昔の東武バスを語ろうよ!3
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>89
時間帯によって使われる車が違うんですよ。
先週の野田市11時発のは、中型車(日野ブルーリボン?)が入ってた。 >>90
なるほど、確かに私が見たのは夜の便でした。
岩井車庫も本当に車庫に成り果て、かつての出張所の面影はありませんね。
隣の葬儀場も含め敷地でしたが・・・・ まぁ、出張所っていっても所属台数30〜40台あってそこらの営業所よりよっぽどデカイ所もあれば
数台しか所属していなくて検査ピットすらないような所まで様々だからなぁ 江戸川台も乗客は減ってきてる中、バスは意外にもどんどん増えてきたな。
ただ、一時期江戸川台〜がんセンター&柏〜がんセンターを無理矢理くっつけた便は意味わからんかったが。 >>92
そうですね、古河も岩井も大きい検査は境でやるから回送ついでの営業系統
があったりしましたね。
下妻なんかは砂沼の近くに出張所構えていた時は別ですが、茨城急行へ譲って
からは駅前の事務所と折り返し場だけでしたからね。
電話点呼だったんでしょうか? >>89
>>90
野田市11時のバスには何度か乗った事があるんだけど、自分が乗った時もポンチョじゃなくて中型車だった。
稲荷前のあたりですれ違う野田市行きも、中型車。
確か大利根ゴルフ場のあたりでは、野田市方面に向かう回送とすれ違うんだけど、これも中型車。
どこまで回送するのかは分からないけど、例えば野田市までの回送なら終点まで
大正大学までの回送なら愛宕駅まで客扱いすれば、僅かでも増収になるのに・・・。
ポンチョは、せんげん台〜山谷〜せんげん台の路線で見た事があるから、そこで使われている車両かも。
自分はこの路線に乗る機会は月に一回くらいだけど、この路線ではポンチョしか見ない。 >>97
どんなルートでしょうか?
バスラマ年鑑で東武の特集やってはいたけどバスラマアーカイブスは出る気配全くなし。
関東バスでアーカイブスを出版して以降年鑑の特集とリンクしてたような気がしてたので
これはアーカイブスが出るかなと期待はしているのだけれど・・・。
業平橋に出版に対応できる程の資料がなく、営業所も撤退と分社化で資料を処分しているので
ネタがないという話を以前から聞いたことがあったのだがそうだとしたら残念。 鴻巣は、80年代半ばまでは、多方面の営業所から来る東武バスの楽園だった。
貸切改造車が、宮原からアリコベール前を通って上尾駅ロータリーに侵入し、
鴻巣に向かう姿を見たとき、胸踊ったよ。
今だったら、携帯カメラで撮影だろうけど、
昔(87年頃)はそんなことできなかったから、残念だよ。
「1970年代〜1990年代前半までの東武バス写真集(路線図変遷付き)一部カラー400ページ」
なんて出たら10,000円でも欲しいよw。 >>99
敢えて言えば、高崎経済大学のナントカ教授の本が近いかな。 都バスみたいに路線図が定期的に配布されていたわけではないので資料が少ないね
東武時刻表のバス時刻表は駅発の時刻のみで詳細な経由地はわからないけど
それでもこんな路線があったのかと結構楽しめる >>98
以前、境出張所が廃止になった日を聞いた事があるんですが。
東武バスからの回答は「資料が無くわかりません」でした。
公式表記が無いんですよね。
実際調べに調べて判明はしましたが・・・・ >>103
マジっすか?
さすが東武と言うか何と言うか・・・。 >>106
ありがとう
>>62 は時期がなかったから4月で廃止かと思ったわけで しかし鴻巣運転免許試験場行きのバスも激減したんだな。
こんな状態だから、試験場に免停の講習に行くのに車で行く馬鹿が多いんだろうな。 >>108
バスの本数とその行為は関係ない。
本数が減ったとはいえ、朝日バスは数多くある。
むしろ利用者に対し本数が多いくらいだ。 減ったのは川越のみだからなあ
朝日や川越観光はそのままの本数を維持している
元々鴻巣駅〜免許センターの区間における東武川越車のウェイトなんてほとんど無いに等しい状態 気になってるんで教えて欲しい。
昭和60年頃、岩槻駅から真福寺行きのバスがあったと思うのだが。
ちなみにその頃は、上尾駅西口がまだ整備される前で、
今はなきキンカ堂脇や一方通行を川越行きのバスが爆走してた。 東武バス 大宮駅ー平方ー荒子ー大串ー江綱ー東松山駅のルートがあったと思いますが、本数と廃止時期を教えて下さい。 今、某転職サイトで西武バスが募集してますが、どうでしょうか?
因みに、大宮営業所希望です。
東武バス・朝日バスの3社で悩んでます。 >>113
wikipediaに書いてあるよ
>東松山駅 - 亀の甲 - 荒子 - 小見野 - 平方 - 大宮駅
>晩年は1975年に東松山駅 - 平方、平方 - 大宮駅に分割される。平方 - 大宮側は上尾営業所に移管され現存。東松山駅〜平方間は1978年廃止。
正確には大62大宮〜平方間については当時は大宮営業所の担当。西上尾移管はその後。
平方発東松山行の最後は一日2回だったはず。
荒川に架かる開平橋は新橋に移行した後。
廃止後川越駅から出丸行が出来たがしばらくして廃止。 >>116
大62は20年ほど前は大宮担当が主体で、西上尾は少数だった。
当時は大64もあり、それと絡む運用が西上尾の車両で来ていたと思う。
上尾への完全移管の時期は覚えてないが、宮原の西口にバスが来るようになってからかもしれない。
大51の大宮移管の前の可能性もあったがそこまでは不明。 >>117
当初西上尾は大60のみの運行だったと思う。
昭和57年に大宮駅西口にDOM(ダイエーと丸井)が開店した際、西上尾第一団地からチャーター便を運行し、定期化したのが大60。
大64はツーマン路線だった都合もあって長らく上尾本所の担当で大石回りの尾09の一部便が出入庫の為に運行されていて
上尾担当便は柏座下を通っても後乗り整理券方式だった。 118補足
20年前だと大62は共同運行していたかも知れない。
大65が今のルートになったのが昭和60年頃と記憶しているんだけど
それより前は大62は吉野町の運行だったはず。
吉野町と西上尾の移管については旧尾10(上尾駅西口〜日産〜平方)や扇02なんかも絡んでくる話で
昭和50年代に目まぐるしく管轄が変わっている。
昭和57年に西上尾に3扉車が導入され、整理券方式の路線でも運行可能になっているけど
それ以前に整理券装置を搭載していたのは47年式の数両(7110代?)だけだったと記憶している。
予備車として上尾本所に貸し出す為のものでよく平塚線を走っていた記憶がある。
西上尾が大62を運行できるようになったのは3扉車が過半数を占めて運用の制約がなくなったからだろうね。
それとは別に扇02が移管された時か秀明上尾高校が開校してスクールバスを受託した時かに
上尾本所から7337が、川越(神明町?坂戸?)から7254が西上尾に転入してきている。
その他に西上尾に1両か2両前後扉車としては初期の車両がいたはず。大60定期運行化の時に転入?
>>111
真福寺車庫からの岩槻駅入出庫が路線化していたというのは自分も聞いたことがない。
回送に便乗させていたのだろうか・・・?
ただ目の前に国際興業が走ってて回送にお客乗せるとなるとかなり問題があるような・・・。 昔の東武バスの中ドアだけのツーマン専用車は、前ドアを付けてワンマン改造されたものがありますか。
廃車や中古で地方のバス会社にいったのがほとんどなのだろうか。 >>120
越谷営業所の片隅に何台か留置されていて近所の子供の遊び場だったな中ドア車
2000番台だったけど、前ドア付けたクルマは記憶が無い 最初から前ドアが付いた2000番台は中ドアが引戸だったから区別がついた
中ドア車は折戸だったからね >>120-121
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1187201954/784
改造事例はあったものの手間がかかりごく少数にとどまったようです。
ベース車の条件的には昭和41年式以降、中引扉に限られており、
そもそもドアエンジン自体を装備しない中折扉の車両は改造対象ではありません。
ツーマン車の置き換えを優先した結果、三方シートではない42年式以降のワンマン車は延命され
昭和56年頃ではほぼ現役でした(三方シートの41年式は早期に引退したようです)。
57年頃から一気に42〜44年式の代替が行われたのは記憶があります。
また、中引扉ツーマンは40年から導入されており、
大宮や上尾には昭和50年代初めには中折扉のツーマン自体が存在せず地域の違いがあるようです。
確かに柏や越谷は折扉でしたね・・・。
中引扉ツーマンは当初練馬から配属されていますがいすゞが40年に大きなマイナーチェンジを行っており、
その前のモデルで引扉のツーマンと言うのがまとまって加須に転出しています。 昭和59年当時、朝日新聞が埼玉県内で「ターミナルガイド」という冊子を購読者に配っていた。
内容は埼玉の主要駅のバスの案内が載っていて、そのなかに岩槻駅に『真福寺』行があった。
まさか車庫だとは思わなかったから、その頃は有名なお寺で観光便なのかなと思っていた。
記憶だと北越谷から「下妻駅」行もあった。
まだ小学生の自分には「下妻駅」がどこの何線なのかもわからなかったので、
記憶に鮮明に残ってる。そもそも北越谷駅もどこだかわからなかったのだけど。
春日部駅の「東宝珠花」行。これもなぜか記憶に残ってる。
熊谷は秩父鉄道バスの「観音山」や東武の「立正大学」行。
立正大学行が記憶に残っている理由は、子供心に立正大学を知らず
「立教大学」と間違えじゃないかと思っていたから。
確かに「真福寺」はあったんだけど、記録にないし、
ターミナルガイドも30年も前の話で喪失してるし、モヤモヤしてるんだよね。
ターミナルガイドは記憶が確かなら、上越・東北新幹線の写真が表紙だった。 >>124
真福寺ですが昭和61年の埼玉県バス協会の路線図には載っていませんでした。
この頃熊谷管内では籠原駅発で秩父鉄道と競合する路線では御稜威ケ原工業団地だけが残っていました。
(昔は観音山にも路線があったはず) 昭和50年代 北千住から田島ぐらいまでバスだけで行けたのかしら? >>126
昭和50年代だと50年代初頭でも少し遠回りしないと無理です。
まだ春日部〜栗橋間が関宿経由でつながっていたので春日部以北はまぁまぁ大丈夫ですが、
日光街道沿いと言うルートは春日部以南で寸断されていたかと。
春日部〜栗橋〜古河〜館林〜関東自動車の佐野行に乗り換えて東武佐野線田島駅、とボケてみる(笑)。
会津田島なら古河から栃木へ出て宇都宮まで、あるいは古河から小山へ出て小山から関東自動車で宇都宮へ出て
宇都宮から関東自動車で鬼怒川でしょうね。昭和50年代では鬼怒川〜会津田島間はありますが会津乗合の片乗入です。
鹿沼〜今市間はその頃あったかどうかですが鹿沼と栃木の間はどちらにせよ東武バスではありません。
問題は春日部以南ですが、例えば春日部に出なくてもいいなら吉川から野田市を目指して関宿で件の春日部〜栗橋線に合流するかですね。 >>127 早速レス感謝です。昭和50年代前半の東武でも会津田島までは東武バスでは行けなかったんですねorz ありがとうございました。 東武バス 白岡駅ー東武動物公園
白岡駅ー春日部駅
大宮駅ー岩槻駅ー岡泉ー幸手
いつごろまで、走っていましたか? どなたか教えてください。
ひろゆき氏の2ちゃんに書き込みがあった。
おそらく反応がないと思うので、知ってる人教えてあげてください。 >>129
廃止時期は全然わからないけど
白岡駅〜東武動物公園西口間は昭和57年に東北線で踏切事故があって
乗ってた電車が白岡駅で抑止されて駅で途中下車したら
誰も乗せずに東武動物公園行のバスが出て行った
出て行ってからあのバスに乗れば東武動物公園駅(杉戸駅)に行けたんじゃないか?
何で案内しないんだと駅前広場が騒然としていた
動物公園西口から動物公園駅まで相当の距離があるというのを
騒いだ人たちは気付いていなかったのでしょう
白岡〜春日部間は平成元年頃乗った記憶があります
菖蒲上町〜白岡駅〜春日部駅西口〜白岡駅〜菖蒲上町でダイヤ半分と言う行路表で
その頃には1日1本、太田新井〜内牧東光園の単独区間でも2〜3名の乗客がいたのを覚えています
岩槻〜幸手間は昭和50年代末にはもうなかったと思います >>130
回答ありがとうございます。菖蒲上町ー加須駅の路線もありましたか? >>131
菖蒲〜加須間は全然記憶ないです
すみません
ただ昭和50年代にはなかったと思います
大宮〜桶川〜加須間ならうっすらと記憶があります
上尾の大51・浦33に混ざっていすゞの車が中山道の上尾車庫以南を走っていて
(昭和48年頃熊谷からの路線は一時的に上尾車庫で打ち切り、
後に鴻巣駅入口分割で大宮〜鴻巣間の大52として大宮乗り入れ再開)
水上公園の応援でもないのに何でいすゞ車が走っているんだろうと方向幕を見たら
菖蒲上町と書いてあってびっくりした記憶があります ちなみに大宮〜桶川〜菖蒲間の系統番号は大65で大60番台である通り始発は大宮商工会館でした。
国道17号を大成陸橋を渡った宮原一丁目まで進み中山道に入っていました
区間便だった桶川発も大65を名乗っていて大宮乗り入れ廃止後もそのままでした
大宮駅西口〜リハビリセンター間が大65を名乗るようになって桶川〜菖蒲間は桶02と幕変えとなりました >>132 >>133
昨年、桶川駅ー鴻巣駅ー免許センター行きが廃止なりましたが、大宮駅ー熊谷行き昭和50年代まで残っていましたかね? >>134
熊谷から直通で大宮まで行っていたのはツーマン時代。
昭和48年8月のワンマン化の際に熊谷からの直通は上尾車庫までとなった。 スペシャルゲスト
太川さんと蛭子さんだよ みんな秘密ね! スペシャルゲストいうから
青白塗装のP-LV314L富士重5Eが来るんかと思った
いすゞオーナーズミーティングに姿を見せる訳じゃなく
4年前か5年前のアルピコバス祭り以来姿見せてないよね 来たら楽しいとは思うけど、あくまでマニアが保有する非公式な車両だから、呼べないんじゃない?
塗装も本物の青塗装とは少し違う ≥≥141
どこが違うの?俺わからん! インターネットアーカイブでMNAの公開してた頃の車両在籍資料とか見れるよ。 >>143
インターネットアーカイブで東武バスギャラリーの掲示板の一部が見れたけど
あの電波飛び交ってるのがもう一度見たい 北越谷〜春日部にかけて国道4号を経由する路線っていつ頃まで残ってたんでしょう?
具体的な起終点が分かると尚有難いです。
(80年時点の人文社道路地図にはバス停の印がある) >>147
越谷だったか北越谷から旧4号を経由して岩槻へ行く路線はあったようだけど春日部まで行く路線あったっけ? >>147-148
http://www.eris.ais.ne.jp/~kunyu/toubu/toubus3804.htm
ここの444番目に載ってる。
あったことは確かだけどいつまであったのかは記憶がない。
昭和55年時点では多分ないと思われる。
人文社の地図は廃止系統を消し忘れるので有名だから好事家には手放せない存在なのよ。
ちなみに過去レスにあった春日部〜関宿〜栗橋の江川分割は昭和53年らしい。
>>148
元荒川の対岸を行く越谷駅〜北越谷駅〜第六天神社〜平野〜岩槻駅でしょ?
(上記のリンクで452番目) >>148-149
回答有難うございます。
ちなみにその人文社地図には第六天回り岩槻の経路は載っておらず…(停留所が気になる) しかし,
神奈川県郊外今でもこまかく路線網があるのに
埼玉県郊外はほとんど死んでいるのは,
単純にバス需要の差がそうさせるのだろうか?
それともバス会社のヤル気の差があるからなのだろうか? >>155
地形の問題もあるのでは?
平坦で自転車通勤がしやすい 平坦でない県西部や秩父なんかでも死んでるからなあ
東武エリアと比べて国際興業エリアの飯能あたりのほうが山間路線が残っているから
東武の場合は鉄道直営による高コスト体質がもたらしたと言えそうだが 南河原村には東武バスは乗り入れていたが,
五霞村には乗り入れていたのかな? >>158
昭和54年の東武時刻表を見ると幸手から大福田へ向かう路線があるね 東武時刻表なつかしいな。
このあたりから私鉄各社がオリジナル時刻表を出版するようになったんだよな。
近鉄時刻表はその前からあったが。
この頃も「昔はこのあたりまにもバスが入ってきたのに今はなくなっちゃってねー,
○○まであるけば県道経由のバスがあるにはあるけど1〜2時間に1本くらいでねー」
という言葉が聞かれたが,いまじゃその「県道経由」すらなくなっている。 >>157
皆野の場合西武がやっていたとしても無理でしょ、多分。
都幾川周辺がイーグルになっても苦戦してるようだし。
>>158
朝日で運行している幸手駅〜五霞役場は元々東武の路線。
他に「五霞村」からは栗橋と関宿方面に路線があった。 都幾川のイーグルは苦戦も何も町が委託してるだけじゃないの? 昭和60年の茨城県地図では江川車庫までの路線が既にないね 昔の水上駅前の東武バスの写真を見ると、前後ドアなのに、後ろドアを使用しないで、前のり前降りにしていた理由はあったのだろうか?
他の群馬県内の営業所は後ろのり前降り、関越交通に移管したら後ろのり前降りになったし。
水上地区だけ、トップドアの路線バスが集中配置していた名残で、埼玉の営業所から移籍した前後ドア車もトップドア車に合わせたとか。
日光もたしかトップドアの路線車と観光バス格下げ車に合わせるために、前後ドア車も前ドアのみだったような気がします。 >>164
山岳路線だから。
曲線かつ勾配のある停留所で前と後(中)を同時に合わせるのはきわめて困難。
箱根のバスと同じ理由。
また降雪が多い場合も前乗前降のほうが運転士の負担を軽減できる。 >>161-162
イーグルが苦戦しているというか撤退したのは嵐山だね。
>>164
日光の前後扉車については運用が限定されていて
原則奥細尾までしか行かない「市内線」という扱いでした。
今の中型車の運用に似ていますね。
丸型の大きなヘッドマークをつけて運行していました。
昔は確か後乗りだったような気がします。
また、今市出張所の車両も西参道まで乗り入れていて
ゴルフ場線(日光営業所の前を通る路線)に入っていた記憶があります。 東武バス江川春日部線。
小学生自分、最末期の路線を自転車でたどるも、
船戸橋で断念…。
この時には白岡春日部線も1本になってたから、
乗りたかったなあ。 スレが寂れているのであげも兼ねて、知らない若い人のために。
つくばエクスプレス開業で大打撃を加えられるかと思っていた路線網も
意外に再編で残ったり、新たな需要を生み出したりしている。影響は最小限に抑えられてる。
しかし1983年開業のニューシャトルは開業規模は情けないほど小さかったけど、
この開業でことごとく沿線の東武バスの主要路線は大打撃を受けた。
大成(鉄道博物館)駅:大宮駅東口〜三進自動車(朝8・日中4本/毎時)大幅減便→その後廃止
加茂宮駅:宮原一丁目利用客減少
東宮原:宮原メヂカルセンター線利用客減
しかも同時に東北線土呂駅開業で稼ぎ頭だった植竹周辺の乗客も大幅減。
新幹線開業による特急廃止で高崎線・東北線とも本数倍増(朝7本→10本・日中2→4本)。
便利になったことで、わざわざ大宮までバスで出る必要がなくなった。
大宮駅〜宮原メヂカルセンター((朝8・日中4本/毎時)大幅減便
しかも混雑路線で料金先払い方式3扉車だった。これが今では・・・。
長くなるので次で。 今羽駅:大宮駅東口〜第二住宅(朝5・日中2本/毎時)大幅減便→廃止。
本郷第二住宅・今羽団地の人が宮原駅まで出るのに1.5キロあったことと、
宮原駅が高崎線の本数が少なくて使い物にならなかったこと、
昭和50年代半ばまで大宮駅までの料金が160円ほどだったこと(既に国鉄は大宮宮原間160円だった)などもあって利用客が多かった路線。
これもメヂカルセンター線と同じく神明橋付近での土呂駅開業と、国鉄の本数増加、バスの毎年の値上げであっという間に客離れが進んでしまった。
吉野原駅:大宮駅東口〜工業団地東・原市団地 →朝4本/毎時廃止
大宮駅東口〜吉野町車庫 →本数大幅減(朝2・日中1本/毎時)
宮原駅〜工業団地東・原市団地 →本数大幅減
吉野原にある工業団地に通勤するための輸送バス。
朝晩は満員御礼の状態で駅とを結んでいた。
ニューシャトル開業後もニューシャトルの高額運賃(今と20円しか変わらない)
宮原駅〜工業団地東線はそこそこの乗客を確保していたが、
やはり上記したバスの値上げと、工業団地自体の活気の低迷で利用客が瞬く間に減って、今では見るも無残な姿に。
疲れたので次回に続きまた書き込みます。 >>169 書き込んだものだけどちょっと余談
私と同じ中年世代は知っているけれど、若い人で東武バスのファンの人は
不思議に思っているかもしれない「大宮営業所」のあの辺鄙な位置。
なんであんな変なところにあるんだろうと思われるかもしれませんが、
当時大成にあった車庫が手狭で、移転を模索していたところ、
工業団地線・原市団地線・宮原メヂカルセンター線・第二住宅線
それに平方〜大宮駅西口(商工会館)線と比較的利用客が多かった
路線を網羅できる位置にあったため、あんな場所になった。
大宮駅東口〜上尾車庫は70〜80年代、超ドル箱路線だったことと、
上尾駅での折り返しができなかったために、旧上尾営業所で扱うことに。
幸か不幸か、その後大宮営業所内の路線が壊滅的打撃を受けていた中、
上尾駅前整備、北上尾駅開業で旧上尾営業所環境が大きく変わり、
今の大宮営業所が旧上尾営業所の役割を担っているというのは、本当に皮肉な限りだよ。 なんでこんなところに営業所が?っていうのは東武ではよくある話だよな >>171
旧住宅公団分譲の工業団地内にあるバス営業所って普通じゃないのか?
西武の川越とか狭山もそうでしょ >>172 西武バスとは、全く違う話。
>>171が言いたいのはそう言う意味じゃないと思う。
例えば、岩槻営業所や旧加須営業所も、なんでここにという場所にある(あった)。
岩槻は、野田線で大宮経由より北浦和に出た方が安かったので、かなりの本数があったのに
やはり80年代のJR移行の時にバスが毎年運賃を値上げしたことで、一気に衰退。
宮下折り返し便が多くなった今、岩槻営業所が位置的に無駄になっている。
加須もそう。
東武晩年はなんでこんなところにという場所だったけど、
昔、栗橋や大越経由の羽生駅、むさしの村、不動岡高校経由の路線など賑わっていた時期があった。
その後の時代の流れで、相次いで路線が廃止になって、あんなさみしいことになっていた。
今は行田出張所の路線を移管して、朝日バスが運行しているし。
同じ県道沿い、それもあまり離れていない距離に、車庫が二つあったということが
昔の東武バスの栄華を垣間見ることができる。 スカイツリーにある東武バス案内所で
メモリアルフォトブック売ってた
熊谷の格下げ車の型式がLVになってた
けど違うよな 沿革と過去の代表的な車両、新車とラッピング車、
運転訓練車のカラー写真
特にオリジナルバスカードとテレフォンカード
非売品の柄もあって貴重だった
500円だけど損はしないと思う >>173
延々と国際興業の路線エリアを回送していく岩槻車を見ているとおいそれと車庫を移転できないのが難しい所ですね。
(実に東新井団地からの回送は片柳小学校〜浦和東高校〜真福寺で回送している)
天沼車庫の位置も目の前の浦44は吉野町車庫が担当していて大宮から浦和に回送している状況ですから
加須のように路線の廃止によって孤立する車庫もあれば維持出来てはいるけれど環境の変化によって孤立している車庫もあるという感じですか。
路線廃止で出入庫以外が孤立化した営業所は結構あって現存は草加、廃止・移管だと深谷や本庄宮本町や菖蒲(元々ターミナルが別にあった)等が挙げられます。
>>174-176
クイズラリーの景品で配った初版と一般販売は装幀が違います。
しかし500円とは安いですね〜 深谷地区末期は本庄から回送してたしなぁ
もっとも、直営末期に新設された森林公園が小川町まで長距離回送していたように
東武としては回送距離より営業所の数が多い方がコストがかかっていたのかも? 白石車庫線の終バスは皆谷から森林公園まで回送でその距離約40km! >>169 続き
原市・沼南・丸山駅
東大宮駅〜砂団地〜瓦葺・がんセンター〜上尾駅東口(毎時2本、その後補助金バスへ)
原市地区が不便だったこともあり、そこそこ需要のあった路線。
しかしニューシャトルができると激変。
原市駅から大宮駅までが13分、沼南駅からも14分でつくので、わざわざ
東大宮に出る理由がなくなった。
志久駅:上尾駅東口〜小室志久〜伊奈役場
伊奈中央・羽貫駅:上尾駅東口〜六道〜伊奈役場
小室志久経由の伊奈役場行はニューシャトル開業後もそれほど本数は変わらなかったけれど、
六道経由伊奈役場行は、伊奈町の中心地を通ることもあり、日中でも毎時2〜3本、朝なら5本あった路線。
伊奈町の唯一の交通手段だったことで、乗車率はかなり良かった。
しかし、ニューシャトルで20分くらいで大宮駅まで出られるようになると、
やはりわざわざ上尾からという人もいなくなった。
拠点性を失ったことが上尾駅前が綺麗に整備されながら、近隣市町村より駅前商店街の衰退の速さを招いた。 東大宮駅からがんセンターに向かうバスがほんのわずかな時期にあったようですが
いつ頃の話ですか?尾山台・原市団地経由ですか?砂団地経由ですか? >>181
1984年頃までで、砂団地経由だったと思う。
記憶が曖昧。詳しい人お願いします。 >>168
大成は大66以外に大63も通ってた。
大63が西口に移った際に大66は三進自動車行から富士写真入口行に変更。
その後さいたま市の政令市化で宮原駅に伸びたが廃止。
大42については2002年にメディカルセンターから宮原駅へ区間延長。車両は1996年以降中型。 >>183
それはもう1990年代後半前後の話。
投稿者が主張したいのは、全体的に打撃を受けましたよということじゃないの?
そんなこと言いだしたら「三洋電機行」だって抜けてるし。
まあこれは、三洋電機自体がなくなったことによるけど。 >>184
183だが、ニューシャトル開業による影響は記憶がないので、
書いた内容は埼玉に来て、記憶がある1990年以降のもの。
183で書き忘れたが、三洋電機前行もあったな(後に岩谷産業前に変更)。
大宮の東口から出ていた当時の大63と大66の出入庫で、
系統番号は大41だった(西武バス
にも同じ系統番号はあるが無関係)。
大63と大66が西口発着になったのは1994年。その際に大41は廃止、
大66は出入庫の富士写真入口行になった。 三洋電機を語るなら日進経由三進自動車・大宮駅西口と松原住宅経由別所団地のツーマン系統は欠かせませんね。
大41から分かれて何でこんな狭い道を?と思うところに車掌誘導があるとはいえ全長10mクラスのバスが突っ込んでくるのは圧巻でした。
別所団地線が宮原駅西口発になった今でもその片鱗は駅を出てしばらく先で体感できますが。
また三洋電機には大宮商工会館から大成陸橋を渡り宮原一丁目で旧中山道に入る菖蒲上町行きもありましたね。 >>186
昭和28年まで鬼怒川〜田島間で滝ノ原に行く事は出来ました。
会津乗合に移管された後は野岩鉄道開業まで運行されていました。 22時代の最終のみの大41三洋電機前行き、懐かしい。
大42の中型限定もそろそろ解除できないものか…。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています