今回、記事に書いたことが宗教の本質ではないことは私も感じるところである。
私が取り上げていることは教義よりも行動経済学的であり、
宗教を表面的に扱っている嫌いがある。
宗教はより形而上学的に議論されるべきであると思う。
しかし、天理教を語るときに、天理教という実践宗教を裏付ける理論的な浅薄さと、
天理教人の矛盾した言動を野放しにはできないという思いが常にシコリのように
残り続けていることも事実であり避けては通れない。
しかし、二代真柱以降の天理教の理論的成熟を担う人間がいないことを
ここで嘆いても無意味であることは承知している。
しかし、私は極寒の雨が降る中、乳飲み子を背負った若い女性が必死で頑張っている
姿を見て、これが天理教のいう陽気ぐらしの実態なのか戸惑うとともに、
天理教教義の不安定さや偽善的信仰に憤りを覚えたことをここに記す。
なぜ天理教人はこうも世間一般とのバランス感覚に欠けているのか、
天理教の著しい衰退の一端を見た気がした。