昔の東武バスを語ろうよ!3
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>407
それであれ、コミュニティと称して一昔前の都バスと同じ200円もとってんのか。
隣の荒川区なんか京成に委託してて150円で乗れるのによ。 東武が営業所と車庫引き上げて後がまの茨急も縮小してて、なおかつ公費負担のコミュニティのまめバスが現金のみ100円均一赤字でも苦しんでる野田に、
いまだ東武が路線残してるのはすごいよ。 >>410
はるかぜはコミュニティバスだけど、自治体が主体的にやって運行を事業者に委託するよくあるコミュニティバスじゃないからな。
PFI方式で自治体は最低限のバス停や環境整備しかしてくれない。
普通のバスに近い。だから運賃もそんな感じ。
足立区内の路線バスが微妙だったからこんなことに。 >>411
むしろコミュバスが黒字の市町村ってあるのかね ムーバスは吉祥寺という人口が多くかつ道が狭い一方通行だらけの地域に
リエッセ走らせたというのが成功の要因で
関東や小田急が独自にリエッセ走らせればすむ話なので
コミュバスの成功例とするよりは
朝日の花田線が儲かっているのと同じなのかも知れんね コミュバスは自治体によるけど公共交通がない地域に走らせたり、病院を結んだりって
福祉方面を重視して路線を敷いてる自治体が多いから、黒字目的に走らせてるわけじゃない所が多いからねぇ
バス会社的にも貸切バスのような料金貰えて、しかも車両代も自治体から出して貰えるから美味しいらしいよ >>416
赤字補填の一般路線だと赤字の分だけ補填するから赤字にはならないけど黒字にもならない計算になるし
車両は他の路線との兼ね合いもあるが自由である反面自腹なんだよね。
その違いが典型的なのは上尾市循環バス「ぐるっとくん」と東武時代から赤字補填をしている上尾市運行バス(上尾〜東大宮間)。
同じ地区(上尾市原市地区)に上尾市が別の補助を出しているので上尾市運行バス自体が補助打ち切られ廃止されてもおかしくないのだが
地域的なものがあるのか今のところ運行が保たれている。
他の地域(大石や大谷地区)では東武の路線廃止=ぐるっとくん運行なのでその辺どうなのよって気はするが。 昔野田で、市の強い要請で野田市駅と市役所回る路線つくったら
コミュバスでも何でもないから補助もなんもなくてすぐお釈迦なったことがあったな。 昭和40年代までは市街地循環的な循環路線が結構あったんだけど
放射線状の路線の方が便利で結局大宮の天沼循環などくらいしか残らなかった。
大宮や熊谷市街地は3〜4ルートもあった。
野田市はワンマン初期の頃にやって失敗したものを今更やろうとしたというのが敗因。
ただあの頃はコミュバスという概念がなかったし、
自治体全額負担で貸切免許で無料市内循環をやる程に市の財政に予算がない場合仕方なかったろう。 コミュバスが制圧しているエリアで路線バスが残っているのは大抵の場合
コミュバスのエリアから外へ出る(市の中心部・本拠地や行政区域の外)か
それらに向かって短絡している場合が多い。
>>417の指摘する上尾市はその両方を持っていて
東大宮駅(さいたま市)〜原市地域〜上尾市役所〜上尾駅を短絡的に結んでいる。
上尾市内循環だと上平(六道経由伊奈学園高校方面)まで回ったりするしね。
確かに政治的福祉的な物は考えられるが清河寺回りの大宮や大石回りの上尾車庫が廃止されてから
上尾市内循環が運行されてるから廃止代替の意味はあっても廃止置き換えではないよ。 >>405
本社企画にバスヲタを置いて動かしている事業者もあるよ(ニヤリ
西武や関東バス、国際興業なんかもそれでうまく回ってた。
頭がよくコミュ力があればヲタの方が理解している分だけ有能。
野球嫌いなプロ野球選手はいないって事さ。 >>420
コミュバス自体は一般路線とは被らないようにするのが普通じゃない?
民業圧迫と言われかねないし >>422
被るようにすべきとは言ってないのだが?
コミュバスの中で民営が残れるのは自治体の外に出られるのと短絡的に結んでいるからという事例を挙げただけなんだが。
逆にコミュバスが短絡できるのならそれでもいいんじゃないですか? 前後扉でシートは何も考えず大量に並べただけ
こんなのが昔の東武のイメージ なんかまたクズどもが荒らしてるな
これだから昔の東武ヲタは >>419
大宮近辺の昔からあるバス停だと、以前の行き先やら路線図が消されつつも剥がれて残ってるものがあるね いよいよ今週バスまつりだというのに東武はさぼってんじゃないよ >>429
そもそもオタに馴れ合うって感覚がないだろ
本社にオタがいて企画発案が通る社風なら出来るだろ
その辺が近隣他社(国際興業や西武)とは違う
取りあえず他がやってて鉄道で実績があるから
ファンフェスタをやってみようっていう感覚
花上嘉成さんのような人がバスにもいれば変わったかもしれないがな
しかし前回の大宮営業事務所見ててわかったけど
オタが集まったところで業務に支障が出るだけだな
規制線で区切ってはいたから最初の竹ノ塚程にトラブルは起きなかったが
通り道と止める場所を占領してるんだから支障は大きかったように見えた
今後は沼南か西上尾の廃車置場ででもやればいいんじゃね 交通の便と、車種の豊富さを考えて大宮にしたんだろうけどなぁ >>433
日産(日産ディーゼルではない)590系。
戦前から昭和30年代初め頃まで日産自動車との取引があった。 >>409
じゃあ今の土浦〜下妻は東武から関東鉄道に移管された路線? >>438
「移管」じゃなくてダブルトラック(競合)からの「撤退」じゃ?
それに昭和40〜50年代にエリア調整が理由以外で
グループ外に「移管」という例が思い浮かばない。 >>439
そんなに賑わってた時代があったんですかねえ。
まず土浦に東武というのが全くイメージになくて。 茨城というと水戸は有名だが土浦もありましたよね。
古河=菅谷=下妻=北条=土浦
元は関東鉄道との競合路線で下妻を境に古河と土浦に路線があり
調整で関鉄が古河から撤退する代わりに東武が土浦を撤退
昭和55年頃まで土浦=下妻が走っていたそうです。
関東鉄道の株主には東武鉄道もいて問題なく土浦まで走れたのでしょうね。
マニアでも知っている人は少ないと思いますよ。 土浦駅に東武がいた頃の画像ってネットで検索しても見たことがないので
本数的にも少なかったのでしょうね。
市立図書館に行けば画像が出てきそうな感じもします。
土浦行きの方向幕を出した東武バスを見てみたいですね。 >>441
昭和55年なら記憶がありそうなんですが、
年代が微妙にずれているのか全く記憶にありません。
関鉄が古河に来てたのも今更ながら驚きです。 >>442
土浦市史の巻頭のカラーページ
昭和49年の土浦駅バスターミナルの写真があって関鉄バスの他に国鉄と東武バスが写っている。 尾久に1973年の水戸駅北口バスターミナルのバス写真が出品されてて、その中に笠間の5209が写っている。 ん、
…ちがう。♯6510(本庄から松は74837591
6802は川重のCJM500で千葉県内(柏か沼南かは知らん)の配置じゃ。大事なことなので繰り返す! 6802は川重。
P-LV314の初号車が6803で5E架装の東松山配置じゃ。
だからP代以降の新型式車(LV314とLV324どちらも)は
6803(銀サッシ青クリーム)と2113(7E)によって導入されたものと考えられる。
ソースは鳩山ニュータウン住民の(当時は新荒子ってカキ…(ry
俺の記憶と、R254で児玉車庫手前の川を渡った直後の空地にいた廃車体を見た二十数年前の記憶や!
9607#いや、結構マジ。
だってすごく信頼できた某サイトですら、登録番号の下2ケタで42と49をそのまま載せてたからさ
9298 所沢948
9299 所沢950
9300 所沢951
の現実が曲げられかねないまま後世に…
当時、朝の通勤時に何の情報も心構えもなく、朝7:36のニュータウン北からの
高坂駅行きに9244が3ドアで来た日の興奮を、当時の2ちゃんに書き込めて良かったよ。 下妻駅=辺田(岩井)って路線も元東武の路線?
それとも茨急オリジナル? あぁ、スマン
間違えた鴫
9297 所沢948 ※坂戸
9298 所沢950 東松山
9299 所沢951 東松山 →川越で最後のご奉公
9300 所沢952 東松山
9301 春日部 草加
次の新車は
9357 9358 9359
9397 9398
9417 東松山出張所管内(とはいえニュータウン北)の話で恐縮だが、冬に雪が積もった時の
運行は、今に当てはめれば神レベルの凄さ”!
…夜中に雪が積もるよ!ってときは、夜のうちに母の指令により
窓を5pだけ開けて寝ろ→石油ストーブをガンガン
→まだ暗いけど、布団の中まで聞こえるう、ん?あれ?
朝630にはバスがチェーンをかけて「シャリシャリン…」
その音で飛び起きて、朝メシも5分で済ませて急いでバス停へ。
鳩山町民、考えることが皆同じで、乗ろうにも長蛇の列。走れば自家用車が立往生w
「あ、**さんちのクルマじゃねw?」 逆に、昼過ぎからチラチラ雪が降り始めて、運行途中の高坂駅でチェーンを装着するのも
速かったよ!
高坂駅のファミマの前で、運転士が前ドアを開けて悩んでると、後続到着便の乗務員さんが「おい、これで
大東文化の坂は無理だよっ!」
「スミマセ〜ン!チェーンはめるので10分ほど出発が遅れますけど、お待ちくださ〜い!」 あとは高02も巻き込んで、本務+後続到着乗務員のコンビで
暮れゆく冷えゆく空もなんのその。
本当に、大型のHT235BAですら5分も掛からずにチェーンをガッチリ巻き終えて
発車してたのはすごい。
たぶん、あの乗務員方々には多分に沼田とか中之条の方が紛れてたのではないか?
と予測。
とうじ、あの技術がなければ高01沿線人民(〒350-0313)は、幽閉されてたと重。 古いのは、7823が日野車体のモノコックで比較的遅くまで残ってたよね♪
東松山新製3兄弟の2141・2142・2143…最後は2143が久喜にいたんだっけ?
俺のお気に入り※大東文化の坂を4速でいつも登り切ってた9417は、バスラマに
2回目の特集がされた時には、もうどこにもいなかったよね。
あの動物公園→大東文化の坂の走り方で、乗客の側も
車両ごとの登坂性能を何となく解ってて、9417は別格の粘りだった。担当乗務員の腕… 鴫
パパ曰く昔は(BU10だろう)「ニュータウンに入る最初の坂で止まっちゃって降ろされた」→そこから歩きw
鳩山高校(本線)停留所のすぐ先で、住宅街の路地に首を突っ込んで折り返すバスを見た俺w
〜たぶん着後・回送入庫食休なんだろうけど、小学3年生には衝撃的光景だったわ♪
別のどこかで同じように路線バスの運行管理の泊まり勤務では役に立ったぉ! >>446の続きw
鳩山NT〜高坂駅で3ドアの9244(HT2MMAA→菖蒲へ?)が走ってたのは、ほんの一瞬
※いゃ、ホントに1週間あったかどうか。 移管された直後なんてwwww
PHXEV ってくらい草生えるレベルやぞ♪(通報は自粛しようね♡
20**/04/0* 鳩山町♡ニュータウン北→高坂駅
LV314+7Eの前後折戸なのは判るとしてだ。。。。
突然!!!
何の変哲もない、東上線の以北の駅向けのバスだよ!
〜なぜか習志野&春日部ナンバーに!!揺られて高坂駅に向かう鳩山町民w
〜GWには該当バスもちゃんとナンバー変更しましたからね♪ >>447
東武は、下妻駅前=東若=国玉神社=岩井局前
茨急は、下妻駅前=下妻上町=宗道=沓掛=岩井局前=辺田 >>452
7823は96年まで東松山に在籍していた。
東松01で一度だけだが乗ったことがある。
それから2143は加須に転属(熊谷22か1015)。 >>455
東武の下妻〜岩井があったとはびっくりです。それも東若経由とは...
東若はいろいろな路線で賑わっていたんですねえ。 ギリ車掌が乗っていたころに乗車した記憶がある
浦和近辺で >>457
廃止間際は土休日の下妻発岩井行きの片便1本だったよ
乗りに行ったら途中から岩井までオバちゃんが乗ってきて
運転手さんと楽しそうに談笑していたのを覚えているよ >>459
東若で左折して西若経由になるんですかね?
でも昔の西若バス停は結城岩井線より西側にあったと思うので西若通過? 下妻と言えば過去レスで出てたけど栗橋駅行きという路線があった
その経由でどんな需要があったのか不思議だ・・・
>>458
昭和55年末か56年1月頃まで天沼管内では浦和西高方面(西高止まりだった気がする)で
ワンマンバスに車掌を乗せたワンツーマンで運行していた
吉野町は55年の夏頃までツーマン車がいた記憶がある >>391
朝日自動車が川越進出したら良かったのに。
最近迄タクシー川越営業所残っていたから。
草加はかつて朝日自動車のタクシー営業所あったけど、上尾や吉川に関しては東武系列のタクシー事業者が無かったのも移管免れた一因。 川越は川観の縄張りだから移管されてたとすれば朝日でなく川観と思われ >>463
川観も北本、毛呂で路線バス始める前は知っている人が少ない零細企業だったからね。
朝日タクシーも川越市駅の構内営業が殆どだったら無線で呼ばれる事も少なかったんだろう。 >>461
北越谷に引っ越してきて、駅前で「下妻駅」行きのバスを見た時の衝撃
「どこ?」 >>460
国道125号線を八千代方面に進行して東若から左折して交差点でまた左折して
県道を南下し道路脇に池がある公園脇を通過して国玉神社前を通過して岩井市内に
行った記憶があります。バスも確か13時台に1本しか走っておらず免許維持路線でした。
その後2年ほどして廃止担ったと記憶しています。 他に下妻から岩井方面に1日に8本程度、茨城急行が宗道・沓掛経由で走っており
沓掛では関東鉄道も石下駅から1日5本ほど沓掛経由で岩井まで走っていました。
岩井局前から愛宕駅・北越谷まで茨急と東武が競合で走っていて何時か乗車しようと
計画していて急に東武が撤退してしまい未乗車になってしまいました。 下妻から東武バスとか乗ったなんて、うらやましいな。
自分なんか茨城の東武バスは境車庫=東武動物公園しか
乗ったことないわ。
あとは茨急の下妻=古河に廃止間際のれたぐらい。 >>468
その辺になるとはっきりした記憶があります。
下妻からの東武だと境行きもありました。
境行きが廃止、古河行きが茨急移管、古河行きが区間廃止、の順ですね。 結城駅から山田・北茂呂経由境車庫行きの東武バスも乗ったことがあります。
昭和60年頃走っていたので水戸線経由で結城で下車し夕方に乗車
お客さんは自分を含め3人しかいませんでした。境車庫には自分だけ下車
境で宿泊して明朝、野田市駅行きのバスに乗った記憶があります。
野田市からは流山・東宝珠花・柏駅西口・大利根温泉行・紫ゴルフ場
などがあり、当時珍しかった流山行きに乗りました。 茨城の東武バスですが12月にグループから離脱する東野交通も
茨城に路線を有していました。
宇都宮=真岡=下館 東武からの移管
真岡=岩瀬
茂木=片庭=笠間
茂木=塩子=石塚
笠間=片庭=赤沢=塩子=茂木
笠間=笠間稲荷=石寺=七会村役場=塩子
こんな路線もありました。廃止後笠間近辺は茨城交通へ移管 >>472
この中で純粋に残ってるのは宇都宮〜真岡だけか
笠間近辺だと笠間〜七会〜赤沢〜岩下入口が、つい最近まで茨交で残ってたけど廃止された
水戸〜石塚〜野口〜御前山〜ツインリンクもてぎ があるけどこれはちょっと違うか 益子-岩瀬の東野は平成初頭位まで存在した。
水戸-茂木-宇都宮の国道123号路線は国鉄と茨交の相互乗入れで東野は無関係かと。
笠間や石塚に東野が来ていたのは驚きでこの辺りから福島県まで東野の版図が広がっていたとは。茨交への移管は東野鉄道の時代か。
茨交時代は2ドア独特仕様のレインボーRBが印象深い地区。 >>474
茨城交通の石塚や笠間に行くと昔話が聞けるよ
東野交通も岩瀬や笠間に車庫があって茂木から塩子を通って石塚まで
来ていたんだよ、大昔は水戸駅まで東野交通が走っていたんだけど
なんて聞いたことがあります。 水戸=石塚=御前山=茂木=宇都宮は国鉄バスと茨城交通の競合路線で
水都西線とか呼ばれていたと思いました。
現在
茂木=ツインリンクもてぎ JRバス関東
休日運行ツインリンクもてぎ・御前山車庫=水戸 茨城交通
に分断されて運行しています。
東野交通の茂木=逆川=片庭=笠間の路線は移管後茨城交通の時に2度ほど
利用しました。ほぼ全区間に渡り利用客はゼロでした。 東野は他の東武グループ各社と比べるとあまり東武っぽくないイメージだったな
車両によるイメージが強いと思うが、なんで東野ってふそうが多いんだろう? 朝日系の路線カラーも採用当初から使われてた朝日と川観と除けば、各社の自主的な使用って感じじゃないのかね
観光バス塗装と比べると強制的なものはないんじゃないかな
独自カラーを使ってながらだんだん朝日カラーになってきた関越交通を見てるとそう感じる
逆に板東や茨急なんかは入れる気配ないしw
公式サイトなんかも朝日と共通の入れてるのもあればオリジナルの所も
そういうので東武本体(およびその指揮的な存在である朝日)との関係の距離差が出てる >>480
関越の塗装に関する見解は岩手県交通に近い。
オリジナル→親会社から中古車→塗り替えるのが勿体ない→この際新車も同じ塗装で
ただ関越が東武朝日から離れることは今後もないので朝日塗装化が進捗することになるだろうね。
中古車の塗り替えが勿体ないと言えば日光交通の阪東車もだけど
国際十王の東武車みたいに短期の予定ならそれでいいのかも。
昔の東武バスではないのでsage 東武バス 大宮駅ー平方ー東松山駅の路線とルート廃止時期、本数を教えて下さい。 東武ダイヤルバスが路線バスを東武から引き継いだときも、東武カラーで社名変更のみで、東武バスから日光の定期観光バスを引き継いだ日光交通も車両がそのまま移籍したから車体の社名変更のみだった。
ダイヤルバスと日光交通が合併して、東武バスからの移籍車よりも、朝日自動車からの路線車が多くなると、朝日自動車カラーで社名変更のみがふえてしまったな。
東武バスの聖地の東武バス日光にはなんとか残ってほしいな。
トップドアの非冷房の日野車が観光バス格下げの路線車と混ざって走っているのが昔の日光。 日光とかよく知らんけど、いまだに舗装されてなくて砂利道のイメージあるな >>484 ボンネットバス全盛の時は砂利道だった。
日光駅から足尾に行っていた東武バスのツーマン時代は悪路て、箱形のバスがなかなか入れなくてボンネットバスの時代が長かったと
バスラマインターナショナルで昔東武バスを特集した時に、定期観光バスのガイドさん(昔は路線バスの車掌さんだった方)が答えたインタビュー記事が載っていた。 >>482
172 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/13 18:24:06 ID:h4OakUGD
>>139
平方〜開平橋〜県道339号〜県道76号〜古名交差点〜県道27号〜東松山駅だったかな?
系統番号は東松xxだったはず。
大宮駅〜平方、平方〜東松山駅に系統分断されて、
東松山駅〜平方は晩年は日中1往復という有様だったとか。
やはり乗り通す人が少なかったのが廃止に繋がった原因っぽい。
東松山から大宮だと電車で池袋あたりのほうが時間的に近いしねぇ・・・。
173 :刹Б ◆5SgToeiBus :04/11/13 19:42:16 ID:O3M0flA8
>>172
東松山駅〜r27〜久米田〜r33〜吉見高校入口〜r76〜消防組合前〜r339(役場回り)〜開平橋
というルートだった模様。主要停留所だと、以下の通り。
東松山駅〜百穴入口〜亀甲〜前河内〜徒歩橋〜一本木〜(川島町)役場前〜大橋〜出丸支所〜入間川大橋〜平方開平橋西詰
系統番号がつけられた昭和48年頃にはもう分断されていたようで、[東松08]という番号だった。
その後昭和52年頃に廃止。川島町内の廃止部分の代替として、川越駅を軸にしなおして
[川越11]川越駅〜神明町〜釘無〜大橋〜役場前〜川島農協〜落合橋〜神明町車庫〜川越駅
[川越12]川越駅〜神明町〜釘無〜出丸
を開通するも、あえなく廃止されてしまった。 そういえば出丸の折返場にセンタアンダフロアエンジンのBT51改が止まってたのを見たことあるなぁ。
BT51改はいつ頃廃車になったのでしょう?
川越06の上尾乗り入れ時点ではまだいて上尾駅西口に姿を見せていたのですが・・・。 >>485
日光にボンネットが入っていたのは昭和34年頃まで。その後はBD系に置き換えられた。
最後にボンネットが入ったのは山岳地帯ではなく熊谷だと聞いた事がある。
いすゞはすでにリアエンジン車を販売していて東武も導入していたが
特段理由のない熊谷にボンネットが導入された理由とは何だったのだろう? 熊谷営業所でボンネットバス?そんな悪路あったのだろうか?
晩年中型バス限定でやっていた路線とか。
あとは、運転手さんの好みだろうか。 熊谷は変なゲテモノがよく入ってた気がする
UDの中型車とか
貸切落としが入らなかったのが不思議なぐらい 太田営業所の中型は日野+富士重ボディだったので、てっきり熊谷も日野車かと思ったらUDだった。 関越交通の水上車庫ってただの折り返し場?
元東武バス水上出張所? >>493※引用文献参考書※
上毛新聞社発行、大島登志彦著「群馬県における路線バスの変遷と地域社会-第二次世界後の東武バスを中心として-」
高崎経済大学の先生の本によると
館林駅〜五号道路〜茂林寺入口〜分福センター〜南大島〜明和役場前〜上大輪〜瀬戸井〜赤岩統合中学校
と出ています。
1980年9月1日の時刻表も掲載されていて、1日11往復で、日中は分福センター経由となっています。
館林駅の始発が6:20、最終が19:55
赤岩統合中学校の始発が6:22、最終が20:47です。 >>495
ご教示いただきましてありがとうございます
川俣駅を通るルートでしたか
1980年の時刻表とは東武時刻表でしょうか?
1979年発行の東武時刻表第2号には館林駅発の時刻のみで赤岩統中発の時刻は掲載されていませんね >>496 東武時刻表かどうかは、著者の高崎経済大学の先生に聞いてみないと判りません。
何を参考にして、紙面オリジナルの時刻表を作ったのか。
館林駅、分福センター、赤岩統合中学校の3地点の時刻のみ記載されています。 >>497
ありがとうございます
駅や営業所で配布されたポケット時刻表の場合も考えられますね 間違って別スレに書いてしまったので…
1983年4月時点の東武バス東武伊勢崎線太田駅(北口)発着路線。*共管を含む。
@太田駅〜妻沼駅入口〜熊谷駅
A太田駅〜広沢〜桐生天神町
B太田駅〜葉鹿下町〜桐生天神町
C太田駅〜中野〜館林駅
D太田駅〜新宿〜足利両毛駅
E太田駅〜植木野〜足利両毛駅
F太田駅〜太田呑竜〜青年の家
G太田駅〜太田6丁目〜下浜田〜冠稲荷入口〜牛沢〜東毛病院
H太田駅〜太田6丁目〜由良局前〜宝団地
F太田駅〜太田6丁目〜由良局前〜宝団地〜木崎十字路〜木崎駅〜尾島一丁目〜尾島三菱前 >>500
太田駅〜太田駅入口〜南一番街〜バイパス入口〜西小泉駅〜赤岩統合中学
をわすれていました。
熊谷駅ゆきと桐生天神町ゆきは日中2〜3本ありました。
他の路線は朝夕の運転の館林駅ゆき、尾島三菱ゆき、西小泉駅ゆきは、西小泉駅発着の熊谷駅ゆきの送り込みもかねてなのか1日数えるほど。
宝団地ゆきは一時間に一本、東毛病院ゆきは二時間に一本、足利両毛駅行きの二つの経由は1日朝夕中心で1日10本もなかった。
青年の家ゆきは途中の太田呑竜への参拝客を日中1日4本くらい。
まだ、太田の本町通り(昔の名前で言うと、県道前橋古河線、今は国道に格上げされています。)は工事中で伊勢崎方向へ一方通行。
太田駅行きは太田6丁目から一本北側の北裏通り経由。
1983年から太田営業所の変化は6月から鉄道の東武熊谷線の代替急行バス、熊谷駅〜バイパス〜妻沼の運行開始で、国道407号で妻沼に向かう回送バスを多く見ました。(逆も)
反面11月、植木野経由の足利両毛駅行きの廃止にしたのをきっかけに、太田駅発のローカル線は毎年廃止の嵐でした。
長文失礼。 >>501
太田駅発と館林駅発の赤岩統中が廃止されたのはいつ頃でしょうか?
太田駅から中野経由の館林駅までの路線は中野付近で2つのルートに別れてましたね
この路線はいつ頃まで運行されていましたか?
また、足利から本中野までの路線と中野付近で交差していましたね >>502 *高崎経済大学の大島先生の本の年表部分から引用します。*
@1983年6月1日 太田駅〜赤岩統合中学廃止して、西小泉駅〜赤岩統合中学(4回)を新設。
A1983年11月1日
太田駅〜植木野〜足利両毛駅(7回)廃止。
B1984年2月1日
足利東武駅〜館林駅(2回)廃止。
C1984年3月21日
太田駅〜中野経由・向地経由〜館林駅(計3回)廃止。
太田駅〜宝団地〜尾島三菱(4回)廃止。
太田駅〜宝団地(18回から8回に減便。日中1時間に一本でなくなる。宝団地は宝町にバス停名変更。) >>502 赤岩統合中学行きの廃止は
@1984年4月11日
西小泉駅〜赤岩統合中学(2.5回)廃止。太田駅〜西小泉駅の区間はいしを経て一年後に全廃。
因みに、同じ日に太田駅〜太田呑竜〜青年の家(4回)も廃止。
A1985年4月5日
館林駅〜田島経由・分福センター経由〜赤岩統合中学(計5回)廃止。
館林駅からの赤岩統合中学行きの方が太田駅、西小泉駅の路線より長く存続したことになります。 >>504
詳細な内容をご教示いただきありがとうございます
館林〜赤岩統中は昭和54年の東武時刻表を見ると12本運行されています
廃止時にはかなり減便されていたわけですね 東毛地区・足利地区のバスは昭和50年代後半くらいに需要以上の減便やったのが致命的だった気がした。
それまではギリギリ通勤・通学・買い物・通院などに使えるダイヤだったけど、やりすぎてその辺の需要にもごく一部の路線を除いて対応できなくなって客ががらっと減った思い出がある。 >>504
自分の記憶が確かならば太田駅北口〜西小泉駅のバスは確か1995年ぐらいまで1日1往復だけ残ってたはずだけど?
太田駅〜桐生天神町線が93年に廃止になった後、北口からの東武バスは熊谷行きと前述の西小泉行きが駅出て左側の本屋の前から発車。
大根経由伊勢崎行きの群中バスが駅出て右向かいのところから出てた気がする。 太田駅〜西小泉駅線と太田駅〜赤岩統合中学線の太田駅と西小泉駅の間は別ルート。
最後まで残ったのは、東別所経由の太田駅〜西小泉駅線 >>↑追記
高崎経済大学の先生の本によると、1999年4月1日に太田駅〜西小泉駅線が廃止に。
同じ日に、前橋営業所の出張所になっていた旧太田営業所(前橋営業所太田出張所)が、熊谷営業所太田出張所に変わった。
バスのナンバーも、群馬ナンバーから熊谷ナンバーに変更に。
その半年後の10月1日に太田出張所が廃止→朝日自動車太田営業所に。
太田駅〜熊谷駅、西小泉駅〜熊谷駅、妻沼聖天前〜熊谷駅を朝日自動車が担当。
鉄道の代替バス、急行熊谷駅〜妻沼は東武バスの熊谷営業所が担当。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています