昔の東武バスを語ろうよ!3
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>>704 ドアスイッチはレバーだから、緑のボタンは運転手さんへの合図用。
地元の静鉄バスだと、一回鳴らすと停車、二回鳴らすと「車内通過(下車客なし)」だったけど、東武バスは判らない。
静鉄バスだと、前後ドア車の場合、前ドア直後に車掌台(車掌さんのスペース)をもうけて、前乗り前降りでやっていたし、車掌台がなくなって、ツーマンも出来る前後ドア車には、普通の車でいうと、グローブボックスのあたりに、マイクとドアスイッチがついていた。 いすゞ
2000番→6000番→2000番→6000番
日野
1000番→3000番→5000番→7000番→9000番→5000番
三菱
3000番
日デ
8000番 東武バスの群馬の太田営業所は東武伊勢崎線の太田駅北口にあった時代。
タクシーは東武系の朝日自動車専用。
東武バスの回数券や定期券は、バスのりばの前にあった、書店が委託販売していた。
群馬中央バス系の旅行会社も北口にあって、新島にあった、群馬中央バスの太田営業所ではなくて、旅行会社の窓口で、群馬中央バスの定期券や回数券を売っていたと思う。 古河駅〜館林駅までの路線って、廃止直前にそこが知りたいのバス旅で出てたんだな
昭和61年に >>691
20年前、当時住んでいた菖蒲の車両に「バス共通
カード」が導入されて、「こんな田舎にもバス
共通カードが!!」って驚いたものだよ。
今じゃ、この「バス共通カード」すら懐かしの領
域だけどね。 田舎でも磁気カードが終わりつつあるね
メンテもできなくなってきているのか、読み込みづらくなってるし
磁気カードで最後まで残るのはテレホンカードかな? >>711
その前にオレンジカードだろう。
国鉄発行のオレンジカードが存在するから。
国鉄発行カードを今使うと、使われた会社がまるごとその分の損を被る。
それを返金などするとなると、法律から変えなきゃいけなくて大変なことに。
国鉄って組織がなくなっちゃってるんだから。
それから考えると電電公社まるごとNTTに変わってるんだから、
テレホンカードの廃止はどうにかなるんじゃないの? 例えオレンジカード廃止で半金対応となっても
国鉄時代のオレンジカードを返金するような人はほとんどいないと思うけどねw
今持ってるような人はコレクターぐらいでしょう >>634の統計ネタにいくつか。
昭和53年の年報に北越谷〜せんげん台とか北越谷〜岩井車庫の路線が載ってたけど担当が茨急じゃなくて東武になってた。
これって途中から茨急に担当が変わったってことなのかな?担当はどこだったんだろうか。
あとせんげん台駅〜武里団地循環という路線も載ってた(担当は東武で右と左の両回り(右回りの運行回数が49・左回りは58)有) 本格的に路線バスに進出する前の慣らしみたいなのよくやってたからそれじゃないのかね
朝日でいう幸手駅〜五霞線とか、川観でいう北本駅〜富士重工線みたいな >>714
北越谷〜岩井車庫は茨急/東武共同だったっけか
観光バス格下げ車なんかが走ってたイメージ 館林営業所が太田営業所の出張所になったころ、平日朝9時ごろ、3台くらいまとまって館林方面から回送で太田営業所に戻ってきた。
館林地区の朝のラッシュ時運用か企業の特定輸送だろう。
あと、朝一番の尾島三菱電機行きは、中型というか大型ナローが二台。
由良局前〜宝団地の道が狭いため大型が入れないから、朝の通勤対策かと思った。
1983〜84年頃で、尾島三菱電機ゆきも朝夕のみの運転で日中は宝団地ゆきだけだった。 朝日自動車太田営業所のウキぺディアの所に過去に書き込んだ内容と同じ+群馬中央バス。
1983年東武バス太田営業所の路線。
@太田駅〜妻沼中町〜熊谷駅
A熊谷駅〜妻沼中町〜西小泉駅
B急行 熊谷駅〜バイパス〜妻沼 ※鉄道の熊谷線代替バス
C太田駅〜桐生天神町 ※桐生営業所と共管※
D太田駅〜太田呑竜〜青年の家
E太田駅〜浜町入口〜下浜田〜東毛病院
F太田駅〜由良局前〜宝団地
G太田駅〜由良局前〜宝団地〜木崎駅〜尾島三菱電機前
H太田駅〜植木野〜足利両毛駅
I太田駅〜新宿〜足利両毛駅
J太田駅〜新島踏切〜下小林〜館林駅
※今現存なら、太田バイバスの交差点を左折して、イオン太田経由になるな。
K太田駅〜東別所〜西小泉駅
L太田駅〜太田駅南口〜南一番街〜バイパス十字路〜(太田バイバス)〜西小泉駅〜赤岩統合中学
★群馬中央バス
@新島車庫(群馬中央バス太田営業所)〜太田駅〜藤阿久〜新田〜伊勢崎駅〜駒形〜前橋駅 ※伊勢崎駅行きが多い中前橋駅行きもあった。
A新島車庫〜太田駅〜世良田〜伊勢崎駅
B新島車庫〜太田駅〜大間々車庫 ※1983年当時すでに1日1往復。東武桐生線とほぼ平行していた路線?
C太田駅南口〜警察入口〜(太田バイバス)〜新田〜伊勢崎駅
※平日に朝夕1往復づつ。 >>714
東武の北越〜野田〜岩井は境担当
野田〜北越間は野田担当
元々野田から北越は野田〜越谷を引っ張った東武と
岩井から南進してきた茨急の競合路線だった
茨急が東武の完全子会社になっても競合は変わらなかった
武里団地循環は春日部の担当だと思った 北越谷駅〜野田市駅方面
昭和53年
茨急バス 北越谷駅−岩井警察署前、北越谷駅−下妻駅
東武バス 北越谷駅−野田市駅(2系統)、北越谷駅−紫ゴルフ場、北越谷駅−岩井車庫
昭和55年
茨急バス 北越谷駅−岩井警察署前、北越谷駅−大正大学
東武バス 北越谷駅−野田市駅(2系統)、北越谷駅−紫ゴルフ場、北越谷駅−岩井車庫
どちらか不明 せんげん台駅−岩井警察署前、愛宕駅、野田市駅、大正大学 埼玉県道324号線(蒲生岩槻線)を走っていた、
大間野−蒲生駅入口−麦塚が、新越谷駅−蒲生駅入口−麦塚に変わり、
昭和54年頃新越谷駅−蒲生駅入口−柿の木二区になった。
大間野−麦塚時代は昭和45年頃で1日22本あったのに対し、
昭和54年に新越谷駅−柿の木二区になったときは1日3本だった。
柿の木二区に延長されたときに松原団地駅−柿の木二区(1日11本)が新設されたので、その分減便されたのかな? >>720 せんげん台駅から大正大学は茨急バスだったような気がする。
1983〜84年頃、東武電車の車内から駅前ロータリーを見たときに、停まっていたバスは東武じゃなかった。 草加駅−工業団地経由−新善町(昭和45年1日4本)
昭和55年に新田駅西口−新善町と草加駅−工業団地経由−松原団地駅に分離。
昭和58年に新田駅西口−新善町−松原団地駅になった(1日20本)
草加西高校ができて、上野学園短大も新善町あたりあったからなぁ。
上野学園短大は今はなくなり、宅地化が進み、多少路線変更されたが、
現在朝日バスが引き継いで、だいぶ本数も多くなった。
昔も今も変わらないけど、伝右川沿いが道幅狭い。
それに比べ、松原団地循環は土日祝1本だけになってしまった。 >>721
大間野ー麦塚は越谷に廃車で転がっていた中扉BUの幕にあったけど、今思えば何処に転回場があったんだろう? >>724
昭和48年頃の東武バス路線一覧が掲載されているサイトがあるんだけど
そこで大間野ー麦塚線の各停留所を見ると、大間野(光福寺)と書いてあった。
確かに現在も国道4号大間野交差点そばに光福寺が存在します。
光福寺の構内スペースで折返ししていたのでは?
この頃、系統番号が埼玉県内にもできたのですが、「蒲01」だったようです。 >>726
つくばエクスプレスが開業した頃に桑袋団地行きが花畑車庫までになった
大鷲神社行きが桑袋団地行きになってからもう久しいな 昭和40年代後半まで浦和駅−草加駅ってのがあったらしい。
新郷支所(現:新郷農協)までは川11と同路線。
昭和50年頃?の末期は草加駅−里局入口(現:国際興業の鳩ヶ谷高校付近)
東武バスエリアとして草加と浦和でつなげておきたかったのかな?
西武も浦和駅−草加駅があったらしいが、東武と同じルートかは不明。
西武が草加まで来ていたというのは凄い時代だなぁ。 >>728
西武バスの源流は浦和東部に路線網を擁した東浦自動車。1973年4月、国際興業バスとの路線調整により創業以来の浦和駅以東から撤退した。 >>729
源流は東浦自動車のようですね。
「西武バス60年のあゆみ」を見ると、
昭和7年に東浦自動車を設立して、その時に浦和駅−鳩ヶ谷間が開業し、
草加駅まで延伸したのは、昭和30年頃のようですね。
失礼、スレ違いで申し訳ないです。 RP誌の東武鉄道特集でS39年の路線図にバスの主要路線も載っていた。
見ると大和町(現・和光市)から川越までR254を経由しない路線もある様に描かれている。
そんな路線が実在したのだろうか? 昭和30年代の埼玉なんてとなりのトトロに出てくる場所そのままみたいな場所だったからな
車も普及してなかったし、バスを幅効かせていた時代だった >>731
>RP誌の東武鉄道特集でS39年の路線図にバスの主要路線も載っていた。
なんて書籍ですか?見てみたいですね。
和光市駅もまだ大和町駅の頃ですね。
昭和39年頃の事業者・路線単位で起点・終点・主経由地・所要時間・通し運賃ほかが一覧が載ってる書籍があったけど、
細かいルート(各停留所)まではわからないですね。
>>732
ネコバスが来る前のバスみたいな感じですかね。
中扉のみ(手動)、車掌もいる。
トトロ見てしまったw >>731
>>733
東武鉄道六十五年史で最大版図と称された時代の旅客案内版だね。
東武電車沿線案内と謳っておきながら苗場スキー場、会津田島、(会津乗合乗換)東山温泉までカバーする凄まじい路線図だ。
流石に下館〜水戸の岩瀬あたりから東は図でも見切ってしまっているが、土浦は何とか収めている。
池袋〜254〜川越も載っている。拠点としての池袋を死守していれば今頃は。。。
鉄道ピクトリア949号特集東武鉄道、2300円。7月下旬発売で、まだ売ってる本屋もあるよ。 鉄道ピクトリアルね。
他社バスの扱いが、会津乗合が前出の若松以外に、会津田島〜湯の花・檜枝岐。
鬼怒川〜塩原温泉の国鉄バスと思しき路線。
三峰口〜大輪の西武自動車。
鬼石〜万場の上信電鉄。
東野鉄道が滅茶滅茶弱くて、氏家〜矢板〜大田原だけ。図の表現からして、那須観光など行ってくれるなと言わんばかりw >>734
>>735
ありがとうございます。探してみます。 >>728
草加駅−浦和駅
国立公文書館 デジタルアーカイブで見たところ、上記路線の免許申請書類が閲覧できた。
昭和26年頃の申請で、相互乗入(西武・東武)の内容だった。
西武が浦和−鳩ヶ谷、東武が鳩ヶ谷−草加を既存運転していたところから、
浦和−草加直通運転が目的で相互乗入の申請をしたらしい。
申請内容から当時全線40円、西武・東武それぞれ1日3回。
これが昭和40年代まで続いたと思われる。 >>734
>拠点としての池袋を死守していれば今頃は。。。
いや・・・
もし城北乗合を国際興業ではなく東武が引き継いだとしたら
熊野町循環や日大病院を持っていた訳で意味はあるが
川越街道を遠路はるばる行った先での池袋だから撤退はやむを得ない。
ここら辺が東急が渋谷を持っているのとはちょっと違う訳。
それに東武が撤退した結果川越街道を独占した国際興業も直進する路線は儲かってるようには見えない。
同じような時期に東武は浅草からも手を引いている。浅草も千住方面からの行きつく先だったからね。 >>738
確かに有楽町線が池袋から営団成増まで延伸したときは、
国際興業は大打撃喰らいましたからね。
更に2年後埼京線開通でも大打撃を受ける。
ただ、綾瀬駅−六ッ木都住・八潮駅だけが朝日へ移管している理由がわからない。
東武バスエリアなのに、この路線だけ朝日なのか? 池袋にオレンジ色のだるまポール一本残しとけば…って話なんだけどね。
こういう所で東武の社風が激しく出ていると思う。「辞める時は綺麗さっぱり」池袋といえどもね。
で、だるまポールが大化けして、池袋を拠点に東武の高速バスが!となりそうな時代が来たのだけれど、ここでまた社風が出た。
「コケるつもりでやっては見るよ?」
「やっては見たが本当にコケた」
新宿日光鬼怒川線なんかがそうだね。
必死にバス部門を店仕舞いしようとしているのに、下手に高速に活路を見出されては巧くなかったのだろう。 >>740
はるかぜ(コミバス)路線になっていたのかぁ。
はるかぜは平成12年位から運行開始だったはず。
当時やってた東武が、綾瀬駅−六ッ木都住線が対象になって、東武が名乗り出なかったのね。
わざわざ、越谷から来るのも面倒だろうな。朝日も。 >>741
池袋にポールを残しておけば、池袋〜群馬方面の高速バスは東武単独で
運行できたんだよな。
ポールがなくても、東武の敷地内にバス停作る分には文句なかったんだろうけど
誰がどう考えたって、デパートの店舗にして化粧品でも売っていた方が
もうかるわけだし 東武の群馬エリアでは伊香保経由で四万くらいじゃないかな、高速出して客乗りそうなのは。
本当なら沼田辺りは都市間需要があってしかるべきだけど前橋ですら・・・ 単純に関越が都心まで直接繋がってないから、時間が掛かりすぎて需要が見込めないだけでは
でも不思議なのは前橋も宇都宮も高速バスは微妙なのに、水戸だけは本数多いよね >>746
免許維持的路線を残してポールを維持していた西武が、
関越と首都高が外環挟んで直結する前から
新潟などあちこちに高速バスをだしているわけだが。
前橋・宇都宮に比べて水戸方面の高速バスが多いのは、新幹線がないからかも。
在来線特急相手だったら高速バスは所要時間でもそこそこ対抗できるけど
新幹線だと所要時間は太刀打ち出来ない。 高速バスに乗る客層っていうのは国鉄時代急行列車に乗るべき客が殆ど。
それなりの設備とほどほどの料金、フリーケンシーな本数と需要。
対都市間需要では急行あかぎ≦なすの<<<ときわ<アルプス
という感じ。
その次に>>747が指摘する新幹線の存在が出てくる。
ただ新幹線料金を払うとなると急行より割高になってちょくちょく乗れないので
本当にかぶるかどうかは未知数だと思う。
あと宇都宮や高崎・前橋は割合普通列車も充実していたので時間かかってもいい客は普通列車で移動していた。 >>747
免許維持的路線と言っても昔は宿20もまともな本数あったからなあ
そう言えば東武単独群馬路線だと下落合とか練馬駅とかには停まれないんだな
こりゃ不便だ 路線バスを維持しているから高速バスを運行できるとするなら西武の場合宿20もだが
練45の貢献が大きいと思われる。
ただ東武の場合その理屈では関越道に直接つながる目白通りに路線域を持てないので
川越街道を北上し成増に停めたと仮定して和光陸橋から環八に出て谷原に出るか、
外環の側道あるいは笹目通りから東上線近くの道を整備してもらった上で和光から乗るか。
ただ関越交通がやっているように下落合駅は無理としても練馬区役所なら止められるはず。
バスベイを区で整備した公共物とするなら構内権や排他的な占有権が発生する訳じゃないですし。
そもそも東武は箱根山戦争の時代でも西武とは直接対立していない。
野心のなさが上手い逃げ道を作ったようなもの。
もし西武がエリアガーって言う事があったとしたら西武と友好的だった上信電鉄を巻き込めば解決。
まぁ全部俺の妄想だけどね(笑)。 >>750
>バスベイを区で整備した公共物とするなら構内権や排他的な占有権が発生する訳じゃないですし
路線権とすれば生じるんだよ
そもそも路上の停留所なら私道でない限り国や地方公共団体が整備したものだろ?
公有地に乗り入れたり私有地確保すればそこに停留所作って自由に運行できるなら端から一般路線の存在関係ないわけだしな
>もし西武がエリアガーって言う事があったとしたら西武と友好的だった上信電鉄を巻き込めば解決
おいおい単独でって話なんだぜ
組むなら西武そのものでいいだろうよ 都心〜群馬方面の高速バスといえば、
新宿・練馬→関越道→本庄・伊勢崎
がJRバスがやってるけど、新宿じゃなく池袋起点なら、
東武がやっててもいい感じがする。 >>752日本中央バスが新宿〜高崎・前橋を運行していたような気がする。
板橋区にも営業所があるし。 >>738-739
国際興業さんに限らず、都市の路線バスは新規の鉄道路線開業で衰退する運命に
あるんだよね。国際興業さんは平成なってからも埼玉高速鉄道開業で路線再編
してるし、東武さんでもニューシャトルや最近ではつくばエクスプレスの開業
時に路線再編してるしさ。ニューシャトルが未開通なら、今頃、上尾駅〜
伊奈役場線は今の朝日さんの久喜菖蒲線並の本数が設定されてたりして。
また、伊奈地区も東武バスで継続だったのかも。 >>754
最後はどうかな
菖蒲の移管は森林公園同様に東武バスの分社化決定後だけらな
この2つは最初から運転手の希望退職数が多ければ移管するという予定だったし 尾久に昔の東武バスの写真がかなり上がってますね
柏営業所
千2い1178
千2こ・・43
千2こ・・70
千2こ・・81
千2こ・・82
千2こ・112
千2こ・114
千2こ・115
習志野22を・・35
習志野22を・113
習志野22を・115
習志野22を・129
習志野22を・489
千2こナンバーは1968〜1970年しか使ってないからこの間の新車か 野田営業所
習志野2え・・13
習志野22を・114
習志野22を・119
習志野22を・192
習志野22を・210
習志野22を・296 社番2932
習志野22を・492
習志野22を・522
茨22あ1050 中禅寺営業所
栃2い1894 社番5062
栃2い2030 社番5160
栃2い2235
栃2い2237 社番5394 川越営業所
埼2い3190 社番5512
埼2い3191
埼2い3192
埼22い・・32
埼22い・・33
埼22い・・34 社番5511 沼田営業所
群2い3194
群2い3225
群2い3737 社番5097
群2い4214
群22あ・219
群22あ・368
中之条
群馬22あ・・77 社番5075 今年で34になる俺だが、子どもの頃、菖蒲に住んでよ。当時、父・母と列車乗ってどこか
行くときは白岡までバスだったが、前扉の窓が4枚のバスが来ると嬉しかったな。もう少し
新しい型だと、前扉の窓が連続だったっけ? このスレのみんなも昔、前扉の窓が4枚の
バスに当たると嬉しかったかな? 東武鉄道は昔からの組合が強くて、バスも直営だった。
北関東から撤退したあと、残る地区を分社化して東武バスにすることも反対していた。
組合が言うことを聞かなかったので、埼玉の北部を朝日、川越観光、国際十王に移管しはじめて、最終的に全部移管すると会社が組合に言ったら、子会社の東武バスになる条件を飲んだとか。
もし、バスが日光を含めて、子会社に移管されていたら「東武バス」は過去のものになっていた。 正確には会社が東武バスが無くすつもりだと名言したわけではなく、組合が会社の意図に「気付いた」から
会社が名言してていたらとんでもないストライキが起きていた可能性がある 東武が北関東も東武バスにやらせていたら、東武バス群馬、東武バス栃木、東武バス茨城、あるいは一社で東武バス北関東になっていたかもしれないな。 一般家庭に自家用車が普及するのがあと30年遅かったら。とかかなり無理な前提を設定すれば東武北関東2(3?)県分社はあったかもな。
つーか、東武って地域愛に根ざすものが皆無に近いよな。偶々ビジネスやってんのが北関東ってだけで。 そもそも地域愛があれば北関東からそもそも撤退しないだろうが… 東武に地域愛あるとしたら日光だけだと思うよ
北関東で唯一東武バスが残ってるのが日光だし
群馬なんかはもう鉄道もイヤイヤやってるようなもんでしょ >>769 群馬から東武バスが完全撤退することが決定したあとも、自社の路線バスと鉄道の東武伊勢崎線が接続しないバスのダイヤでやっていたから、地域愛はないな。
足利市駅で改札を出て、東武バスで両毛線の足利駅に行こうとしたら、ロータリーから出て行くバスの後ろ姿。
あと五分発車を遅らせれば、一時間に一本の準急Aの上りと下りからのお客が乗れた。
本社に苦情を入れたら、バスの発車を3分送らせた。
桐生天神町〜東足利の末期ですでに、足利東武駅〜東足利の運転で1日数えるほどしかバスがなかった。
足利東武駅〜桐生天神町も日中一時間に2本はあったかも知れない時代。 首都圏から離れて久しいんだが、昔池袋西口って東武の路線バスが走ってたよな?
今池袋西口の東武路線バス(高速とか深夜バスじゃなく)って無くなっちゃったの? >>773
池袋に東武バスが来てたって、40年前にはすでに無くなってたんじゃないか?
あっさり撤退しちゃったから、後に高速バスが流行りだした時に
池袋発着の東武の高速バスを設定できず、日光・鬼怒川方面の高速バスが
新宿発で要町までしか近付けなかった。
東武線の特急列車がJR新宿駅まで直通するようになって、そのバスも廃止になったけどな。
池袋までのバス路線の免許を維持していたら、池袋〜群馬方面の高速バスを
東武単独で運行できたのにね。 そうだっけかな。東上線がクリーム色してて、JRが発足して山手線がステンレス車に変わる頃、昭和60年前後だったと思う
駅を降りると青の東武、緑の国際興業、その中間くらいの色の西武バスが走ってたよ
自分は国際興業バスに乗ってたので池袋駅発の東武バスに乗った事は無かったが… 戦後東武で池袋発着路線は元々、池袋駅東口−川越(市)駅、池袋駅南口−志木立教学院、池袋駅東口−竹間沢、池袋駅東口−成増駅と池袋駅−グラントハイツ(光が丘のあたりのアメリカ空軍の家族宿舎)
くらいじゃなかったかな。
末期は池袋駅−グラントハイツが分割され、
池41東武百貨店−練馬車庫
池42練馬車庫−グラントハイツ
実質池41が池袋発着の最後の東武バスではないかと。
昭和48年位に系統番号付いて数年でこの路線も消滅。
池袋から撤退したと思われる。
練馬車庫(出張所)は昭和53年8月31日廃止。(国際興業の練馬車庫あたり) >>774
関東バスと共同運行なのに池袋に入れなかったってのがよく分からんのよね
国際興業が拒否する理由もないし
富士急が東京の業者として新宿から長野県内へ高速バス走らせてるんだから
東武が池袋から高速バス出しても何も問題ないと思うんだがなあ
曲がりなりにも隣の区までは路線バスが来てるんだし
>>775
完全な思い違い
西武バスが西口に乗り入れたことないから >>777
関東バスの池袋乗り入れは国際と相互だし関東の一存で東武を乗り入れさせるのは難しかったんじゃね?と言っておく。
東武がヤル気があればその位のハードルは何とかすると思うが、そもそも北関東撤退は既定路線と思われ今更対群馬の高速路線を作る気は無かっただろう。 >>777
当時幼稚園児だったし、思い違いかな?
ただ池袋で東武、西武、国際興業の3色の路線バスが同じ視界に入ってた記憶は明瞭なんだよなぁ http://www.city.misato.lg.jp/6259.htm
ページの真ん中辺りにある東武バス。
これはBU?形式名がわかりませぬ。
非常口が真ん中にあるのね。 >>780-781
大昔の都営バスが白地に青帯だったから
それと勘違いしてたのかもよ。
濃い青色の東武に比べて、都営バスの青は物凄く淡い水色って感じだけど >>781
青白の時代だったよ
Wikipediaの「1970年代の塗色」とか紹介されている奴だけど1970年代に自分は生まれていない
水色ではなかったし、池袋が地元の母親が東武バスだと言っていたので都バスの間違いではないと思う >>784
むかし東武バス豊島出張所があって川越街道を走っていた。
当時、池袋にも乗り入れていましたよ。
1974年頃出張所が閉所になり撤退しました。 >>784
でも駅を降りると青の東武、緑の国際興業、その中間くらいの色の西武バスが走ってたというのは有り得ないんだよ
路線車の貸切でもない限り そしたらバス停があったわけじゃなくて通りがかったバスだったのかな
降りた駅は池袋で間違いないけど西口じゃなかったとか 池袋西口に西武バスは入ってこない
東武が東口に乗り入れていた記録はあるが青白塗装のずっと前の話
東武が練馬営業所を撤退する時には縞々塗装の大半が青白に塗り替えられていたはずだが
その頃には西口(南口)発着だけが残っていたので西武を含めた3社が顔をそろえることはなかった 東武バスの池袋東口ー立教学院バスは実際に見てます。 今のBIC本店からYAMADAアウトレット館
までの一画に映画館数並んでいた頃で、BIC本店隣のビル(地下に土風炉)の前から出ていました。
アウトレットの前からは国際興業の千川行が出ていて。
池袋西口に西武バス というのはン十年生きてますが確かに見たことがありません。
ところで、東武バスの桐生ー東京駅路線のルートをご存知の方居ませんか? >>792
大さっぱに言えば東京駅八重洲口〜日本橋〜後楽園〜巣鴨〜浦和〜大宮〜熊谷〜太田〜桐生〜桐生天神町
こまかい経由地や停留所、休憩場所などは自分もわかりません >>793
>>794
有難うございました。 リンク先のページ、凄いINFOばかりですね! この東京駅・桐生線のルート、
東武博物館まで出かけて直接確認してみようか とも考えていたので非常に助かりました。 >>794のリンク先のデータだけど国道17号戸田橋〜県庁裏〜桜木町〜宮原一丁目は戦後まもなくには開通しているので
浦33と被るのは確かに宮原一丁目以北になるんだけど
昭和37年に現在の17号、宮原一丁目〜吉野町インター〜上尾市役所〜現在の鴻巣警察〜の間が完成している
その時点で鴻巣までは旧中仙道は経由しなくなったので浦33や大51との重複はないはずなんだがその後も鴻巣ではわざわざ駅入口に寄っていたのだろうか?
熊谷の休憩場所は駅横の操車場なのか?それとも妻沼方面の乗り場に着けた状態で開放していたのか? >>792
池袋駅南口−志木立教学院は国際興業もあったような。
共管路線だったのかな?
あと長距離急行バスは東京−野田・下妻・境方面は昭和42年3月20日廃止
東京−桐生は昭和47年7月26日廃止(46年8月9日から休止状態)
>>795
東武博物館の図書室って友の会会員じゃないと入れないのではなかったっけ?
東武の社史見ると昭和40年5月1日 池袋発着便を東口から西口に変更
と記載有。(西口変更=東武百貨店になったのかな) >>797
志木立教行ですが、私の記憶では東武だけだったです(1961−66くらい)ただ、発車待ちをしている
バスを早朝目撃しただけですから、他の時間帯に国際興業バスが動いていた可能性は否定できませんね。
乗車場にある時刻表を一度見たことが有って、一日あたりの本数がやたらと少ないことに子供ながら驚いた
記憶があります。
それと東武バスの池袋発着・東口から西口変更の件、東武デパートも変更理由かとは思われますが、
池袋ショッピングパーク(ISP)が完成したことによって、それまで東武バスが使用していた島式発着場が
消失したことも大きいのではないかと。 大昔現在のヤマダ日本総本店の正面前に3本の島式発着場
(この呼称で正しいでしょうか)が存在しており、都バス・東武バスが使っていました。 現在、ISPの
地下駐車場に向かう入り口の辺りです) >>798
その頃は都電も走っていましたからね。
「よみがえる東京」という書籍に白黒ですが、その頃の池袋駅前(東口)の写真が載ってます。
「昭和40年代バス浪漫時代」という書籍に、カラー写真で昭和41年池袋駅西口での
東武バス写真が載っています。(前面表示幕が池袋駅南口東武百貨店)
昭和39年に発行された、「全国バス路線便覧(昭和38年3月31日現在)」という書籍があるのですが、
そこには、池袋駅東口−志木立教学院は東武バスが運行回数が1日10回、
池袋駅南口−志木立教学院が国際興業バスが運行回数が1日10回と掲載されています。
東武が東口で国際が南口(西口)のようです。
ただ、国際は池袋駅−志木駅も当時あったようですが、志木駅行きは池袋駅東口発だったようです。
その書籍上の東武バス池袋駅発着路線は川越・志木立教学院・成増・グラントハイツ(光が丘あたり)
の4路線が掲載されてました。
その後、西口起終点変更されたようですね。 >>799
そう、都電も動いていた時代です。 お教えいただいた2冊、早速チェックしてみることにします。 「池袋駅南口」という表示、
と言いますか、南口というのは大昔に目白駅側に存在した高架道の出口付近を指しているんですよね 今は余り使われなくなって
しまった呼称、懐かしいです。 その南口から国際の志木立教行が出ていたとなれば、私が見かけなかったのも当然ということにw
ひとつ分からないのは、その「南口」のどのポイントがバスの発着点だったのか?と。 現在だとみずほ銀行からESOLAに通じている
車道のどこか、ということになるのでしょうか? 昭和39年であれば、既にバラック街は撤去されており、現在と概ね同じ街・道の
造作だったと記憶しています。 今の芸術劇場・池袋西口公園は一面の野原で、大きなバッタが取れたりしましたw >>800
youtubeに
昭和29年「池袋」 駅前、ヤミ市、映画館、ガード、商店
という動画がありました。
静止画を連続させた動画ですが、
池袋駅東口のバス乗り場の雰囲気は伝わりました。 >>801
そうです。画像にも残されてますね。西武側は西武百貨店の確か2Fに改札が有りました。
この昭和38年の方の画像、今のBICカメラ本店の前辺りの車道に白くて長いバスが2台、
そのちょっと先にも2台見えているようです。私が>>797で触れた島式発着場が在った
エリアはISPを作るための工事中であることが見て取れます。
>>802
凄いものがw 0:54辺りで観れる映像(左上にシルヴァーナ・マンガーノと書かれた
看板)、これが今のBICカメラ本店前付近となります。中央の電信柱(産婦人科)の
右側に白くて丸いものが〜これがバスの発着場のポールです。1:06で観れる映像も
大体同じ箇所ですね グリーン系のバスは国際? 3:28の左下に見えているのが島式
発着場です。 >>803
グリーン系のバスは国際?
→ボンネットの都バスじゃないですかね?
(その横の黄色オレンジ系のバスと手前の木に半分隠れた軍用バスっぽいのも気になる)
薄緑系と灰系のツートンで細めのオレンジラインが2本入っていて、
2本のライン間に「東京都」と書かれてると思います。
また、昭和末期の東武東上線みたいなセイジクリーム塗装の都バスもあったようです。
「昭和30年代バス黄金時代」という写真集(書籍)を参考に。
東武バスもグラントハイツ行きのバス写真が載ってます。
池袋のこの時代だと都電もそうですが、トロリーバスもいたと思います。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています