奈良交通 【24 | 奈良学園】 [無断転載禁止]©2ch.net
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私には分からない。本人の話を聞いてないし、そもそもあまり興味もない。
厳密に定義するのであれば、マインドコントロールと洗脳は異なるようだ。
しかしそんなこと私にとってはどっちだっていい。
学術的な話になると問題が複雑になるので、とりあえず
「強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、
あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと」
とWikipediaの定義を採用して話を前進させる。
マインドコントロールも洗脳も同じということにするが、
面倒なので字数が少ない洗脳を採用する。 話は変わるが、2、3日前のツイッターでは天理教の布教についてのツイートが]
並んでいた。
特に関西地方で、2、3日前は同時多発的に天理教の布教がおこなわれたようだ。
天理教のホームページによると、
現在天理では大学生を対象とした学生生徒修養科が開催されているようだ
http://www.tsa.gr.jp/event/gaku_d/gaku_d.html なぜ洗脳の話題で、この行事を取り上げたのかは私が言う前にツイートを見ればよい。
それが天理教に対する社会の率直な反応であろう。
私は宗教の衣装を来た人間が、繁華街で絶叫している姿を見ると恐怖を感じる。 恐らく来週あたりの天理時報では、この学生生徒修養科に参加した学生の、
「天理教が大好きになった!」という若者の涙ながらのコメントが天理時報に
並ぶであろう。
さて、オセロの中島が洗脳で、天理教学生会が洗脳ではないという境界は、
天理教人以外には差異がわからず判断が難しい。
天理教の布教戦略が洗脳の表現形だとは言わないが、
それを見る人にとっては天理教を敬遠する理由に十分なるだろう。 >>733
全長18センチ!130人の女を唸らせた巨根運転手 奈良ファのハンズで停留所の看板とか売ってたけど結構残ってた
あまり売れてないみたいやね >654
5月1日に、奈良県総合医療センターが七条西町に移転開設されるが、それに伴い、その段階でバス停の名前も「七条西町」から「県総合医療センター」に変更されるそうです。
学園前駅行き直行便の所要時間は19分とのこと。ただ、朝と夕方の時間帯は混むので時間がかかるようです。若草台経由だと24分の予定だそうです。
ちなみに学園前駅までの運賃は340円。 >654
今はまだ奈良県総合医療センターが移転開設していないから、バス停の名前を「七条西町」ということにしているようです。 >>739
>奈良ファのハンズで停留所の看板とか売ってたけど結構残ってた
本物の中古品? 12月11日の産経新聞にて震災で被害のあった宗教施設という一面が掲載されていた。
主に寺社の被害の数が計上されていた。
天理教に関する記述もいくつかみられた。
新興宗教は沿岸部の施設が少なかったり、
歴史が浅いため建造物がしっかりしていることが理由で震災の被害が
ほかの既成宗教と比べて少なかったようだ。
その中で天理教は全半壊した教会が57もあり、宗教団体別でみると多かったようだ。 もう一つは、各宗教団体の支援体制である。
新興宗教が活発に支援をおこなっていることも紹介されていた。
天理教は本部が組織したボランティアだけで1万8千人、
教区•教会の組織によるものが延べ3万人が支援(災害ひのきしん)に動員されている。
この数は、創価学会が2万人、立正校成会の8500人、真如円の4100人と比べて
群を抜いている。
支援は決して数ではないが、
天理教が5万人近くを被災地に送り込んでいることは天理教の人助けの実践や、
その準備性の意識の高さを裏付けるものではなかろうか。
5万人もの人間を本部が「行ってこい」と言って行かせられるものではない。
これは天理教を構成する一人一人の意思の現れであり、敬服したいと思う。
もちろん産経新聞だけの情報によるので注意が必要だけど。 ただ、この記事が一番訴えかけているのは、
地域コミュニティの重要な役割を担う寺社が被災したことによって、
その地域の文化や歴史が衰退する危険があるということである。
そして、その寺社は政教分離から義援金などの支援が全く届かないということである。
この記事を読んだ天理教人はどう思うのか私は知りたい。
政教分離だから支援が届かなくて当然だと思うだろうか。
宗教法人は免税されているから、行政が支援することは必要ないと思うのか。
または地域が必要とするなら地域の人間の手で再建されるべきであろうか。 震災以降、全国の自治体ではカウンターパートでの協定を結ぶ
遠方の自治体や団体が増えている。
つまり、A県が被災したときには、その支援の中心はA県とカウンターパート協定を
結んでいるB県が中心に行う。
そのためにA県とB県は事前に準備をして「もしものとき」のために準備をしている。
これは、この度の震災が広域にわたったために、
誰が支援のコントロールをするかという混乱の反省からである。
同じような規模の自治体が、相互に備蓄することでリスクを分散させ、
もしもの時には迅速に対応できるということである。
このようなことは自治体レベル以外でも多くみられる。
同種企業や、その他の団体でも同じである。
東北で被災したスポーツクラブや市民団体には、
都市部のクラブやプロチームが用具や場所の提供を行った。
行政支援では、被災者のスポーツの用具までは細やかに対応できない。
このような関係する人たちが
カウンターパートで支援することは私は分かりやすくていいことだと思う。 そのように考えると、
被災した寺社を支援するのは被災しなかった宗教団体の役割ではなかろうかと思う。
過去に私は天理教人が、ほかの宗教団体を批判していることを何度か耳にしている。
同属嫌悪だろうか。歴史的世界的にみても、
宗教団体同士の争いというのは非常に敏感で過激であることは現在進行形でも
確認できる。
しかし天理教が持つ陽気暮らしという金科玉条は、
天理教を信仰している人間だけのものではなかろう。
それは詰まるところ天理教が最も嫌いな人間と仲良くすること抜きでは
陽気暮らしなんて達成することはできないということである。
たとえオウムであってもである。
以上のことから私は見てみたい。
天理教が被災した寺社の支援を行うところを。
もし、そういったことがあれば、それは非常に美しい光景だと思う。 ツイッターという簡易ブログにて「天理教」と検索してみると、
多くのつぶやきがみられる。
大多数が天理教外の方のつぶやきであると思う。
どんなつぶやきがあるのかは、実際にツイッターで検索してほしい。
私は定期的に検索している。その主観的感想を述べる。
そこでは「天理教に勧誘された」とか「天理教の太鼓のドンドコがうるさい」や
「天理教が列をなして歩いている」というつぶやきが多い。
ネットという特質から肯定的側面よりも、否定的側面が多いことは注意したい。
好意的意見もあるが、それは天理教人による発信だと思われる。 そろそろコイツ、まとめて削除依頼しないといけないのかね こういった市井の声について、
このブログを読まれている天理教人の方はどう思うだろうか。
「そんな声をいちいち拾ってらんねーよ」とか「一部の意見だね」とか
「言いたい奴には言わせておけ」と思うだろうか。
もし私のことであれば、「言いたい奴には言わせておけ。けっ」となるだろう。
しかし、こういった声は無視してもいいのだろうか。
確かに、いちいちとすべての意見に反応するこは現実的ではない。
社会の周波数をすべてキャッチすることはできないかもしれない。
しかし、こうした意見を考察し、
せめて社会が天理教に向ける周波数を知ることは
とても大切な作業ではなかろうかと思う。
つまるところ、私はこういった作業への取り組む姿勢から(でしか)
天理教の衰退や天理教の今後を考えることができると思う。
それは天理教がオリジナルな立場を形成してきた一方で、
大衆のニードに敏感に反応してきた歴史がある。
そこを無視してオリジナルな主張を繰り返すことは、
天理教の将来が大変厳しいものとなる。 分かるだろうか。
天理教が行っている古典的な布教戦略である「神名流し」
(法被を着て列をつくって天理教の歌をうたいながら歩く行為)や
「路傍講演」(町中で信仰体験を語る)や
「個別訪問」(自宅に突撃訪問する)は、天理教人にとって、
とても大切な宗教的行為である。
しかし一方で、天理教と社会を乖離させる側面があることも大切な視点だと思う。 以前、ある青年が私に話かけてきた。
上記古典的な布教戦略が苦手であると。人前で、どうしてもできないと。
しかし、理の親(信仰上の上司)に相談しても
「頑張れ」「気合いがたらん」「たんのうせい」と言われるのみだと。
私はこの理の親の正論と侵襲性と方法論の乏しさと鈍感さ、
青年の時代的感受性と敏感さと逃げ場のなさを感じた。 これらは、どっちが正しいという問題ではない。
この行き詰まりにきてようやくだが、
記事のタイトルの意味を考察する意義が出てくるのだと思う。
つまり、天理教を信仰することへの目的性の探求である。
上記、布教戦略は「布教」(においがけ)という名目で実施されることが多い。
しかし本当にこれは布教の意味を達成できているのだろうか。
私は布教よりも修業的要素が強いのではないかと思う。
では、天理教のおける修業とは何なのか。
ベテランの天理教人を見ても、この古典的布教戦略を進んでやっている人を
あまり見た事がない。
「路傍講演はやりたくない」というコトバは聞かれないものの、
進んでやっている人はいないように思う。
むしろ「やらされている感」が漂っていると感じるのは私だけだろうか。
つまり、ベテランも「これって意味あるのかなーあんまりやりたくないんだよね」と
いう違和感を無意識的に抱えているように見受けられる。
こういった感覚は私は現代では、むしろ当然の身体感覚だと評価していいと
思うのだが、それを言ってしまうと信仰的成熟度が低いと評価されることになる
のだと思う。
これらの布教戦略が「できて一人前」という信仰的イニシエーション採用している
限り、
この「やらされている感」から抜け出すことは不可能だと思う。 >>747 去年のバス祭りは確か台風で中止になったんだよな。
方向幕販売は17日限りというのは、ダイヤ改正で廃止となったのも売る為だろうけど
売れたのかねえ・・・。 天理教は人災をどう紐解くのか
これまでに天理教はどのように東日本大震災を読解しているのかという点を考えてきた。
その反応は賛否両論があったように思う。
災害は神の残念、立腹という教義から「震災は神の天罰」(戒め論)という
解釈が大勢であったように思う。
しかしそのロジックを採用する限り、
その場の理論的(精神的)安寧は得られるものの、
災害が無くならない現実がある限り、
長期的なフラストレーションに陥りペシミスティックが増幅し陽気ぐらしが
遠ざかる危険性を私は提示した。
その上で、どのように震災を紐解くのかは天理教災害救援ひのきしん隊の活動や、
被災者の思いというリアルを想像されていれば
天理教がどのような見解をしめそうが私は応援したいと思う。 このたびの震災で、ネットをはじめ色々なツールで天理教人も含めて多くの人が
震災に対して声をあげている。
もちろん政権への批判や原発への是非をめぐる激しい議論もある。
天理教では、前述した震災に対する考え方や、被災地の悲惨さ、
災害救援隊の活動状況などが多い。
その中で、社会は大盛り上がりなのに、天理教人だけが口にしないテクストがある。
それは原発という人災のこと。
震災に声をあげている天理教人や講話をする先生方の話を又聞きしても、
唯一聞かれないのが原発の天理教的見解である。
原発に触れている話しや教義があるかもしれないが、
天理教というオリジナルな見地から原発を語る話はきかない。 この人、削除→繰り返し→アク禁までもちこまないとダメな人なんかね?
面倒くさいなぁ
俺のアク禁列伝にまた一人新たに追加をしなければならないのか…
そこまでされる前に消えてくんない?
ただの頭悪い荒らしってわけでもないようだし 語られている問題よりも、語られないことがあるのはなぜかと思考を巡らすほうが
本質的であることは経験的な身体感覚である。
天理教人を見ると原発はアンタッチャブルな話題であり、
どう読み取っていいかわからないから、
誰かが口火を切るまでとりあえずスルーしているようにも感じる。
天理教は人災をどのように見ているのだろうか。
これは、天理教教義では追いつけないような新しいことであり、
だれも言葉を持たないのだろうか。
それとも本当に天理教では触れてはいけない“何か”があるのだろうか。
次回はそのことについて「お道の視点から」を参考に考察したいと思う。 この春の彼岸 三笠霊苑送迎の一日限定ナコー臨時送迎バスは走るのかな この春の案内がHPに出てない
この狭隘区間を走行するのはけっこう見応え(警備員配置はされてるけど)
https://goo.gl/maps/iptfRA8Qqjy >>767
天理教信者かな?
公に知られたくないことだろうからなあ(笑) バス板で宗教話することがスレ違いだと言われていることがわからんとは… >>775
じゃあスルーすればいいじゃん
5チャンネルで荒らすなって馬鹿じゃないの? >>778
そういう安い発想しかできないんだね
残念な子だね >>779
悔しいのう天理教信者よ
駅前で演説してるのかな(笑)? 天理教の恥さらし
67102
いやしくも天理大学付属の研究機関であるならば、
その機関誌に学問の基本的条件を知らない所長の巻頭言を毎号掲載して
恥じないのだろうか。
教外の研究機関にも送付しているとすれば、
黙認している教内の常識を疑われても仕方ないだろう。
この巻頭言の筆者は、アメリカで長年生活していたことが自慢かも知れないが、
それならアメリカ人の合理性や民主性から何も学ばなかったのだろうか。
とにかく客観的なデータもなく、社会的原因を一切追究せずに、
すべての問題を個人的レベルに還元して自己満足しているとしか思えない。
教内でも。心ある人々からの共通した批判を私は耳にしている。
啓発委員会の委員からも、6月号の差別的文言に対して大学の学長へ抗議したと
聞いたが、
うやむやになっているようだ。 天理教からの防衛の仕方 親の思いという暴力性
天理教では3年後に教祖が没してから130年という節目を迎える。
定期的に訪れる節目は、信仰上は竹の節のように堅いと例えられる。
節目には困難が伴うと。
しかし節に耐えるとそのうち必ず芽が出る旬が訪れるとされている。
これらは、普通に考えれば節に耐える姿こそ神がきちんと見ている(報われる)
という意味になるだろう。
しかし天理教では、旬に向かって結果を出さないと節における忍耐が評価されないと
いう逆転となる。
ブラック企業は、結果が出ないと従業員に
「会社が悪いのではない、お前のがんばりが足りないからだ。
お前の修行が足りないからだ」というのは、
天理教のそれと同じ構造ではなかろうか。
天理教本部の役員の話でも、全国にある各教会の会長の話でも、
「今こそ神様に評価されるべく節に耐えてがんばりましょう」
と神の意思を個人の努力に帰結するレトリックの邪悪さを持っている。 今回はその一端を提示したい。
今回私にメールを寄越した方は、親族のAが教会を継ぎたいと言っており、
それに反対をしておられる天理教の未信者の方からであった。
どう考えてもAが教会を継ぐ経済的、人間的な素質はなく、
親族はみな反対している状況のようである。
しかし会長は、Aと教会設立ができるように裏でコソコソと話を進めているようである。
私が聞く限り、会長の頭には、
この節目に教会を設立できるという外部評価がチラついているようである。 親族から反対されてまで設立する教会に何の意味があるのだろうか。
天理教の節目だから、反対される中でこそ設立することに意味があるという、
いつも通りのナルシストだろうか。
個人を特定できないように伏して公開したい。
メール拝読させていただきました。ご苦労のほどお察しします。
私見ですが、回答させていただきます。
前提として天理教の会長の資質に関しては多様です。
社会での就労経験があり、常識的な判断ができる会長もいます。
一方で、貴殿がおっしゃられる会長のように非常識的な会長がいるのも事実です。
私の皮膚感覚では、天理教に深くコミットする会長ほど話が通用しないです。
反対に、常識的な思考ができる会長は、天理教組織から一定の距離を置いています。
(というか、置かないとやってられないのではないでしょうか) 貴殿を苦しめている会長が、どの系統(大教会)で、どの思想の持ち主かは分かりかねます。
そのため、私のアドバイスが参考になるかは分かりません。
場合によっては厳しいことを言っているかもしれませんが、ご了承ください。 で 天理教と奈良交通と一体どう関係あるのか お示しいただきたいです。
ひょっとして、主張する場所を間違えておられるのではないでしょうか?
天理教スレッドもあるはずですし。 今後、教会長と話をするということですが、教理には教理で対抗するという
案については、私は反対です。
なぜなら、天理教の教理自体が、非常に強者(会長)の都合よく利用されているためです。
天理教がいくら「陽気暮らし」「人助け」という教えがあったとしても
「会長のエゴではないか」「人助けはいいが、こっちの家庭はボロボロ」と
言ったところで、通用しないでしょう。
私が予想するに、会長の乏しい語彙力や文脈には決まったパターンがあります。
まずは教会の歴史からはじまり、貴殿の先祖による信仰の始まり、
それらから現在の信仰について運命論的な因果論(いんねん)で
今の貴殿らが信仰的にいかに「できていないか」になるでしょう。
その上で、「親の思いに沿って」や「素直になるべき」「心を寄せて」と
自分の思い通りにコントロールしようとします。
もし話が物別れになったとしても、会長たちは「あいつらは
何も分かっていない」と自身を正当化しかしません(できません)。
その結果、こちらの心労と絶望感が増大するだけです。 天理教の組織はヤクザの縦社会と似ています。教会長は、その上の
教会長の言うことは応じる傾向が強いです。もし貴殿に、教会長の上の
教会長とコネクションがあり、且つその教会長が話が「わかる」人物で
あれば、相談することをおすすめします。
もしそのようなコネクションがなければ、自衛か第三者機関をお勧めします。
私に相談される方がよく言われるのが、天理教本部にクレームを入れることです。
しかし、これも私はお勧めしません。天理教本部には渉外課という部署があり
ここが対外的なクレームや問い合わせに応じます。しかしここに相談しても
「よく会長と相談するように」としか応じずに、何もしてくれず
その他の資源も用意してくれないほど天理教本部は無責任です。 >>788
奈良交通と天理教がどう関係あるのか、
なぜこのスレに書き込むのか聞いてる
だけです。
私は天理教の信者でもなんでもありません。
そもそも天理教「なんて」興味すらありません。 >>791
ただの荒らしだからスルーしろよ
荒らしは構っても喜こばすだけ
ところで表の方は
健一と復活の()だいこんが出会ってしまったな… 新しいバスロケーションシステムのサービスが始まります
奈良県(奈良県知事:荒井正吾)と
奈良交通株式会社(取締役社長:植田良壽、以下「奈良交通」)は
連携・協働し、奈良交通が運行する定期路線バスの全線において
新しいバスロケーションシステムを導入します。
平成30年3月26日(月)より、まずは奈良市中心部においてサービスの運用を開始します。
ttp://www.pref.nara.jp/49616.htm 611 名無しさん@お腹いっぱい。 (スプッッ Sddb-qmt2) 2018/03/16(金) 10:26:59.77 ID:k5IMeqSUd
辻元の生まれ故郷って大淀町でさ、まぁ有名な◯鮮◯落なんで、彼女の出自も…。日本の国益より…。 現在の天理教に対して危機感や不満を持っている方が非常に多いと感じる。
私がこうしているから、そうした意見しか集まらないというのも当然である。
以前私に話しをしてくれたある方は
「現状の問題点を言うと、それは教義に対する不足となり、神への冒涜と変換される。
より良くしようと声をあげることさえできないようでは、天理教はよくならない」
と言われていたのが印象的である。
つまり現状を良くしようと問題点を列挙すれば、
瞬時に発言者の信仰度合いに対して疑惑の目が向けられる。
「お前はまだ分かっていない」と。これと同様の理論展開は非常に多い。
むしろ、これ以外にはないのではないかと思うくらいよく聞かれる。続きはまた今度 急行バスの系統番号のつけ方、「各停の系統番号−1」に統一出来んのか? >>795
>新しいバスロケーションシステム
また増えるのかよ。
窓口、特に看板落下で有名なラインハウスで、クレジットカードによる乗車券購入を出来るようにするのが先だろうに。 片道6時間半、最長バスを支える精鋭 八木新宮線乗車記
水野義則
2018年3月24日12時25分
時紀行
高速道路を使わず、主に国道168号を通って紀伊半島を延々と縦断する路線バスが、
バスマニアから注目を集めている。その「八木新宮特急」に乗ってみた。
熊野川沿いを進む。山肌が大きく崩落した跡があり、
「長殿(ながとの)発電所前」にさしかかったが、発電所は見えない。
「7年前、紀伊半島を襲った大水害で、雨は崖を崩し、川をせき止めました。
発電所は、逆流した土砂の勢いで上流に流されてしまいました」。
18年間、このバスのハンドルを握る間野泰博さん(52)のアナウンスに、
にぎやかだった乗客はしばらく言葉を失った。
https://www.asahi.com/articles/ASL375J5WL37PQIP011.html
【動画】
(時紀行:時の余話)隘路の行き違いにベテランの気配り
水野義則
2018年3月24日12時41分
https://www.asahi.com/articles/ASL3N5592L3NPQIP01P.html?iref=pc_extlink 「ステマ問題」から見えるもの から見えるもの
天理時報4267号の「視点」で「「ステマ問題」から見えるもの」という記事を
考察する。ステマとはステルスマーケティングの略である。
ステルスとは、ステルス爆撃機がレーダーに感知されない戦闘機であるように
「顧客に気付かれないマーケティング」という意味である。
「サクラ」といった方が我々世代には分かりやすい。 >>806
若草書店は、閉店してしまった
奈良、八木、橿原の3店舗以外に無いの? そこから、著者は周りに惑わされずに自分を信じていくことの大切さを言いたいんだと
思う。たぶんね。
ただ人に勧められてステーキを食べた逸話は、論旨からズレまくっているから、
ないほうがいいと思う。
自分を信じることを主張したいのに、
人に「一番ひどい」と勧められたステーキを食べて「ひどい」と判断するのは、
結局人の価値を採用していることに気付いてない。
著者の論旨を採用するなら
「人に勧められた一番ひどいステーキだったが、僕はおいしいと思う」
ということにしないと論理が成り立たない。 私が言いたいことは一つだけ。
ご自身がステルスマーケティングの片棒を担いでいることに気付いておられないことが
怖いのだ。
「さては、あなたは帝国ホテルのステーキのスパイですな」とね。さすがステマだ。 ステマ問題は、実はもっと複雑なんですよ。
それはマーケティングに限らず、閾下刺激として日常的に溢れている。
そしてオウム真理教も利用したことであり、対岸の火事ではないはずである。
教団上層部であるなら、もう少し危機管理に慎重になってもいいんじゃないだろうか。 ラインハウスが出来るまだ前の場所で(40年以上前ほど)
売ってた豚まん美味かった 天理教が把握していない被災地支援が多くある
職場の後輩が定期的に被災地に行き、被災者を支援する支援者の支援をおこなっている。
先週末に、一緒に食事をして被災地の話を聞いた。
被災地では、至る所に祭壇がある。
そこには絶えず参拝者が来ている。
同時に、その参拝者に対して声をかける宗教関係者がいる。
もちろん死者への鎮魂を促すために儀礼の促進という側面を強化している団体もある。
一方で宗教団体への勧誘と思われるような団体もあるようだ。
私の後輩は無宗教らしいので、
その両方の団体に対して「怖かった」と言っていたことが印象的であった。 話は変わって、被災地の支援で一番勢いがあるのは
NPOなどやボランティア組織なんだそうだ。
行政の支援は強力で、生活を支える重要なポイントであることは言うまでもない。
しかし行政支援は依頼が必要であり、
支援が届くまでに時間がかかるという腰の重さがある。
その点でボランティア支援は、大きなことはできないが、
細やかな支援を迅速におこなってくれる。
そして、そのボランティア支援団体には宗教団体を背景にしているところが
少なくないようだ。
中には天理教の教えを背景にして活動している団体もあるようだ。 天理時報で取り上げられている天理教の被災地支援は、
ほんの一部であることは私の天理教人の知り合いから聞いている。
天理時報で挙げられている天理教本部による被災地支援は「災害救援ひのきしん隊」の
活動が多く取り上げられた。
天理教本部としての被災地支援は、現在では終了宣言が出ている。
しかし各教会単位や、地域支部単位で、
数多くの天理教による支援が被災地で現在も活躍している。
それはガレキの撤去や物資支援などの生活支援から、
子どものケアや大人の息抜きなどの教育支援など多方面に渡る。
天理教本部が、それらを把握しているかは知らないが
(知り合いの天理教人は「大教会や教会本部には言ってない。上に言うと面倒になる」
と言っていた)、それら信仰を持った人間の地道な行動は、
私の後輩も含めて被災地の宗教に対する偏見や見方を変えているようだ。
私も以前、被災地に支援に行く天理教人に対して
「天理教が被災者に何ができるか」と意見交換したことがある。 私が後輩に言われたことは「とりあえず東北に遊びに行け」ということである。
支援の段階は中期計画に入っており、
経済を動かすためには被災地でお金を落とさなければいけない。
夏にも私の仕事関係で被災者を支援するために東北に行くが、
そのときは東北で散財する遊びをしようと思う。
しかし大教会や天理教本部は、裸の王様なんだろうか。
肥大した中央集権の限界がきていることが感じられた。 天理諮問機関で被災地支援について話をする予定の者です。
興味深く拝読しました。
私が現地で感じたのは、
マネジメントしきれない行政と乱立するNPOやボランティアの図でした。
理論的には両者が提携すれば良いのですが、できる部分はもうやっている。
日ごろできないことまで緊急時にできるわけありません。
私見としては、行政の機動力を上げ、
周囲の団体は行政をもっと信頼し協力するのが良いように思いました。
行政は自分たちのものという意識があまりに希薄ですね、日本は…。話がそれました。 災害救援ひのきしん隊も撤退されたのは、
復興の見通しが今ひとつ立たない現状ではやるべきことが見えないから当然かと思います。しかし現状では
「仮設住宅からアパートに移ったら一丁上がりと思われる」と嘆いておられました。 ぜひ、天理教には、報道されなくてもネットワーク、
フットワークを生かして支援を継続して頂きたいと思います。
どこで災害があってもすぐに支援体制を構築でき
(例えばですが、本部に対策本部、教務支庁に各自治体との折衝や情報交換、
大教会に支援物資集積、連絡は各上級へ…というようなことを決めておくとか)
継続性に関われるとしたら、素晴らしい社会のネットワークシステムだと思います。 なぜ、本部や大教会に言うと面倒になるのか、そこのところ、
もう一つ詳しく解説して頂きたかったです。
金を、本部や大教会以外に、必要以上に落として来ることを、心配してるのか、
それとも、上を通さずに勝手にやることを、上が気に食わないのか、
もうちょっと、詳しい事知りたかったです。的確な批判をする為に。 もうええって天理教は〜
どいつもこいつもしょうむないって〜 皆にやさしい天理教の思考力低下
来月には衆院選が控えている。
ただでさえ師走はせわしないが、日本国中がバタバタした年末になる。
私は政治的な発言はあまり好きではないし専門家でもない。
そのためできるだけ政治的な発言をすることを控えている。
ただ、どうしても今の時期に天理教と政治に関して考えることからは逃げられない。
天理教はどのように政治を考えているのかということである。 天理教にも政治は存在する。
私の知る限り、組織の内部にある権力闘争や理の親に対する承認欲求競争などは
実際に見てきた。
しかし、政治的動きではなくリアルな政治との付き合い方や投票行動を天理教として
どのように考えるかは天理教の今後を考えるうえで検討に値すると考える。 例えば某学界では、宗教団体と政治の距離に関してたびたびネガティブな意味で
注目をあびている。私は某学界については詳しくない。
しかし選挙のたびに職場のスタッフに某学界と関連の強い特定の政党に投票するように
依頼されたことがある人は少なくないのではないかと思う。
そう考えたときに、天理教から政治活動を強制されたり、依頼されたことはない。
これに関しては、天理教の社会的信用に対する一定の評価ができると思う。 しかし非常に狭い経験からの発言で申し訳ないが、
天理教は政治に関して無関心すぎるのではないかと私は思う。
無関心というのは、各々の天理教人が政治に対して無関心と言っているのではない。
天理教という組織が、政治に対して距離を置きすぎていたり、
一定の方向性をまとめようとしない傾向が強い。
つまり組織として政治に無関心すぎるのではないかと思う。
私は、これまでに天理教が政治に介入しない姿勢を支持してきた。
しかし政治や今後の日本に関して天理教人と話をしても、
天理教人から聞けるのは“天理教らしさ”ではなく、
テレビからの情報を鵜呑みにした実態のない言葉遊びでしかない。 宗教団体が政治的オピニオンを持つという距離感やバランス感覚は、
非常に難しいことは承知している。
しかし、少なくとも「陽気ぐらし」を掲げて活動している天理教が、
弱者を貶めるような政策に声をあげないのは、
「陽気ぐらしなんて口先だけで、やる気がない」
と思われても仕方ないのではないだろうか。
例えば、民主党政権になって生活保護の国家予算に占める割合は増加の一途を
たどっている。
そして自民党や維新の会は、
次期衆院選のマニフェストで生活保護の削減を検討している
(現在マニフェスト作成中のため未確定)との情報もある。
生活保護は憲法に保障されている「健康的で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)
のためのものである。
これが削減されることは弱者の生活が厳しくなるということである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています