昔の東武バスを語ろうよ!3
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高校の時、スクールバスに乗るのに何故か東武の定期券が必要だった
スクールバスが3台しかなく、全員登校するには路線にも振り分ける必要が
何か無駄にカネ払わされているような気がしたけど、
趣味的には色々な車両を楽しめるので良かったかな >>592さん
中扉引戸ツーマンは昭和40年に都内営業所から配属され、以降原則的に上尾以南の埼玉と東京に配属されました。
熊谷にも引戸が在籍していたのですが、川越あたりからの転入車の可能性もあります。
昭和40年はいすゞの川重車体がモデルチェンジ、いすゞシャーシ自体もビッグマイナーチェンジした年ですが、
旧タイプの丸型も引戸は練馬に存在しました。
ツーマン車の移籍ですが、過去レスによると岩手県南バスの他に南部バスにいすゞ、函館バスに日野、
また四国の貸切事業者にスクール用としてどちらかの移籍車があったそうです。
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/bus/1277988201/742
他に自家用スクールとして埼工大(埼工大深谷高校?)と成徳深谷高校に日野RB120が移籍しています。
>>594さん
これも過去レスにありますが運賃20円が30円に値上げになったそうです。
昭和30年代には5円単位の運賃が存在していたようですが
昭和40年代にはなくなっていてその結果いきなり1.5倍になった訳です。
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1187201954/784
OBさん・・・このスレにお戻りになってください。お願いします。 >>597 情報ありがとうございます。
昔のバスの写真集で中ドア引き戸のツーマン仕様のいすゞ車が池袋駅西口ロータリーを走っている写真があって気になっていました。
あと、高崎経済大学の大島先生の本だと、群馬県内はワンマン化に際して前後ドアの日野のワンマン専用車を導入して、他社のように中ドア車に前ドアを増設してワンマンバスにした車両がないとあったので、気になりました。
水上とかにいた、トップドアのツーマン車はワンマンの機械を設置してトップドアのワンマンバスになったと思います。 >>598(592)さん
ワンマン改造事例としては上述
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1187201954/784
にて大宮(吉野町)で2両試作した時点で終わっているという事ですが、
帝国車体の日野RB120のワンマンは新製配属された草加・前橋・大宮以外にも存在しました。
草加の車両が転属した可能性もありますが熊谷駅に姿を見せていたという情報がありました。
(熊谷駅に姿を見せる日野車は太田と本庄(深谷))
またこれとは別に昭和50年に大宮から社5023が本庄に転出しています。
こちらも日野RB120ですが、富士重車体です。
トップドアですが、昭和43年「度」と46年以降のグループに分けられ
43年「度」車はツーマンのまま除籍、46年以降の車両は最初からワンマンです。
43年「度」の車両は富士重でも3Eではなく前世代のR13バス窓です。
尚、この43年「度」車は平地のツーマンとは異なった形状を持ち、
フロントウインカーがゲンコツ式ではなくバス協埋め込み式、
前方向幕横のマーカーがないという44年度の仕様になっています。
また社番も5300代末、日光にデフォルト配置されたナンバーも栃2い2200代と
44年度のようです。
資料を見ると東武にツーマンが導入されたのは43年度までとなっていますが、
納期が遅れたか何かの理由で44年に納入されたのでしょうか。 東武バスいつ頃まで、車掌さんが乗務されてましたでしょうか?
伊奈役場ー大宮駅まで、路線ありましたでしょうか? 前中扉、前後扉、どうして地域ごとに分けちゃったんだろう。
この辺も効率よくしとけば発注時点でのコスト抑えられただろうに。
なんか趣味的にはともかく東武っていくら何でもこれじゃ非効率すぎるでしょ、ってことをしばしばやる会社だったよね。 昨日、葛生に行って来たけど昭和54年の時刻表を見ると東武バスの路線が2系統あるね >>602
前中扉は前のり前払い
前後扉は後のり後払い
埼玉県北や群馬だと都内からの転属車があったから必ずしもこの通りではなかったけど、基本はこんな感じ
前中扉は前のりだから側面方向幕も前扉の横についてる
他社で後のりで前中扉を採用してる会社でも側面方向幕の位置は違っていたりした >>604
国際興業なんかは側面方向幕は前中扉間だったね
運賃箱の設定と出口入口は転属や均一区間かどうかで設定を変更したりで
前乗り中降り運賃先払いでも中乗り前降り整理券制でも、整理券発行機用のスペースを確保するかどうかの差異はあるにしてもほぼ同一仕様で入れられるはずなのに入れられなかったあたりがやっぱり東武らしいといえば東武らしい 国際興業はもともと中扉上でしょ
冷房車以降はダクトの関係で車掌席?中扉後ろに
U-LVの2世代目でようやく前中扉間になった 昔の国際興業は東武と逆方向に割り切り過ぎ。
前乗り中乗りどちらもある神奈中なんかが前中扉間に設けたりしたこともあるのと対照的に、中扉より後ろ側か中扉上部にもあったり。
どうせ転属で中乗り地域に行ったり、両方やる営業所もあるだろうくらいの発想だと。 8000番台で初めて都内仕様を作ってみたくらいですぐやめたからな 群馬バスの昔の写真を見ると、前後ドアで後ろ乗り前降り運賃あとばらいなのに、前ドア右横のすぐのバス窓に側面方向幕なんてのもあったな。
移籍車の場合、側面方向幕を移設改造しない会社もあるからな。
関東バスから上毛電鉄バスに移籍した3ドア車も側面方向幕を移設しなかったし。
LED化されても、前乗り中降り運賃先払いの会社から中のり前降り運賃後払いの会社に移籍してもそのままの会社(宮城交通、岩手県交通など)が今でもあるのは改造費の節約か。 前後扉はなんかあか抜けない感じがした。
前中扉やトップドアにはそんな印象ないが。 前後扉は関西には多かったけど関東は少なかったな
まあ、低床化でどこも前中扉に… 群馬県だとワンマン化するときに、大量に前後ドアの日野車を入れて、中ドア一枚やトップドアのツーマン車と入れ換えたようだから前後ドアのバスが多いような気がする。
後ろドアの後ろの柱には車掌用のドアスイッチが付いたバスがあったし、前後ドアの車掌乗務の運用もあったんだろうな。
後ろドアを締め切りにして、前ドアでトップドアのツーマン車同様に乗り降りさせたとか。
他社で前後ドアのバスでツーマンで使うときはそうしたし、車掌さんはドアステップに立ち、肉声でバス停案内、ドアの開閉は運転手さんがしていた。 コスト考えない東武らしい仕様の極みは、やはり大宮、天沼、西上尾にいた3扉車かもね
料金先払い路線では、前乗り中降り
料金後払い路線では、後乗り前降り
両方の路線で使えるように3扉車にしたんだからな・・・
でも面白いのは同じく前乗り路線の北本団地線があった菖蒲出張所には3扉車の配置がなかったこと
前後扉車で前乗り後降りをやっていた
この時期の菖蒲は新車が配置されない営業所だったせいかもしれないが
太田や前橋に転属した3扉車は中扉は閉め切りになっていたな >>612
関西は色々特殊だったね。
ノンステップの時代まで前後扉にギヤもODなしでトップがギヤ比1.0の加速型で。
前後扉に無理やりこだわっていたのは本当に謎だったけど、ギヤ比に関しては高台の新興住宅地が少なからずあったからか、と。
ただ特殊な仕様が祟って、中古にするとちょっと相場より安くなりがちっていうことはあったらしいけど。
>>614
メーカーに三扉なら前乗り中後降りか、中後乗り前降りならなら理解できるけど、それは三扉車の間違った使い方みたいにいわれてもそうやったというからよっぽどだよね。 関西は均一区間の路線でも後払いが多いから、詰め込みがきく、前後ドアの採用になったのだろう。
前中ドアだと、入口の中ドア付近にお客がたまって、動かないから、中ドアより後ろの立ち席スペースが空いている。
ノンステになって、入口が中ドアでも前ドアでも、ノンステの部分の前中ドアの間に、立ち客が滞留しているからなあ。 >>616
とはいえ、中乗りのほうが一段あたりのステップが後乗りより段差が低くなるし、つり革や握り棒など捕まる場所を確保してアナウンスで誘導すれば滞留にも十分対応可能。
だけど、関西公営や東武はアナウンス対応を極度に嫌ったゆえの後ろドアかも。 学生の頃は東武と国際興業を利用してたけど
東武はドアが完全に閉まらないうちに発車する感じだったな
あと、国際は駅などの終点でエンジンをかけっぱなし、東武はマメに切る
時々国際でエンジン切ってる車を見ると異様に感じた >>615
今みたいに前中扉しか無くて前乗りか中乗りの選択しかない時代ならともかく、3つあるドアの使い方位ユーザーの考えでいいじゃん。と言いたくなる。東京城西に縁の薄かった俺はKNK関東乗合が前乗り後降り(えっ?中降りじゃないのかよ)なのには相当面食らったけどね。
東武の3扉には側面幕が2つ付いていて、照明が白熱灯(2扉車は蛍光灯)な所に東武のケチ精神が遺憾なく発揮されていて苦笑した。 関東バスの3ドア車の場合は、前入口、中終点のみ出口として開放、後ろ出口。
関東バスは後輪で下車したお客を巻き込まないためということらしい。
3ドア車の初期車には、中ドア後ろに車掌台(車掌さんのスペース)があって、ツーマンの時は前後ろ締め切り、中ドアのみで車掌さん用のマイクとドアスイッチ、連絡用ブザーが付いていた。(関東バスの本を見てわかった。)
京王バスと西武バスの3ドア車は、前中車と同じで前入口、中ドア出口、後ろドアが終点のみ出口だった。 東武バスの大宮地区にいた3ドア車が前橋営業所に移籍してきたけど、中ドア締め切り、後ろのり前降りだった。
二つある側面方向幕は、後ろドア前はしっかり幕がはいっていたけど、前ドア後ろは、幕を取り払って中身が丸見えか、白幕だったような気がする。
後ろのり確定だし、ケチな東武じゃ廃車になった前後ドアの方向幕を再利用しているかもしれないし。 東武バスの3ドア車
先払いのときでも
北浦和と上尾駅西口は
朝の混雑時は3ヶ所
全部解放して客を
降ろしてた
それ以外は中ドアと後ろドア
の2ヶ所が終点での出口だった 関西系と違って東武は後扉も折り戸だったから
停車・出発を焦っている感じはある >>621
転属してきた車両は代替で廃車等になった車両の方向幕が載せ替えられてた
95年式以降は側面幕が大型化されたから流用出来なくなったけど 大宮地区の3ドア車は、乗車時に運賃を支払う、申告制だったな。
東京ベイシティ交通と同じ。
前出だけど、前払いだと終点の駅で3ドアを解放して下車時間を短縮するため。
磁気式のバスカードが出たあたりで、3ドア車も後ろのり前降り運賃後払い整理券方式になった。
東北本線の土呂駅開業前は大宮駅〜メヂカルセンター?が3ドア車だった気がする。 >>601
東武バスが全路線ワンマン化されたのは昭和56年4月。
伊奈役場〜大宮駅(駅前通り)間は昭和40年代中盤頃まではあった。
上尾車庫〜六道〜伊奈役場〜東大宮駅〜導守〜大宮駅前通り
途中小室志久〜東大宮駅間の経由が南平塚・砂団地から志乃崎・原市団地入口に変更されていたらしい。
ツーマン末期は東大宮駅で切られていて昭和54年頃まで運行されていた。
>>602
前後扉のメリットは座席数の確保と流動性・乗車効率の良さ。
前中扉の場合中扉から後ろへの立席客の効率が悪く、中扉が引戸の場合座席数が少なくなる。
1980年代前半に内輪差による巻き込み事故が問題化した際もホイールベースより後ろの後扉設置は安全性が高いと評価されていた。
逆に前中扉のメリットは中引扉の設置が容易で降車が早いのとツーマン兼用が容易な事か。
西武・東急・京急は1960年代〜70年代初頭に前乗り前後扉を導入したものの前中扉との整合性などから
前中扉に統合され、関東は3扉化の上で後扉降車を行っている。 >>605他
国際興業は都内と県内の異動が多い。前乗り先払いと中乗り後払い整理券方式が混在するのは川口と練馬のみ。
ただその国際興業でも都内仕様と埼玉仕様があって転属時は車外マイクの位置などの調整が必要だった。
中扉上に方向幕があったのはツーマン時代の名残のようなもので大抵の事業者は昭和40年代前半まではその位置に設置されていた。
国際興業の幕位置は昭和52年にサブエンジンクーラー搭載のBU04(5000番台)が登場した際に車内冷気吹出口と方向幕が干渉する為
車掌台に移動した。その後CLM470にモデルチェンジした後の56年まで冷房車と非冷房車が並行し、
中扉の戸袋前に設置されたのは平成3年から。
>>613
東武以外の群馬県内の初期ワンマンはツーマン使用の可能性が低いあるいはほぼない場合、早めに前後扉に移行した経緯があり、
前乗り先払いの前後扉車が存在した。整理券方式に移行する際に方向幕を移設したものの殆どの車両は撤去跡が残っていた。
群バスの他、上信にも多数そうした車両が存在した。 >>614
三扉車の登場は昭和57年。当初は兼用とせず後扉前の方向幕は装置が入っていない車両が多かった。
まずは置き換え対象が43〜46年式の前中扉車で導入時期から47年以降の前後扉が対象にならなかった。
北本団地線が前乗り先払いだった理由は開設当時担当が西上尾で菖蒲には後に移管されている。
単区間なのでそのまま引き継いだと思われる。
>>617
国際興業では朝の学生ラッシュやギャンブル輸送、後のJリーグ輸送などで何度も運転士さんがマイクで後ろに詰めるよう諭しても、というのは何度も見た。
ただ、昭和60年式のLT(1013〜)のように中扉より後ろを左右両方とも二人掛けシートにした(実質立席がほぼ取れなくなる)車両も存在したが・・・。
>>625
中型(RJ)の導入が平成8年なので以前はすべて大型車で運行されていた。
採算性の問題もだけど植竹は道路事情もあまりよくないので中型固定はやむを得ないのかも。
道路事情と言えば別所団地を含めた宮原西口発着系統は完全中型化すべきじゃないのかと。
朝夕の別所団地線はそれなりに乗るが駅出て右折〜新大宮バイパスまでの道幅は大宮からツーマンで来ていた時代と変わってないはず。 国際興業は、整理券発行装置の自動放送テープで、「整理券をお取りください/要りません」の後に
「危険物の持ち込みはお断りします」などいくつかの案内パターンがあったが、そのひとつに
「中ほどへお進みください」的なものがあったような気がする 東武が大量に中型車を入れた平成8年度は各地で混乱を引き起こしたな
大型の本数そのままで中型を入れたもんだから、積み残しが発生するような路線がいっぱい出たと聞く
結果的に中型車は予備車扱いになっていく所が多かったような
運転士にとってもはじめてのフィンガーシフトの車両で最初は慣れずにスムーズな変速が出来ない事が多かった 他社の話で、東急の場合、中ドア折戸のツーマン専用車を大改造してワンツーマン車にしたな。
前ドア増設、中ドア引き戸改造で中ドア上と後ろの方向幕はそのままで、前ドア入口脇に、サボで経路表示をしていた。
そのうち、中ドア上と後ろの方向幕を鉄板で覆ったり、車体更新時に撤去して1980年代位の非冷房の新車まで、前のみ方向幕、横はサボで表示していたな。
営業で入国回送するバスで、正面は表示していたけど、営業所行きのサボをバスに積んでいないと横はサボなしだった。
目黒営業所が三軒茶屋線に中型専用車を入れたころから、前ドア横と後ろの方向幕が復活して前横後ろが連動するようになって、バス正面の系統番号サボも廃止になった。 30年以上前に、前橋駅から赤城山大洞行きがありましたよね?乗りたかったなあ(*^□^*)。 何年か前、越谷市の統計年報(確か1980年のだった)を図書館で見たときに七左→川口という片道路線を見つけたけどこれは昔あった越谷ー川口の出庫便ということでいいのかな?
ちなみに片道一本だけでした。 前橋駅〜赤城山大洞は、前橋営業所の中ドア増設の元貸切車が使われていたな。
桐生営業所にも元貸切車の路線バス車両がいて、桐生市内や桐生天神町〜東足利とかで運行していた。
太田営業所にも元貸切の路線バスがいたけど、太田駅〜熊谷駅線にはいることがなくて、熊谷駅〜桐生ボートの公営ギャンブルのバスに使われていたな。
埼玉県内が混雑するから、つり革のない、通路の狭い元貸切車を使わなかったのだろう。 赤城大洞
末期は前後ドアの
ブルーリボンが専属だった
有料道路の無料化で
運賃の改訂があったので
運賃表の端に
赤城線使用可
って貼ってあったのを
覚えてる 三郷市HPの「三郷の今昔」の中に懐かしい車両が。三郷駅前に停車するのはBUかな?
http://www.city.misato.lg.jp/6259.htm >>631
東急の場合廃業した金華車体等深い取引関係のあった車体メーカーがあった事、
新車メーカーも常に競合状態であって大規模な改造を引き受けざる得なかったという経緯があった。
中折扉ツーマンを前中(中引扉)ワンマンに改造するにあたって側面の三分の二を切り取る大手術を施工した。
東武の場合は自社羽生工場と系列の足利自修、三進自動車で殆どの工事を賄えたが
前扉スタンダード貸切(乗合と同じバス窓のロマンスシート車)の前扉を塞ぎ中扉を折扉で新設した例や
昭和50年代半ばに1両だけ三扉の試験に前中扉に後扉を増設した例がある。
ワンマン改造でごく一般的な中引扉ツーマンに前扉増設も行っているが過去レスによると不調の為数台で中止し
早期にワンマンと置き換えすることになった。 >>633
赤城大洞自体はまだ停留所はあり今でも前橋から行く事は可能。
但し東武時代と周囲の雰囲気は変わっている。
>>634
七左町まで回送となると越谷営業所からどんなルートで来たのか興味深いところ。
現在朝日が運行している越谷〜岩槻間の荻島小学校止まりのような形と思われるが・・・。
>>635-636
前橋には一部に普通の前後扉車に補助椅子が付いた車両がありそれらの車両が赤城線に従事していた。
貸切格下げ車が青白塗装に塗り替えられ登っていた時期もあった。
青白塗装でかつ短尺である46年以前の非冷房車(RC300P改)となると前橋と鬼怒川にはいたものの他では見られなかった。
青白塗装の冷房車(47年以降のRC320P)は渋川や下館にも存在した。
>>637
最近は自治体の広報で古い写真を公開したり地域史を得意とする出版社によって古い写真が掘り起こされたりで眼福。 >>633さん
前橋駅〜赤城山大洞線、ありましたね。私、20年ほど前に前橋で100円運賃を始めるというニュースを聞いて、乗りに行ったときにもこの路線が
東武バスで残っていました。元貸切車を2扉に改造した車、懐かしいです。
>>635さん
太田〜熊谷線は昭和の時点でも結構、需要があったのですか? ちなみに、この系統、30年前には日中でどのぐらいの本数だったのでしょうか? >>643 東武バスの太田駅〜熊谷線は1983年ころは、朝5時台で熊谷駅行きが4本〜5本で熊谷駅から東京への通勤対策たみたいだ。
熊谷駅から太田駅の終バスは曜日関係なく22:00だった。
太田駅〜熊谷駅の日中は一時間に3本ぐらいで、西小泉駅〜熊谷駅は朝夕の運行だった。
1983年6月に鉄道の東武熊谷線が廃止になって、急行運転のバイパス経由の熊谷駅〜妻沼(現ニュータウン入口が日中一時間に2本くらいで、昔からある太田〜熊谷線の妻沼発着便が消滅しました。
鉄道の代替バスは太田営業所〜妻沼を回送で運転されていました。
無冷房車に「急行 鉄道代替バス」の鉄板のヘッドマークというか、プレートがついていました。 >>644さん
ご教示ありがとうございます。昔から、熊谷駅〜太田駅間はメインルートだったのですね。では、この系統と熊谷駅〜妻沼間の急行バスはこの頃から
朝日バスに移管されるまでの間に本数の大きな増減はありませんでしたか? >>646 私が群馬県太田市に住んでいたのは、1983年4月〜1987年3月の大学在学中なので、東武バスから朝日自動車に急行熊谷駅〜妻沼線に関してはリアルタイムでは知りません。
高崎経済大学の先生の本や、バスファンのサイトを見る限り。
朝日自動車太田営業所が開設した当初は、太田駅〜熊谷駅と西小泉駅〜熊谷駅、妻沼聖天前〜熊谷駅のみの担当で、
東武バス熊谷営業所が存在している期間のみ、急行妻沼ゆきのみ東武バスが運行していたようです。
東武バス熊谷営業所が国際ハイヤー(今の国際十王交通熊谷営業所)に移管される時に、急行妻沼線が朝日自動車の太田営業所に移管されて、バイパス経由も急行運転から途中バス停を増やして各駅停車にしたとか。
大学時代は一年生の時は「飯田」バス停に近い学生寮(現存せず)、二年以降は、歩いて10分位の所に両毛観光の太田営業所があるアパート住まいでした。
両毛観光が国際十王交通に吸収されて、両毛観光の太田営業所が、朝日自動車の新太田営業所があると、ウキぺディアの記事で知りました。
長文失礼。 >>635
熊谷太田線も今じゃ中型車で間に合うもんな >>648 東武バス熊谷営業所太田出張所を閉鎖して、朝日自動車に移譲して、朝日自動車太田営業所になった時点では、日野のRJとUDの富士重ボディの中型と、中型バスしか配置されなかった。 太田移管当時は朝日も余裕あったから、中型とは言えほぼ全車新車で入っただけでも十分すごいけどね
東武時代はあちこち玉突きされまくったようなのしか来なかったし・・・ 最末期は熊谷の出張所扱いになったから、全車熊谷ナンバーに付け替えたのはある意味壮観だったが。
越谷の出張所になった境もだが。川向こうで、県も違うのに春日部ナンバー……… 群馬県内の東武バスの営業所は日野のメーカー指定で、富士重工が伊勢崎にあった関係で、富士重ボディの日野車がいたな。
太田営業所も日野だけだったけど、熊谷営業所の出張所になる前に一台だけいすゞ+川重のBUかCJMがいたのは、熊谷営業所の車種指定がいすゞだから、先行して運転手さんになれてもらうためだったのかとおもった?
あと、印象があるのは都内から移籍した前中ドアの日野車。側面方向幕を移設せず、前ドア横のままだった。
他社の話になるけど、宮城交通も移籍車は、極力改造費を押さえるためか、中乗り前降り運賃後払い整理券方式なのに、前ドア横に改造せずに残っているし。 >>647さん
いえいえ、昔の熊谷太田線を知る方の貴重な話を聞けただけでも幸いです。2回もわざわざ、誠にありがとうございます。
>>652さん
都内の営業所流れの前中扉車、新車が入らない営業所管内を中心によく見ましたね。私は子どもの頃、菖蒲に住んでいましたが、97年頃まで前中
扉車が走っていました。以前の東武バスの広域転配を象徴する光景でした。 既に、前の方に書いたけど、前橋営業所に大宮地区にいた3ドア車が移籍して、中ドアを締め切りにして使っていました。
同じ頃1988〜89年に上毛電鉄バスが日産ディーゼルの非冷房車の元関東バス(東京)の3ドアを中古で一台だけ購入しました。
方向幕は廃車になった、前中ドアのUD車の物を使っていたようで、後ろの方向幕と、正面の右側にある系統幕は関東バス時代のまま?で白幕表示。
側面方向幕を移設せず、前ドア横のままでした。
前橋駅〜前橋病院線で使われているのを前橋駅前で見ました。ちなみに群馬テレビの入社試験日だったので覚えています。 >>97 1987年、久喜から熊谷(籠原)の友人の家に行くときに、菖蒲乗換えで白岡に出て高崎線に乗り換えた。
帰りは夜遅くバスも無いだろうと思い大宮回りで帰った。
一度きりしか乗らなかったので経路は全く記憶していない。
1987年の時点では菖蒲で分断されていた。
乗り換えの待ち時間も一時間とかそんなに長くなかった。 >>657 桶川かもしれない。かなり昔のことではっきり覚えてないから。
1987年だとまだ、宇都宮線側の久喜駅前のロータリーが狭くて、東武バスがターンテーブルに乗って方向を変えていたな。
反対側(東武伊勢崎線の方)は広場があって、東武バスと大和バスが来ていた。
団地の名前は忘れたけど、東武バスの終バス後、乗り合いタクシーがその団地まであって、タクシー会社か団地の自治会か乗り合いタクシーの運行を支援する住民と思われる、おばちゃんが手売りで乗り合いタクシーの切符を売っていたな。 まだ菖蒲に東武バスがあった頃、菖蒲仲橋で運転手さんが終着したバスを降りて、無賃乗車しようとしたとみられる若い男の人を追い掛けてるの見たよ。
今となっては、さすが東武だなという感じだけど、東武バスの運転手さんがお金払わずに降りたとみられる客を追い掛けたの見たことある人いる?
私、この後は見てないけど、菖蒲仲橋は交番があるので、もし、捕まえたらこの追い掛けられた人、交番に突き出されていたのかね? 終点でもないと、なかなかバスに客を乗せたまま追い掛けられないんじゃない?
料金が足りなかったのか、降りちゃった人に大声で呼んでるのは見たことあるけどそのくらいかな
聞こえなくても追い掛けるまではしなそう 消防の頃途中停留所で30mくらい追いかけられたことある
100円玉だったと思ったら50円玉を出してしまって
運転士に追っかけられて財布の中見たら確かに50円余計にあった
すみませんって謝って50円渡した
その間バスはエンジンかけっぱなし客も乗せっぱなし
今から思えばそっちの方がヤバくね? >>660さん
>>661さん
レスthx! やはり、終点以外で運賃払ってない人をドア開けたまま追い掛けるのは、他の乗客の方々からみても「さっさと発車しろ!」となりますし、
これ隙にと運賃払わずに脱走も可能・つまりはまた新たな無賃乗車を誘発してしまいそうですよね。
この間、東武バスに乗りましたが、運転手さんは逐次、「左曲がりま〜す!」などとアナウンス・降りるときもきちんと、「ありがとうござい
ました」と言ってくれて、もはや、往年とは様変わりしていました。やはり、東武バスさんも接客にも、意識改革したのですかね。 >>662
余計な意識改革の裏で、
マイクに気を取られすぎのヘタクソな
運転手も増えたのと、身勝手な客も増えた。 >>663 東武バスだけじゃなくて、全国的にそんな感じ。
無愛想で運転が荒い、テクニックがある運転手さんはみんな定年退職しました。
年齢的に、ツーマンから全路線ワンマンに変わるのをリアルタイムで体験した人たち。
あるバス会社のOB運転手さんが教えてくれたのが、
「運転が荒いと、お客も身構えて乗るから、車内事故がすくないんだ」と。
確かにその運転手さんが現役時代にいた営業所は同じバス会社の他の営業所より運転が荒いなと、子供でも感じたし。
座席は深く座り、手すり、つり革はしっかり掴む、お客も自然と身に付くなと。 東武だと熊谷や加須以北のラインと、東松山や上尾以南の地域で平成以降も運転手の走り方に差があったなぁ
以北は60km以上でかっ飛ばす運転手が多かったけど、以南は空いてる道でも40kmぐらいでまったり走らす運転手が多かった
このラインって新車が入ってたラインとも一致するけど、社内でも何か差があったのかね >>665
単に走行環境による部分が大きいのでは?
上尾や天沼では飛ばしたくても飛ばしようがないし。
しかし菖蒲は環境的には飛ばしやすくとものんびりしたイメージがあった。
熊谷は乗降の少ない県道クラスの道では確かに飛ばしてた。 一応労働組合のグループは分かれていたね
北部地区は晩年までワンマン化反対してた 高崎経済大学の先生の本で、前橋駅〜渋川駅〜沼田の路線がツーマンからワンマンに変わった時に、ラウンドダイヤが崩れ、日中の沼田直通が減り、渋川乗り換えが増えたと。
群馬地区の組合が強くて、ハンドル時間(運転の拘束時間)、ワンマン手当てと揉めに揉めたらしい。
その結果、前橋駅〜渋川新町は残ったが、渋川〜沼田が大幅減便。
関越交通に移管されてたあと、渋川〜沼田が今はあるかどうかわからない。 >>669
かといって行き過ぎた資本関係者優遇と声だけは大きい肉屋を支持する豚が跋扈した結果が今であって >>664
ワンマン化の過程で、運転士の立場や給料を良くするために車掌兼運転士みたいな位置づけにしてワンマン化した会社は当初からマイク使いまくりだったな。 >>671
そういう待遇をした事業者もあったのかもしれないが、運転手マイク放送は、テープ放送機器が設置されなかったので嫌でも喋らなければならないケースがあったのも事実。
東武はどうだったのか知らずのレスで、すまん。 東武は直営時代にマイク使ってる運転手居なかったし
当時の組合の強さからして、恐らくワンマン化の条件としてテープ放送機器取り付けを条件にした可能性 東武バスの熊谷営業所にUD+富士重ボディの中型が何台かいた。
その前のツーサイクルエンジンのUDのバスは、バスラマの記事によると、上尾市に日産の工場がある関係で前中ドアの大型バスを入れたと書いてあった。
あとにも先にもUDの大型は試験的に上尾営業所に入れたバスだけだと。 あのテープって、間違って2回押しちゃったら巻き戻せるの? 最近でも川越観光が富士重工線に富士重工車体のを専用で入れてたけど今は普通のエルガミオになってるね >>679
音声合成の今のは停留所名をもう一度クリックすれば大丈夫な筈。
8トラ時代は結構面倒らしくやってるのは見たことが無い。 今だったら電子化されちゃって大したことないけど、
アナログ時代の装置類の連動はすごいよね
整理券、運賃表示器、方向幕、音声放送と
整理券発行機もしゃべるやつあったし >>680
富士重工線ってスバル撤退後もやって行けてるのかい? 東武バスの車内車外アナウンスのテープがどういう順番で録音されていたかわからないけど、静鉄バスは次のような感じだった
@このテープは※※線※※経由※※行きのテープです→バス停通過スイッチをおす→Aお待たせしました※※※線※※経由※※行きです。(整理券をお取りください)→B始発の場合、系統番号、路線名経由地行き先をいったあと、次は※※※※です。
バス停でバスが止まりドアが開くと、下車のみで出口だけでもAの放送がながれる。バスがドアを閉めて発車すると関知するシステムがあるのかBの次は※※※と流れる。
バス停を通過する場合は、バス停通過スイッチをおして、車外アナウンスの部分を飛ばす。 >>683
スバル車作ってるのって群馬工場じゃないのん? >>685
川越観光は群馬走ってないじゃん
川観の路線は旧富士重工埼玉製作所へ行く路線だよ
ここは汎用機器製造してたけど去年撤退しちゃった 川観の富士重工線っていわゆる半公営路線だからなぁ
赤字でも問題ないはず 朝日自動車の路線バスの方はMT車まだ残っていますでしょうか? 群馬県の東武バスは8トラテープを使っていたな。
群馬中央バスに乗った時に、なんとカセットテープと8トラの両方を使っていた!どっちがどっちかわからないけど
@入口専用の「整理券をお取りください、危険物の車内への持ち込みはできません」のアナウンスの繰り返し。
A行き先とバス停名の「次は※※です」のいつものテープ
入口が開くと、@のテープの音声とAのテープの「××行きです」の音声が重なってでていたな。
1980年代の話。
距離が長いと8ドラでも往路と復路が別テープだったりしたな。 8トラは埼玉でもバス共通カードに対応するまで使われていたような気がする
バス共通カード導入時に料金箱と運賃表示器が新しくなって、音声合成に変わったはず 東武バスの太田熊谷線に熊谷駅前から乗って太田駅に向かう場合「奈良小学校」のバス停を過ぎると、廃線になった、東武熊谷線の踏み切りがあって、
「踏切通過のため一旦停止します。」のアナウンスがテープから流れた。
1983年6月廃線当日、熊谷駅で東武熊谷線の妻沼ゆきの最終を見送ったあと、太田駅行きの東武バスに乗って下宿に帰る車中オタ席に座ってたんで、運転士さんに
「このアナウンスが流れるのは今日が最後ですね」といったら、
明日から、「妻沼と熊谷の間はバスがバンバン通るからねえ」と少し張り切っている答えが帰ってきた。
大学一年の時の思い出。
下宿のおばさんに、夕飯はいらない今日が最後の東武熊谷線に乗ってくるといったら、東武熊谷線の存在事態を知らなかったようだった。
利根川に鉄橋ができ、小泉線と繋がっていたら別だったけど、群馬側はあまり廃止に反対とか声が出てなかったし。 中学生でもできる嘘みたいに金の生る木を作れる方法
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ARJBN 朝の連ドラひよっ子で車掌さんがいるバスあったよね
東武でも多分昭和40年代半ばまで女性の車掌いたのを思い出した
あの頃のバスは青と茶の縞々だった
ドアは自動ドア出なくて手動で車掌さんが開け閉めしてた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています