昭和40年代までは市街地循環的な循環路線が結構あったんだけど
放射線状の路線の方が便利で結局大宮の天沼循環などくらいしか残らなかった。
大宮や熊谷市街地は3〜4ルートもあった。
野田市はワンマン初期の頃にやって失敗したものを今更やろうとしたというのが敗因。
ただあの頃はコミュバスという概念がなかったし、
自治体全額負担で貸切免許で無料市内循環をやる程に市の財政に予算がない場合仕方なかったろう。