった幼稚園時代のおもいで。 >>187
栃木ナンバーの栃ナンバー時代は
営業用大型枠(大判プレート)は「あ」ですよ。
営業用小型枠(中判プレート)は「い」
昭和63年1月から栃木ナンバーになって
大判プレートは「う」
中判プレートは「え」でした。 「あ」でしたか<栃22
私の記憶違いか。失礼しました。 >>182さん
>>184さん
そう言えば、高崎線の普通列車が不便・この更に昔は日中に浦和を通過
していた時代があったね。東武バスには直接は関係ないけど、中電が浦
和を通過してたのは近距離を京浜東北線に振り分けるためだったのだろうか?
>>185さん
そ言えば、「さ33」ありましたね。系統番号記号がひらがななのは
珍しかったですよね。この後元浦33のさいたま新都心以南は完全廃止
するものの、ここから大宮駅までは別系統が入るためにまた大幅に
増便する結果になりましたね。元浦33、「そのうち大宮駅以南が
完全に廃止なるんじゃ?」思ってただけに、この区間の形を変えた
増便は意外でしたね。 >>190
大昔は特急に乗れるのは特権階級の人たちだけだった。
だから一般市民が長距離移動するときは鈍行に乗った。
青森行きとか新潟行きの列車に浦和で降りる客が乗ったら邪魔。
浦和から青森行きに乗りたかったら京浜東北で大宮へ出ろ、って理屈が通用した。
現在は電車だけになった高崎線の普通列車で客車列車も走っていた頃の話。 単に浦和客乗せられるほど中電の本数設定できなかっただけだ 客車列車と言えば東北本線は普通でありながら「東大宮・野木通過」でしたね。
特急優先の時代に少ない普通列車が少ない駅をさらに飛ばす訳だから小山から宇都宮や古河へのバスもそれなりに利用者がいた筈ですな。 >>191
なるべく停車駅を減らして、特急・急行の邪魔をしたくなかったのと、昔の長距離普通列車が近郊で停車駅が少なかったのを引き継いだというのがある。
上野を出て尾久・赤羽・大宮と停車していたけど、尾久は代替できる電車や列車がないし、赤羽は乗り換えで必要だったから、京浜東北で代替できる浦和は通過になった。
ただし、朝夕は京浜東北だけで輸送力が足りないから、停車していた。
上越新幹線が開業した1982年11月のダイヤ改正で、中距離列車の浦和終日停車が実現した。
>>192
大宮始発の高崎行きとか宇都宮行きもあったな、昼間に。
臨時特急が走るから、上野〜大宮は区間運休なんていうこともザラにあった。
今となっては信じられないけど、1982年頃までは当然だった。 新幹線大宮開業前の上野駅は夕方行くとディーゼル急行の夜行列車とか停まってて楽しかったな
高崎線と常磐線は上越新幹線開業まで旧型客車の鈍行があった 先日、下妻に行った。東武バスが走っていたとは信じられない感じであった。
JR・茨城急行とも下妻には乗り入れていないので、古河方面にバスはない。
八千代町は下妻が最寄り駅で、バス路線が下妻方面にないのは、
ちょっと意外な感じがした。ほとんど利用客はいなかったのだろうか? >>196
今は古河方面にしかバスがないみたいですね
下妻に出ても乗り継ぐ先が常総線でアクセスが悪いので時間がかかっても古河方面に出てしまうんじゃないですかね? 文が変だったので補足
今の八千代町は古河方面にしかバスがないみたいです >>197
常総線は増発したし、一部時間帯で快速運転が始まって便利になった。
守谷からつくばエクスプレスに乗れば東京の東側へは便利。
昔と状況が変わったのだから、下妻を拠点に路線バスのネットワークを再構築できればいいと思う。 >>190で大昔の中電浦和通過の件でレスした者だけど、みんな俺のほぼスレ違いな
疑問に答えてくれてありがとう。
そう言えば、上尾駅東口の再開発が完了してからしばらくは上尾駅東口行きの
バスの行先表示に「アリコベール前」ってあったな。アリコベール自体、東武
グループさんで開発した商業施設だったし、宣伝的な意図があったのだろうか? >>200-201
古河方面と土浦・つくば方面が1時間ごとに等間隔で発車すれば便利だろうけどね。
全列車接続でなくても構わないんじゃないかな。
下妻駅前に時間を潰せるような施設があるといいけど。
>>202
鉄道とバスは密接に関係しているから、スレ違いとまでは思わない。
実際の所要時分はともかく、停車駅が少なかった頃は気分爽快だったのを思い出した。 >>202
しらこばと団地を通る上尾駅東口行きは
「上尾駅東口・アリコベール行きでございます」
と放送していたな。 50年位前に志木駅南口と朝霞テックを走ってた路線なかったっけ? 小学生時代オヤジと東武バスで古河駅前から下妻経由して土浦駅まで
2回ほど利用したことがあります。当時はまだ車掌さんがいましたよ。 >>208
古河駅から国道125号線をひたすら走っていました。
下妻市に入ると内山観光の車庫を横目に下妻駅に一旦入り
戻って下妻上町から125号線に出て
筑波町北条の商店街を通って土浦駅の西口に到着
2時間ぐらいかけて走っていました。
筑波山へ行く場合、北条で乗り換えの案内もしていましたね >>209
ご教示いただきありがとうございます
諸川経由の下妻へのルートですね
下妻から土浦まではいつ頃に廃止されたのでしょうか 昭和の上尾や鴻巣はあちこちの方向に東武バスが発着する、今でいう
「ハブ」みたいな感じだったよね。上尾では今もある川越行や西上尾
団地行に朝日さんへ移管された伊奈方面の他に浦和方面に熊谷方面
まであったし、大宮行きなんか東西どちらの出入口からも出てたよ。
鴻巣にしてもやはり今は亡き羽生行や熊谷行も出ていたし。鴻巣の場合、
残ってる路線もほとんどが朝日さんまたは川観さんに移管・川里循環も
今や「フラワー号」がこの代わりみたいなものだよ。 >>211
ネットワークがしっかりしていたから、路線バスの利便性が今よりもずっと高かったのだろうね。
路線が減りだすと、どんどん不便になる。
駅まで行く路線があってもその先がなくなると、駅までのバスを利用しなくなる可能性が高くなる。
これが悪循環というもの。
そのうち、住民ですら路線バスがあるのかどうかすらわからなくなる。 利用者が少なければハブになっているような路線でも維持するのは難しくなるし仕方ないとおもう
平行している路線の場合、鉄道の本数が少なければバスのアドバンテージがあるが
首都圏のように東京に向かう鉄道路線は本数が多く、本数の少ないバスはどんどん不利な立場に追い込まれる
実際埼玉県内でも本数の少ない八高線沿いではまだ並行路線バスが残っていたりしますからね >>211 高崎線の大宮から籠原までの各駅はそれなりに路線網が残ってると思う。
線路沿いの街道路線は上尾より北で淘汰されてしまったけど、高崎線の増発と北上尾、
北鴻巣開業が大きいから仕方がない。でも籠原から高崎にかけては本庄、新町に細々と
路線がある以外はバスがない地域が増えたね。 伊奈町の友人が上尾駅~伊奈役場ゆきが東武バスから朝日自動車に移管された時に、車内で関東地区の共通のバスカードを買ったら、社名の所が東武バスだった。
運転士さんに朝日自動車の名前の入ったカードがないのかと聞いたら、当時は朝日自動車の親会社が東武だから、親会社のカードで対応すると言ったんだって。 >>215
その当時の「東武バス」は東武鉄道の直営じゃないのけ? 今もPASMOで乗車すると履歴は「東武CE」になるよ
朝日だけでなく川越観光や阪東なんかもおなじ >>217 子会社が別々にPASMO加盟するとそれぞれの加盟料を取られるから、
東武バスセントラルを幹事会社にしているのかな?
理由はともかく東武鉄道バス事業本部ファンとしては、子会社に移管された路線を
乗りバスしたあとカード履歴を確認したとき、「東武CE」の文字を見て東武バスに
乗ったような錯覚に浸れるから悪くない。 朝日になって本数増えて使いやすくなった路線は多い。
しかし越谷〜岩槻線は今でも微妙に東武ナイズ。
基本的に通し運行なのに昼間だけ双方から水上公園折り返しに。
東武時代からこうだったのかな? >>219
東武の時は基本通しで越谷からは水上公園区間便が有ったけど、岩槻発は知らない
夜間は荻島小止まりがあったはず 昔、大宮駅から、東松山行きがあったみたいですが、本数と廃止された時期を教えて下さいますか? 晩年は荒川を境に大宮駅〜平方と出丸〜東松山駅に分割されて、今でも大宮駅〜平方の路線は残ってるね
反対側の東松山駅〜出丸の路線は昭和末期まで何故か日中に2本ぐらい免許維持のごとく残っていたようです >>224さん
大宮〜平方間は今でもそこそこの本数が確保されていますね。
私もこの路線が昔は東松山まで繋がってたと知っていますが、
これを初めて聞いたときには驚きでした。平方から東松山の
バス路線、今となっては夢物語ですよね。 東武時刻表によると昭和54年の時点で東松山から平方へは1日1本しかない 日中に2本ぐらい免許維持のごとく残っていたのって川越からの出丸循環じゃね? まだ10年そこそこだけど川越とえば芳野中学校循環ていうのもありましたね。
宮下町循環はまだあるのかな? >>229
川越05芳野循環だな
芳中先回り、医大先回り、芳中止まりがあった
宮下町循環はあるけど宮下町バス停は改称してしまったね 春日部駅で。
「西口循環(左)」「西口循環(右)」って
うっすら覚えてる。 >>232
流石にそんな長距離はないが
草加から柏までは直通があったはず >>232 春日部からあった長距離路線は春日部〜大宮線だと思う。
水戸からはどんなに遠くても下館までだったかと。 群馬県は上越線の後閑駅、未だにターンテーブル現役だったな。
しかも薄れつつも「東武バス」と書かれた看板と、東武鉄道名義の国鉄用地使用承認標が残ってたな。
しかしなんで、後閑なんて田舎にターンテーブル作ったんだろ。都内や埼玉の駅前と違って特別駅前が狭いわけではないのに。 東武佐野線の吉水駅に「佐野日大高校」と書かれた東武のオレンジポールが残っているね
今でも関東自動車が運行してるのかな? >>236東武鉄道は組合が強くて他の大手私鉄に比べて、車掌乗務のツーマン路線が残ったけど、ワンマン化に際して誘導員を常駐させるよりもターンテーブルを置いた方が人件費削減になるという考えかと。後閑駅は今よりバスのロータリーが昔は狭かったとか? なんで東武は練馬や豊島から撤退しちゃったのだろうな。
免許維持程度でいいから路線を持っていた方が良かったと思うが。
国際興業に不満はないけど、なんだかつまらなく感じる板橋区民の意見。 >>239
> 免許維持程度でいいから路線を持っていた方が良かったと思うが
確かにそうなんだけど
昭和40年代、路線バスが儲からなくなって各社でエリア調整したわけだから仕方がないよ 東武は元々バス参入が遅かったから
既にあのあたりは国際興業や西武が採算取れそうな路線は走らせてしまっていたから
微妙な路線ばかりだったのが原因では その西武だって、宿20を残しておいたから、池袋駅前にバス停を確保できて
これを使って高速バスを大量設定出来た。
東武も何か1系統だけでも池袋発着便を残しておけば、池袋〜栃木・群馬方面の高速バスを東武単独で設定出来たのに。
今でも東武単独で高速バスの停留所を作れるんだが、そのためには東上線・東武百貨店の敷地を削って
東武私有地内に置かなきゃいけない。バス停よりデパート化粧品売り場に使った方が儲かるのは当然の話。
今から池袋駅前の公道上にバス停の認可を取るのはほぼ不可能。 >>242
そんなことしなくても
東武には西口にミッドナイトアローのバス停があるんだけど >>245
ポールが別々だから間借りにはあたらない。
仮に間借りだとしても、バス停設置に運輸局への届け出も事業者ごとだかんね。
間借りだから却下されることは無い。
それと、西武バスの宿20系統と高速バスの池袋駅発着場所、それぞれ違う場所だかんね。
結局、東武グループとしては高速バスを運行してもうま味が無いってことなんじゃね。 >>248
ならどんな計画があったのかって話
そして、昔は昔、今は今。
路線の開設は今は届出制。
過去に様々な要因で路線開設が出来なかったとしても、今は可能。
仮に当時路線開設が出来たとしても、今現在、路線開設していないってことは、いずれ路線廃止される確率の方が高かったってこと。 >>249
無理やりな結論だなあw
今はJR直通特急があるから事情が違う >>250
ならそれが東武が高速バスをやらない理由なんじゃないのかな
JR乗り入れ特急列車だって、東武区間内のみで利用するにもJRシステム使うから、コストの割にあんまりうま味無い >>251
> コストの割にあんまりうま味無い
これ具体的な数字出してくれる? >>252
その前に東武が高速バスを池袋に乗り入れ出来なくて失敗したことが先だろ >>253
関東バスがやってた池袋鬼怒川線って、東武入ってなかったの? 関東自動車じゃない方の関東バスって、池袋からそんな路線出してたっけ? >>255
関東バスがやってたのは新宿日光線・新宿鬼怒川線かと。
それなら東武も入ってたよ。
池袋駅が経路に入っていたかは覚えてないけど、日光線は2年、鬼怒川線は約3年と短命だったね。
東武は特急列車で再度、新宿駅に乗り入れを果たしたものの、乗車率は・・・ >>255-256
平成7年3月、関東バス(東京側)と東武鉄道(日光側)で新宿-日光東照宮および鬼怒川温泉の2系統が開設された
東北道上で白岡、佐野、鹿沼のバスストップに停車しており、今市市内にも停車していたとのこと
新宿では関東バスの西口一般路線用14番のりばからひっそりと出ていた上、要町駅前に停車するものの、池袋には立ち寄らず存在感が薄かった
平成9年3月日光系統が先に廃止され、平成10年3月鬼怒川系統も廃止、東北道のバスストップも閉鎖された
当時は首都高速中央環状線が未完成だったため、下りは鹿浜橋まで、上りは東領家から新宿まで延々と下道を走る姿をよく見ていたが、いつ見ても客はほとんどいなかった
当時関東バスの路線車にはこの高速バスの開設を知らせるゼッケンが付けられていた
参考リンク
http://www2s.biglobe.ne.jp/~am0604/news/98228.html
https://ameblo.jp/kazkazgonta/entry-12403488757.html >>258
要町にバス停があった。
池袋駅前にポールを用意できなかったのが理由なのか
池袋寄ってたら時間かかるから山手通りで池袋に一番近いところにバス停作ったのか あと東中野駅にも停車していたような
うろ覚えですみません >>259-261
情報ありがとうございます。
少し逸れるが、西武の高速バスも、練馬駅に寄らないで目白通り上で客扱いしてるが、運行時間を考慮してとのことらしいから、たぶんだけど、関東バスも下道が長かったから同じなのかも。 東武としては、群馬と(日光鬼怒川以外の)栃木から完全撤退するのは既定路線だったから、下手に高速バスなど作ってそっち側の拠点を生き長らえさせたらまずい。
ということでしょう。 >>264
どう解釈したら、東武が高速バスを池袋に乗り入れ出来なくて失敗したことになるんだね。 >>265
どう解釈も何もそういう事実があったからだよ
短期間で撤退しちゃったからな
ここの過去スレ漁ってみ >>266
あのね、関東バスとの共同運行の高速バスを言うてるのなら、池袋駅前にポールを用意できなかったって理由は間違いなの。
高速バスの開設が平成7年、先のミッドナイトアローは平成元年に開設されてる訳。
高速バスが開設したときには、池袋駅には東武のポールが既に存在してる訳。
それで、どう解釈したら東武が高速バスを池袋に乗り入れ出来なくて失敗したことになるんだね。 ポールさえ立ってればバス停がいつでも好きなときに使えると思ってるの? で、東武が池袋西口から高速バスを出せたとして、どこへ行きたかったの?
苗場?草津温泉?大清水?赤城山大洞? >>268
当時の基準では、全く無いよりは認可され易いってだけの話し。
今は届出制のため、既に存在する場合はほぼ確実に認可される。
>>269
それでだからなんなの?
それと正式にはミッドナイトアローだかんね。
>>270
ホントどこなんだろうね。
たぶん>>242の言うてる群馬、栃木方面なんだろうけど。 >>270
東武バスの縄張りの街だったらどこでも東武単独で高速バス路線を作れたのにね、って事だ。
高崎・前橋・宇都宮なんて街に、昔は東武バスが走ってたんだから。
東京側の縄張りを簡単に手放しちゃったから、都内に路線を持ってる東武バスでも
高速バスを運行するときは、都内側の都合でどこか他社と手を組まないといけない。
新宿〜日光鬼怒川の路線がその典型だろ?
東武バスがトロピカルの営業所で休憩せずにわざわざ新座まで回送してたし。 50年前に今の高速道路網が存在していたら東武も昔の急行バスを高速に乗せかえて…という選択肢も採ったんだろうけど。
30年前の時点で東武は北関東3県を捨ててたから高速バス作ってのテコ入れなどあり得なかった訳だな。 佐野のマロニエ号を見ていると、伊勢崎あたりは国際の車庫に入庫させられるし可能性あったのかなあと 昔の急行バスの生き残りは東北急行バスが東武系であるじゃないですか。まあ、ターミナルでは苦労してますが。
途中乗降可のノーマル便は遂に生き絶えたんでしたっけ?
あれが「東武の高速バス」だと思ってた。 東北急行バスこそが、「株式会社東武高速バス(実際の名称とは違います)」であるのは間違いないのではあるが。
俺の言った急行バスとは、東京〜境町/桐生/前橋/高崎・渋川・伊香保/谷川岳/苗 場 の様な奴のこと。それこそ当時の東武エリア内で完結していた系統。 >>276
仙台から途中あちこちに停車していた頃の東北急行バスに乗って、朝4:30に新越谷で放り出される体験をしておいて
今更ながらよかったと思っている。 元荒川のガードが低く、霜間久里の立体まで迂回していた関係で北越谷にも停車していたよね
引っ越してきた頃、駅前に仙台、山形行きのバス停があって驚いた 新宿駅西口始発で関東バスと東武で鬼怒川温泉行きをやっていたよ。
新宿駅西口の乗り場は丸山営業所ゆきと同じポールだったと思う。
東武はグループ会社の東北急行が高速路線バス専門でやっているから、東武本体でやることは少ないかも。 足立北郵便局前(竹の塚警察署)に東北急行の降車専用だか乗車専用だかのバス停あったよね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています