奈良交通 【24 | 奈良学園】 [無断転載禁止]©2ch.net
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はじめに説明しておくと、産経新聞にもあるように、
内統領とは主に天理教の神事に関するトップである。
一方、表統領とは広報なども含めた天理教組織の行政機関のトップという考えで
ほぼ間違いではない。つまり、この表統領がどういう
行政采配や思想をもっているかということが天理教の将来を決める大きな役割となる。 私は、早速この中田善亮氏に関してググってみた。
この人は天理教トップである真柱の後継者となっている中山大亮氏の父親であるようだ
(真柱に実子はいない)。
つまり表統領となる中田善亮氏は、真柱の弟である。
真柱に後継者がいないなら継承順位にならって権力の移譲をすればいいと思うが、
養子縁組までするなんて天理教の血を巡る執着が、
この平成の時代に異様に感じられ引いてしまうのは私だけであろうか。
大塚家具もびっくりではなかろうか。 さらにググってみると、この中田善亮氏は、
表統領の前は布教部長という役職についていたようだ。
布教部長?そんな冗談があるのか。
布教部長として天理教の衰退を止められなかった人間が、
なぜ表統領として登用されるのか、通常の社会人であれば理解できない。
営業の成果をあげられなかった営業部長が、社長に就くようなものではないか。
この時点で天理教は、本気で天理教を立て直す気がないことは明白である。
何よりこの人事発表に際する知り合いの天理教人のメールの反応は、驚きでも、
絶望でもなく
「ふーん、くらいですね。大して関心がないですよ」と聞いたのがそれを物語っている。 さらに天理教の週刊新聞である「天理時報」の手配り活動を推進した
責任者の一人であることは間違いないようだ(天理教福岡教区 黒門より)。
このようなミクロレベルでの一つの政策が、
天理教の一大プロジェクトとなっていることに、
天理教の布教戦略の手詰まり感が否めない。
営業でいばヤクルトを郵送で送るかヤクルトレディを動員するかの違いでしかない。
そもそものヤクルトの品質を高めるという議論こそが今の天理教には喫緊に必要で
あろう。未来の天理教を真剣に議論した結果として「この人なら」という人間が
選べない古い輪番制組織である。どれほど良心的な私でも、
今後の天理教に明るい光を見出すことは到底無理であると思うニュースであった。 26系統 平日 朝・夕の
JR郡山駅 〜 シャープ前の、この区間って結構、狭隘で見応えあるだろうな
https://goo.gl/maps/MFFevqKsCkC2 >>682
なるほど。
あちらの、新県総合医療センターが開院したあと
今の平松の方の現バス停はどういう名称になるだろね。
変更するのだろうか。 おお、バスの走行路線とかバス停位置とかがわかるようになったのか。
資料整理に役立つわ。
あとは公式情報として路線名称と系統番号一覧があれば。。。
いまのところnako-clubくらいしか見つからない。 しれっと赤膚山から六条山方面に向かう路線復活してんだなw 時刻表のフォーマット変わったんだな
停留所の掲示も 信者の自主性を偽装した集金方法を今も採用している搾取の天理教
天理教を知っている人からも、まったく天理教を知らない人からも
「天理教の金の動き」について問い合わせがある。
その度に説明するのは骨が折れるので、図を書いてみた。
天理教の収入の多くを占める「お供え金」について。
天理教は「天理教教会本部」を頂点としたピラミッドになっている。
本部ー大教会ー分教会ー布教所 という流れである。
大教会は約160箇所、分教会は約1万6千箇所となる。
http://tenrikyosyakaigakulabo.com/wp-content/uploads/2015/08/12.png >>686
学園前駅から直通じゃないのが、奈良の道路の駄目さ加減か。 教会、大教会、本部それぞれの段階でオリジナルな信者を抱えている。
各教会や教会本部の神殿(参拝場)には賽銭箱が供えられており、
神社と同様にお賽銭を入れる。
しかしこれらは一人あたり数円から数百円が多く、
収入としては大きくはないと聞いたことがある。
実際に教会の賽銭箱を覗いてみればわかる。 奈良交通自動車学校はセクハラ先生多いから気をつけてくださいね。
N川先生は特に注意!!
教習中に『好きな男いてるの?彼氏は?』とか聞いて誘ってくるよ。
何人も泣いてる超浮気野郎。 天理教の集金で最も大きな比重を占めるものは毎月の月次祭(つきなみさい)で
集められる「お供え金」である。
各教会には必ず決められた日に月次祭がある。
信者はその日(もしくは前後)に教会にのし袋に入れてお供えする。
のし袋には上に「御供」と書き、下にお供えした者の名前を書く
(下記資料写真、名前は仮名)。それを月次祭の際に教会の人に手渡す。
教会で集めらえたお金は、集計され一括して上級教会の月次祭に持っていかれて
「お供え金」として上納されるのである。
最終的には奈良県天理市の教会本部の毎月26日の月次祭に集められることになる。
http://tenrikyosyakaigakulabo.com/wp-content/uploads/2015/08/%EF%BC%90.png 天理教本部のお供え金は2013年は約120億円であることは既報の通りである。
各教会は、全国に1万6000箇所ある。
つまり各教会は、年間約70万円余りを上納していることになる。
しかし、事情教会と言われる機能不全な教会も多く、
各教会でのお供え金のバラツキは非常に大きい。
また集金したお金の全額を上納していることはなく、
集金した中から教会家族の生活費などが抜かれているようである。 信者にとっては毎月の「お供え金」は署名入りなので、
非常に心理的・経済的な強制になっていることは言うまでもない。
「お供え金は気持ちでいい」という天理教人がいたら気をつけるべきである。 お供えの袋は署名入りのため、教会の人間には誰がいくらお供えしたのかは明白である。
そして金額が高いと「いい信者」で、
低いと「頑張っていない信者」となることは当然の帰結である。
天理教がヤクザやネズミ講と例えられるのは、
こういったピラミッドの上下システムにあることは間違いない。
天理教は別名「搾取の天理教」と昔から言われているのは
こういったシステムが原因であろう。
おつとめの歌の一節である「悪しきを払うて助けたまえ」を
「屋敷を払おうて田売りたまえ」と変換され、
屋敷や田んぼを売ってでも金を作ってお供えしろという
天理教を揶揄する言葉が昔からある。
しかし署名入りのお供えなど、こういったシステムが今も残っている以上、
現在も「搾取の天理教」に対して反論はできない。
「お供えは強制ではない」という天理教の人間がいたら、その教会の
お供え金システムに匿名性が保証されているかをきちんと確認した方がよいだろう。 私はこうした半強制的な集金システムが天理教の害悪(衰退)の根源であると
考えている。
信教の自由の下で、自由意志であるべきはずのお供え金に署名を求めるというのは、
解釈によっては信教の自由を侵害するような人権侵害になるとも考えている。
今年の6月に暴力団の上納金は所得税として扱われ、
工藤会トップが脱税で検挙される事件があった。
暴力団と宗教法人の天理教を同列に扱うことはフェアではないが、
天理教の莫大な金額の不透明さを考えると、
天理教内の本部への上納金に対しても贈与税や所得税をかけるべきであると
私は考えている。
宗教法人への課税は、本来であれば私は反対派であるが、
賛成派にならざるを得ないほど天理教のお金の流れは不透明であると考えている。
(参考:天理教の財政に関する記事) 高校生を対象に合宿を開催して「天理教大好き」「天理教素晴らしい」と、
自己判断ができない未成年を短期間で洗脳のように意識変化させるのは結構だが、
天理教の権力と
金の暗部をひた隠しにしていてはカルトと何が違うのか私には判断できない。 少なくとも、この署名入りのお供え金システムを採用している教会には
決して近づくべきではない。
初めてこの封筒を見せられたとき、私は「天理教は恐ろしい。しんどなるわ」と思った。
こういった感覚は天理教人にはないのだろう。改めて宗教は怖いと思う。
この袋がなくても天理教の教えを信仰することはできるはずである。 >>691 六条山・西ノ京駅から学園前駅直通はあったが、逆は無かったな。
63系統六条山。山の読みを変えれば「ろくじょうさん」とも読めるから、わざとこの数字を充てたのかねw
長らく続いたこの行先表示は金曜日を最後に見納めですな。
富雄駅から奈良駅の40系統の廃止で、熊取交差点から東坂交差点の間を定期バスが走るのも
同日で見納め。 最近よく言われるのが、
「天理教の評判を下げることをやっている人間は、
天理教の中のごく一部の人間であるから、
天理教全体を悪く言うようなことはやめるべきだ」である。
気持ちは非常によくわかる。
しかし意地の悪い返事をするのであれば
「あなたはそれを知っているのに声をあげないのですね。
陽気ぐらしというのは、天理教で苦しんでいる人を無視することですか?」
と言いたい。
(言わないけど) >>699
屋敷をはろうて、首つ○たまえ。
スレタイに関係ないことを書かないで! フォローをするわけではないが、
私がこれまで俎上にあげてきた話題や経験談は天理教の一部の人間によるものである。
だから人を苦しめない天理教人には少しの敵意もない。
むしろ教えに基づく社会貢献をされている方も多く応援したいと考えている。
しかし、私は「天理教は素晴らしい」と言うつもりは全くない。
なぜなら、その一部の人間を生んでいるのは、天理教の構造的欠陥だからである。
つまり、天理教の一部といえども、それが天理教組織の方針であったり、
悪を知りつつ声を上げようとしない天理教人は、
すべて共犯関係にあると私は認識している。 私がこれほど天理教にコミットするのは、私の知り合いの、
昔から懇意にしてもらっている天理教の方が実際に苦しんでいるからである。
特に若者が天理教に苦しめられていることを知った以上、
力になってあげたいと強く思っている。
最近、以下の天理教掲示板が賑わっている。
書き込まれている多くの方が天理教関係者か、元関係者だと思われる
(天理教被害者の方も含む)。
http://6706.teacup.com/5051/bbs ここに記載されている体験談や経験談は、
私が経験し発言してきたことと重なることが多い。
もちろん教義の解釈などについては私の理解が追いつかない点も多いが、
強引なお金の取り立てや権力の暴走は複数の方が同じ文脈で発言されていることは
着目すべき点であろう。これを一部として済ませてしまうのは、
臭いものには蓋をしてしまえという隠蔽の意図が見え隠れする。 天理教の構造的欠陥については、
実の親ではないが「理の親」と呼ばれる信仰上の親の権力性が天理教にはある。
私理解では、この理の親は本部や大教会長や会長を指すことが多い。
この権力性が強いために様々な問題が生じている。
・若者の婚姻関係にまで第三者である大教会長や会長が意見したり介入したりする。
・結婚式を教会本部であげさせない大教会長のルールがある。
・天理教一れつ会という奨学金財団では、信仰上の権力者である「理の親」
(大教会長)の署名を求める。
・天理教施設である詰所に在籍する天理大学生は天理教行事に参加しないと、
大教会長から退居するように脅迫される。 上記の事例は、これまで私が証言と証拠とともに集めた事例の一部である。
そしてこれらこそ、天理教本部の組織や、宗教法人天理教教会本部の責任役員の組織
(大教会)でおこなわれていることである。
責任役員ということは、天理教の政治的、法的決定をおこなう中心的幹部である。
このことをもって、私は「天理教は間違っている」ということをの一部の人間で
終わらすことは決してしない。
もう一度言う、天理教の構造的欠陥を維持しているのは天理教責任役員でしかない。
法的権力もリーダーシップもない真柱などどうでもよい。 私はこれまで、上記の事例については、その都度、奈良県、天理市、京都市などの
相談窓口や該当部署に通告している。
話は親身に聞いてくれるが、私が当事者本人ではないということで
事例に対して対応はとれないということであった。
人権窓口は基本的に通告すれば対応の結果まで教えてくれることになっている。
私も当事者に確認の上で対応までは求めていないため、
行政報告という点で留めてもらうように働きかけている。きちんと声をあげて、
上記のような天理教で頻発する類似のトラブルを知ってもらう段階と考えている。 4月 20・21・22日
田原本 レスティ唐古・鍵に、ボンネットバスが来る googleで「天理教」と検索する。
検索結果の最初の画面で、天理教に批判的なサイトが半分くらい出てくる。
ほとんどが匿名の掲示板である。凄い、というか怖い。 以前、天理時報で天理教幹部が信者に対して
「あまり天理教のことをネットやブログで発信しない方がいい」
というニュアンスのことを発信していた。
その結果かどうか分からないが、
ネットでは天理教人が管理者と思われるサイトは少なく(検索上位には出てこない)、
天理教を批判するサイトばかりが目立つ。
天理教人によるネット発信機能を抑制すると、このままいくと天理教と検索すると、
天理教を批判するサイトでネットは埋め尽くされることになりかねないのでは
ないだろうか。特にネットというツールはネガティブな拡散速度が速い。
以前のようにネットの情報は信頼できないと言って相手にしない対策は、
どこに向かうのだろうか。
本当に天理教幹部が天理教人の発信機能を抑制したいと思っているのであれば、
こういった対応は本当に「社会を何も分かってない状態」ではないだろうか。
社会の潮目がまったく読めていない。 むしろ天理教人にどんどん発信させて、
「天理教」とググれば天理教の有益な情報が溢れる方が
天理教にとってはいいことなのではないだろうか。
私のように、私がいい加減なことを言っても、
読者が「言ってることは間違いだ」と訂正してくれる方もいるし
「言いたいことは、こういう意味なんだよ」と私に替わって説明してくれる方も
いる。
私は読者に助けられている。 天理教幹部の中には、実は天理教の転覆を望んでいる者がいるということなのだろうか。
どっちにしろ社会と天理教は逆方向に進んでいるようだ。 信念を社会の動きに向けなおすべき
ネットにあふれる天理教批判サイトですが、
その大半が広い意味での教内者・教内関係者による内部批判・内部告発サイトです。
アクセス数が多いので常に上位にヒットするわけです。
ある意味、こんなに内部批判や内部告発の多い宗教も他にはないでしょう。 その一方で、各教会や教友レベルでのものもじつは沢山あります。
でも、これらはつまらないので、関係者しか見ない(関係者すら見ない?)ため、
決して上位に来ないだけです。
いくら天理教人が今後、たくさんサイトをつくっても、
これまでと同じようでは残念ながらだれも見向きもしないでしょう。
作り方のコンセプトを変えないとまったくダメですね。 でもなにより根本的な問題は、これだけ内部批判・内部告発が多いのに、
かんじんの批判される対象である教会本部や教会制度などについて、
教団組織の側は何の積極的な反応もせず、
またこれらの批判を受けて何の改善策も講じないことです。
こんなありさまだから、天理教幹部が天理教の転覆を望んでいると
思われるのもうなずけるわけです。 すでに天理教改革・改善の方策提案は出尽くしている感もあります。
封建時代さながらの本部−大教会−分教会の教会制度は見直すべきというのは、
ネット時代以前からずっと言われ続けてますね。
しかし、なんの有効措置も出されないため、
残念ながら下部ないし末端のほうから次々と立ち行かなっている教会
(事情教会と言います)が増加し、
今では全教会の3分の2になっているという指摘もあるくらいです。
社会のほうを向いて活動しない教団は、社会から見捨てられるだけです。
信仰のエネルギーを外向きにもっと生かす(歓待精神の発揮など)だけで、
ずいぶん違ってくると思います。
自分の代で大教会を解散し、部内の教会をすべて教会本部直属にすると宣言する
大教会長でも現われれば、それが直属レベルでの起死回生の策になるかも
しれませんが。 知は力なり
現在の天理教の状態を一言で表すと、看板と中身が違うということでしょか。
どこがどう違うのかは、自分で勉強するしかないでしょう。
教団は、その事実が知られれば、信任を失うことは確かだと思うので、
公表はしないでしょうから。
改革は、誰かさんがこうしてくれたらとか言っているうちは、
何も変わらないでしょう。
自分の行動を変えていくことが必要でしょう。
「知は力なり」です。 マインドコントロール(洗脳)について
私はあまりテレビをじっくりと見ないが、朝は出勤前の準備をしながら天気予報なり、
ニュースなりを聞いている。
最近、必ずといっていいほど耳にするのが「女性お笑い芸人オセロ中島」のニュースで
ある。
詳細は調べる気にもならないが、彼女は霊能者と出会ってから調子を崩し、
その後テレビから姿を消したようだ。
それがワイドショーのネタとなっているだけの話である。
現時点の論調として、
彼女はその霊能者からマインドコントロールされているとのことだ。
こういった芸能人が宗教団体にハマる話題は度々ニュースになる。
オウムでは社会問題にさえなった。 天理教では、こういったことがニュースになったことは私の記憶ではない。
あったとしても天理教の雰囲気からは難しい。
なぜなら天理教は例外なほどオープンな宗教である。
天理教の聖地である「ぢば」には、信者じゃなくても誰でもいつでも入れるのである。
365日、24時間である。
さすがに中心点である「甘露台」周辺(20m四方くらいかな)には入れないが、
見る事はできる。
このオープンな姿勢は、天理教の安心感でもあると思う。 >>728
天理教の広報担当かとオモタ
オームの例があるし しかし話はマインドコントロールとなると注意しなければいけないのではないだろうか。
結論として、どこからがマインドコントロールで、
どこまでが自発的意志かという線引きは、心理学でも社会学でも結論は出ていない。
宗教学者の島田裕巳は、今回のオセロ中島件について
「マインドコントロールではなく、本人の心の問題」と言っていた。
http://gendai.net/articles/view/geino/135292 私には分からない。本人の話を聞いてないし、そもそもあまり興味もない。
厳密に定義するのであれば、マインドコントロールと洗脳は異なるようだ。
しかしそんなこと私にとってはどっちだっていい。
学術的な話になると問題が複雑になるので、とりあえず
「強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、
あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと」
とWikipediaの定義を採用して話を前進させる。
マインドコントロールも洗脳も同じということにするが、
面倒なので字数が少ない洗脳を採用する。 話は変わるが、2、3日前のツイッターでは天理教の布教についてのツイートが]
並んでいた。
特に関西地方で、2、3日前は同時多発的に天理教の布教がおこなわれたようだ。
天理教のホームページによると、
現在天理では大学生を対象とした学生生徒修養科が開催されているようだ
http://www.tsa.gr.jp/event/gaku_d/gaku_d.html なぜ洗脳の話題で、この行事を取り上げたのかは私が言う前にツイートを見ればよい。
それが天理教に対する社会の率直な反応であろう。
私は宗教の衣装を来た人間が、繁華街で絶叫している姿を見ると恐怖を感じる。 恐らく来週あたりの天理時報では、この学生生徒修養科に参加した学生の、
「天理教が大好きになった!」という若者の涙ながらのコメントが天理時報に
並ぶであろう。
さて、オセロの中島が洗脳で、天理教学生会が洗脳ではないという境界は、
天理教人以外には差異がわからず判断が難しい。
天理教の布教戦略が洗脳の表現形だとは言わないが、
それを見る人にとっては天理教を敬遠する理由に十分なるだろう。 >>733
全長18センチ!130人の女を唸らせた巨根運転手 奈良ファのハンズで停留所の看板とか売ってたけど結構残ってた
あまり売れてないみたいやね >654
5月1日に、奈良県総合医療センターが七条西町に移転開設されるが、それに伴い、その段階でバス停の名前も「七条西町」から「県総合医療センター」に変更されるそうです。
学園前駅行き直行便の所要時間は19分とのこと。ただ、朝と夕方の時間帯は混むので時間がかかるようです。若草台経由だと24分の予定だそうです。
ちなみに学園前駅までの運賃は340円。 >654
今はまだ奈良県総合医療センターが移転開設していないから、バス停の名前を「七条西町」ということにしているようです。 >>739
>奈良ファのハンズで停留所の看板とか売ってたけど結構残ってた
本物の中古品? 12月11日の産経新聞にて震災で被害のあった宗教施設という一面が掲載されていた。
主に寺社の被害の数が計上されていた。
天理教に関する記述もいくつかみられた。
新興宗教は沿岸部の施設が少なかったり、
歴史が浅いため建造物がしっかりしていることが理由で震災の被害が
ほかの既成宗教と比べて少なかったようだ。
その中で天理教は全半壊した教会が57もあり、宗教団体別でみると多かったようだ。 もう一つは、各宗教団体の支援体制である。
新興宗教が活発に支援をおこなっていることも紹介されていた。
天理教は本部が組織したボランティアだけで1万8千人、
教区•教会の組織によるものが延べ3万人が支援(災害ひのきしん)に動員されている。
この数は、創価学会が2万人、立正校成会の8500人、真如円の4100人と比べて
群を抜いている。
支援は決して数ではないが、
天理教が5万人近くを被災地に送り込んでいることは天理教の人助けの実践や、
その準備性の意識の高さを裏付けるものではなかろうか。
5万人もの人間を本部が「行ってこい」と言って行かせられるものではない。
これは天理教を構成する一人一人の意思の現れであり、敬服したいと思う。
もちろん産経新聞だけの情報によるので注意が必要だけど。 ただ、この記事が一番訴えかけているのは、
地域コミュニティの重要な役割を担う寺社が被災したことによって、
その地域の文化や歴史が衰退する危険があるということである。
そして、その寺社は政教分離から義援金などの支援が全く届かないということである。
この記事を読んだ天理教人はどう思うのか私は知りたい。
政教分離だから支援が届かなくて当然だと思うだろうか。
宗教法人は免税されているから、行政が支援することは必要ないと思うのか。
または地域が必要とするなら地域の人間の手で再建されるべきであろうか。 震災以降、全国の自治体ではカウンターパートでの協定を結ぶ
遠方の自治体や団体が増えている。
つまり、A県が被災したときには、その支援の中心はA県とカウンターパート協定を
結んでいるB県が中心に行う。
そのためにA県とB県は事前に準備をして「もしものとき」のために準備をしている。
これは、この度の震災が広域にわたったために、
誰が支援のコントロールをするかという混乱の反省からである。
同じような規模の自治体が、相互に備蓄することでリスクを分散させ、
もしもの時には迅速に対応できるということである。
このようなことは自治体レベル以外でも多くみられる。
同種企業や、その他の団体でも同じである。
東北で被災したスポーツクラブや市民団体には、
都市部のクラブやプロチームが用具や場所の提供を行った。
行政支援では、被災者のスポーツの用具までは細やかに対応できない。
このような関係する人たちが
カウンターパートで支援することは私は分かりやすくていいことだと思う。 そのように考えると、
被災した寺社を支援するのは被災しなかった宗教団体の役割ではなかろうかと思う。
過去に私は天理教人が、ほかの宗教団体を批判していることを何度か耳にしている。
同属嫌悪だろうか。歴史的世界的にみても、
宗教団体同士の争いというのは非常に敏感で過激であることは現在進行形でも
確認できる。
しかし天理教が持つ陽気暮らしという金科玉条は、
天理教を信仰している人間だけのものではなかろう。
それは詰まるところ天理教が最も嫌いな人間と仲良くすること抜きでは
陽気暮らしなんて達成することはできないということである。
たとえオウムであってもである。
以上のことから私は見てみたい。
天理教が被災した寺社の支援を行うところを。
もし、そういったことがあれば、それは非常に美しい光景だと思う。 ツイッターという簡易ブログにて「天理教」と検索してみると、
多くのつぶやきがみられる。
大多数が天理教外の方のつぶやきであると思う。
どんなつぶやきがあるのかは、実際にツイッターで検索してほしい。
私は定期的に検索している。その主観的感想を述べる。
そこでは「天理教に勧誘された」とか「天理教の太鼓のドンドコがうるさい」や
「天理教が列をなして歩いている」というつぶやきが多い。
ネットという特質から肯定的側面よりも、否定的側面が多いことは注意したい。
好意的意見もあるが、それは天理教人による発信だと思われる。 そろそろコイツ、まとめて削除依頼しないといけないのかね こういった市井の声について、
このブログを読まれている天理教人の方はどう思うだろうか。
「そんな声をいちいち拾ってらんねーよ」とか「一部の意見だね」とか
「言いたい奴には言わせておけ」と思うだろうか。
もし私のことであれば、「言いたい奴には言わせておけ。けっ」となるだろう。
しかし、こういった声は無視してもいいのだろうか。
確かに、いちいちとすべての意見に反応するこは現実的ではない。
社会の周波数をすべてキャッチすることはできないかもしれない。
しかし、こうした意見を考察し、
せめて社会が天理教に向ける周波数を知ることは
とても大切な作業ではなかろうかと思う。
つまるところ、私はこういった作業への取り組む姿勢から(でしか)
天理教の衰退や天理教の今後を考えることができると思う。
それは天理教がオリジナルな立場を形成してきた一方で、
大衆のニードに敏感に反応してきた歴史がある。
そこを無視してオリジナルな主張を繰り返すことは、
天理教の将来が大変厳しいものとなる。 分かるだろうか。
天理教が行っている古典的な布教戦略である「神名流し」
(法被を着て列をつくって天理教の歌をうたいながら歩く行為)や
「路傍講演」(町中で信仰体験を語る)や
「個別訪問」(自宅に突撃訪問する)は、天理教人にとって、
とても大切な宗教的行為である。
しかし一方で、天理教と社会を乖離させる側面があることも大切な視点だと思う。 以前、ある青年が私に話かけてきた。
上記古典的な布教戦略が苦手であると。人前で、どうしてもできないと。
しかし、理の親(信仰上の上司)に相談しても
「頑張れ」「気合いがたらん」「たんのうせい」と言われるのみだと。
私はこの理の親の正論と侵襲性と方法論の乏しさと鈍感さ、
青年の時代的感受性と敏感さと逃げ場のなさを感じた。 これらは、どっちが正しいという問題ではない。
この行き詰まりにきてようやくだが、
記事のタイトルの意味を考察する意義が出てくるのだと思う。
つまり、天理教を信仰することへの目的性の探求である。
上記、布教戦略は「布教」(においがけ)という名目で実施されることが多い。
しかし本当にこれは布教の意味を達成できているのだろうか。
私は布教よりも修業的要素が強いのではないかと思う。
では、天理教のおける修業とは何なのか。
ベテランの天理教人を見ても、この古典的布教戦略を進んでやっている人を
あまり見た事がない。
「路傍講演はやりたくない」というコトバは聞かれないものの、
進んでやっている人はいないように思う。
むしろ「やらされている感」が漂っていると感じるのは私だけだろうか。
つまり、ベテランも「これって意味あるのかなーあんまりやりたくないんだよね」と
いう違和感を無意識的に抱えているように見受けられる。
こういった感覚は私は現代では、むしろ当然の身体感覚だと評価していいと
思うのだが、それを言ってしまうと信仰的成熟度が低いと評価されることになる
のだと思う。
これらの布教戦略が「できて一人前」という信仰的イニシエーション採用している
限り、
この「やらされている感」から抜け出すことは不可能だと思う。 >>747 去年のバス祭りは確か台風で中止になったんだよな。
方向幕販売は17日限りというのは、ダイヤ改正で廃止となったのも売る為だろうけど
売れたのかねえ・・・。 天理教は人災をどう紐解くのか
これまでに天理教はどのように東日本大震災を読解しているのかという点を考えてきた。
その反応は賛否両論があったように思う。
災害は神の残念、立腹という教義から「震災は神の天罰」(戒め論)という
解釈が大勢であったように思う。
しかしそのロジックを採用する限り、
その場の理論的(精神的)安寧は得られるものの、
災害が無くならない現実がある限り、
長期的なフラストレーションに陥りペシミスティックが増幅し陽気ぐらしが
遠ざかる危険性を私は提示した。
その上で、どのように震災を紐解くのかは天理教災害救援ひのきしん隊の活動や、
被災者の思いというリアルを想像されていれば
天理教がどのような見解をしめそうが私は応援したいと思う。 このたびの震災で、ネットをはじめ色々なツールで天理教人も含めて多くの人が
震災に対して声をあげている。
もちろん政権への批判や原発への是非をめぐる激しい議論もある。
天理教では、前述した震災に対する考え方や、被災地の悲惨さ、
災害救援隊の活動状況などが多い。
その中で、社会は大盛り上がりなのに、天理教人だけが口にしないテクストがある。
それは原発という人災のこと。
震災に声をあげている天理教人や講話をする先生方の話を又聞きしても、
唯一聞かれないのが原発の天理教的見解である。
原発に触れている話しや教義があるかもしれないが、
天理教というオリジナルな見地から原発を語る話はきかない。 この人、削除→繰り返し→アク禁までもちこまないとダメな人なんかね?
面倒くさいなぁ
俺のアク禁列伝にまた一人新たに追加をしなければならないのか…
そこまでされる前に消えてくんない?
ただの頭悪い荒らしってわけでもないようだし 語られている問題よりも、語られないことがあるのはなぜかと思考を巡らすほうが
本質的であることは経験的な身体感覚である。
天理教人を見ると原発はアンタッチャブルな話題であり、
どう読み取っていいかわからないから、
誰かが口火を切るまでとりあえずスルーしているようにも感じる。
天理教は人災をどのように見ているのだろうか。
これは、天理教教義では追いつけないような新しいことであり、
だれも言葉を持たないのだろうか。
それとも本当に天理教では触れてはいけない“何か”があるのだろうか。
次回はそのことについて「お道の視点から」を参考に考察したいと思う。 この春の彼岸 三笠霊苑送迎の一日限定ナコー臨時送迎バスは走るのかな この春の案内がHPに出てない
この狭隘区間を走行するのはけっこう見応え(警備員配置はされてるけど)
https://goo.gl/maps/iptfRA8Qqjy >>767
天理教信者かな?
公に知られたくないことだろうからなあ(笑) バス板で宗教話することがスレ違いだと言われていることがわからんとは… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています