昔の東武バスを語ろうよ!3
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>>328
定期
日光駅〜営業所
営業所(日光駅)〜奥細尾
臨時用で日光駅休憩所→中禅寺温泉
これくらいは見た事ある。 大体の場合回送は回送でちゃんと幕にコマはありますよ。
回送の表記が緑だったり黒だったりはありましたが。
大抵「東武」表記は幕にない行先か貸切の場合が多く、
前者の場合他所からの借入車が借りた営業所の幕を入れずに
ずっと手書きで運行に入っていたことも。
車掌さんが案内できるツーマン時代は稀にあったそうです。 話はズレるけど
境営業所にいた3ドア車は、側面幕が2個あって
前ドア横の側面幕は「東武」固定だったね。 >>332
3扉車は関東バスや東京ベイシティ・千葉海浜、西武京王と違って
前乗り先払い信用方式で中扉降車と
後乗り後払い整理券方式を1両に合わせるためのものなので
前乗りに対応した前の方向幕と後乗りに対応した後ろの方向幕という形。
初めて大宮に3扉車が入ったときに一部の車両は前乗り専用で後部の方向幕は準備状態でした。
境転出車は前乗りは使わないので「東武」に固定したのでしょう。
そうなると中身もそれしかなかったのか? >>325
後方の表示器のことかな?
あれは「東武」固定だったような。
最近では長らく「日光駅」だったのが
「JR東武日光駅」という表示になった。
「日光駅」が表記上では正解なんだけど。 近隣他社のように営業所の社屋建て替えしないな。
地震対策の観点からも出張所時代からのボロボロな小屋はやめた方が良い。 前橋営業所にも大宮地区の3扉車が転属してきたな。
中扉は締切扱いで、前後ドアのみ使っていた。前ドア横の方向幕は撤去したか、東武や白幕だったか覚えていない。
あと、関越交通にも元東武の3扉車が移籍しているけど、方向幕はどうなっていたかわからない。 >>335
実際問題として昭和43〜46年式の車両には後部方向幕がなく、
47年から後部方向幕を復活させたものの日光には貸切塗装の兼用車はいるわ、
乗合に転用した所謂格下げ車がいるわであったりなかったり。
貸切の後ろに「東武鉄道」と書いてあったので
結果幕のある車両も「東武」表示になったんだろうね。
ちなみに43年以前の貸切塗装していた兼用車も「東武」で固定してあった記憶がある。
平地のツーマンは幕を外して広告枠にしたり幕が残ってても白固定の車両が多かった。 「1910」 副島隆彦 2016年6月16日
大阪市や大阪府のバスの運転手が年収1000万円は許せない、600万円まで落とすと。
なぜなら、普通の労働者たちが年収400万円でようやく働いているのに、何でバスの運転手が1000万円ももらえるんだと。
このものすごくすばらしい主張があった。
これを言われると日本の民主党や共産党は非常に困るんです。
が、先ほど言ったように、金持ちたちの財産を相続税で国家が奪い取る、これを正面から本気でやったらほんとに橋下はたたき潰されました。
労働組合を押さえつけるまでは安倍晋三たちも大好きだからよかったんだけど、
自分たち自民党体制の、金持ちと地主階級、経営者を大事にするという自民党の基本骨格があるわけです。 >>339
自民党とかの件は、どうでもいいして
分社前の東武バスなら年収1000万何人かいた。
それが分社化で3割カット年収700万。
プロパーは年収400万。
この人の希望通りだね。 平成一桁前半くらいまでなら西武でも国際興業でも1000万プレイヤーは存在した。
勤続30年以上で週60時間くらい残業していれば大体4ケタ近かったはず。
分社化と賃金カットは時代の流れなんだろうけど
労働時間の長さと不規則さ、重責を考えれば鉄道職員並みの給与は与えるべきだと思うがな。 そのままの給料だと東武に限らずほ全国のとんどのバス路線が赤字になるって言われているからねぇ
バスに限らずトラックも規制緩和で12時間のっても1万円とかそんな感じになりましたね
軽井沢のバス事故の運転手は往復一泊二日乗って8000円だったとか・・・ 6200番台?の廃車寸前のBUが水上公園便のヘルプで越谷に来てた
後部の方向幕の部分に広告が付いていたのを覚えてる >>336
事務所の建物は最近になって各地で建て替えてる印象だが?
ここ数年で東武らしい営業所の建物が減った気がするし
日光の話題で思い出したが、湯元温泉の車庫の建物の部分っていつ頃なくなったんだ?
10年ちょっと前はそこを中心に何台かバスが止まってた気がするが今じゃただの広い折り返し場みたいだし 東武指令と長谷川玉緒の恐怖のネットバトルについて、知っている方がいましたら教えてください。 >>343
新製時に後部幕のない車両は43年後期〜47年前期、6200代だと47年前後期辺りにに相当しますが
後部幕のところに広告がついていたとなると少なくとも川重車体ではなく
(後部幕がないと川重は「丸坊主」になる)富士重車体になり、
47年前期だと3E車体である可能性はどうでしたでしょう。
前面傾斜のR13車体で前後扉車はなかったはずなので前中扉車でしょうか?
となると足立所属なら後部幕は間もなく後付けでついていたはずで
47年前期に3Eが導入されたという事になりますね。
廃車寸前の頃であれば柏や熊谷や新座でも後部幕の設置は終わっており
幕なしで残ったのは昭和50年代後半に日野と置き換えられる境という事になります。
(後部幕の設置対象は都内・千葉と埼玉の熊谷以南で茨城は群馬栃木と同様対象外)
もっとも境から転出した車両でしばらくの間後部幕なしだった車両が
野田にはいたとも聞いた事がありますのでそういった車両なのかもしれませんね。 新座にBU06が残ってる噂聞いて撮影行ったら廃車になってたのもいい思い出だ 高崎経済大学の先生が書いた本で、前橋駅〜沼田をワンマン化する際に、組合が強くて均等ダイヤが崩れ、渋川乗り換えが多くなったと載っていた。
運転手の拘束時間とワンマン化で労働条件が変わったからみだれうけど、一日の拘束時間が、前橋駅〜渋川新町1往復と前橋駅〜沼田1往復と距離が長いとはいえ、今の運転手さんに比べればなんて楽な勤務だろうと錯覚してしまう。
今は何処の会社も残業当たり前で二日分の仕事をしているし。
さすが、ミニ国鉄と言われた東武の組合だなと感心した。 >>348
大島教授の授業を受けてみたい。
念仏のように群馬の交通が悪くなったのは東武が悪い東武が悪いと唱えているわけじゃないだろうが
著作からはかなりの愛憎を感じた(憎悪ではなく愛憎)。
その辺差し引かないとその辺の著作は読めない部分がある。
まぁ高崎や高経大という「環境」もあるんだよね。 大島教授の本の中に、不便な続行ダイヤという項目があった。
東武バス以外の会社にも言えることだ。
途中まで同じコースを走るバスが同時刻だったり、1〜5分しか間が開いていなくて、その2本を逃すと最大1時間待ち?だとか。
自分の経験で東武電車に接続せず電車到着と同時に発車する、二時間に一本のバスもあったし…
バスのダイヤを作る人が下手なのか、強い労組にかなわないとかだな。 >>352
まあみんな谷塚駅で降りちゃうからね
並行する都営も本数少ないし 具体的に東武バスの路線名をあげていなかったが、群馬、栃木県撤退が決まったあとの、足利東武駅〜東足利線。
両毛線の足利駅に行こうと足利市駅の外にでたとたん。駅のロータリーから出て行く東足利行きのバスのお尻が…
結局、タクシーで移動した。
東武バスの足利営業所が廃止になり、桐生営業所のバスの東足利停泊もなくなった頃だった。
昔は、1時間に3〜4本の東足利〜足利両毛駅〜足利東武駅〜桐生天神町があったから、JR〜東武の移動が楽だった。
今は足利市内は廃止代替バスになったけど本数が少ないな。 >>352 連投します。
その本数といい勝負は23区内のど真ん中を走っている、都営バスの四ッ谷駅〜晴海埠頭。
半蔵門のバス停。
昔勤めていた会社の東京支社に一番近いバス停で、新宿に行く場合四ッ谷駅まで行ってと思ったら、田舎のバス並みに。
麹町から有楽町線で市ヶ谷乗り換えをかんがえたけど、真夏で、麹町駅まで歩くのがだるかったので、かなり待ったな。
年よりは、階段の昇り降りを嫌うからバスにのるんだよな。 >>352の問題は本数ではなく、運転間隔ね。
そこそこ本数があるのに2時間近く開いている。こういうのが東武には多い。 春日部営業所があったころ春日部駅東口〜西宝珠花線で今朝日が継承してるのとは別系統で
立野経由西宝珠花行きというのがあって一回だけ間違って乗ったところいつもと違う道走るんで
ひどく焦ったことがあったんだけど詳しく路線記憶してる人いないですかね。 1989年の道路地図見ると確かに今通る路線が無い路線有るね
立野出て北側を直進して、倉常・平野・芦橋・木崎・集会所前・上芦橋・上吉妻・西親野井入口・一本松を経由して西宝珠花車庫方面へ抜けてく >358
おお、一本松という停留所名で記憶が蘇りました。ありがとうございます。
一本松の次からは今ある路線に合流して局前→西宝珠花となってました。
確か境移管と同時に廃止されてたような。 今は、春バスの庄和北ルートのNが、走ってるね。
上吉妻から宝珠花局前まで、道幅狭いけど大型車で走ってたのかな? 当時は子供で大型中型の区別がわからなかったですけど、一本松のあたりは狭隘で沿道の木々の
枝がガリガリ轟音をたてて車体側面をこすりながら走ってましたよ。
当時の西宝珠花線は車庫じゃなくひとつ手前の「西宝珠花」が終点で「春○○」と系統番号があった。
境になったら無印になってしまったのがさびしかったですな。 >>357
今残っているのが立野経由。
廃止されたのが芦橋経由。 西宝珠花はその先に立派な車庫あったけど東宝珠花はただの転回場だったな。 関宿工業団地入口もね。
Y字路使って転回してた。
最終から2便だけ
春日部発東宝珠花経由工業団地入口行だったね。 >>365-366
昭和41年に最初に導入されたRB120の中の一両です。
引退はいつ頃だったのでしょう?
昭和50年代初めには前橋の同型と違い姿が見えなかったという話ですが。 >>367
昭和50年代ならまだ走っていたと思う
富士重ボディの車両は白青だったのに対し、こいつはクリーム青だった記憶が 昭和40年代まで草加と柏を結ぶ路線があった。草加営業所のRB10が柏に来ると異彩を放っていたのが懐かしい。 松原団地のやつは均一運賃のワンマン?
車掌らしき人物が確認できなくて残念なんだが。
白シャツ来てる二人が降車客一人一人に接してるけど乗車券回収ではなくただチラシを配ってるだけみたいだし。 >>368
青白塗装の試作ですね。
前橋の3831・3832も白の部分が内装色のベージュに近いイメージのクリームでした。
松原団地循環の中型化は昭和54年頃と記憶していますがその時期までRB120は生き残っていたのでしょうか?
>>369
平地はいすゞ、山は日野という原則で埼玉県南はいすゞ車が配属されていて、
草加にもいすゞ車が配属されていたのですが色々なところの画像を確認すると明らかに日野RB10の初期型がいたようで
例外なのか実際には混在していたのか気になるところです(上尾や大宮でもRB10/120は実例がありました)。
>>370
東武でワンマン車が初めて運行されたのが松原団地循環です。
駅から団地までなら非常に近距離で昔から初乗り均一だったと思います。
降車時に前扉も開けて降車させていたのは前払い団地系統のメリットですね。 >>371
松原団地にちょうど中型が入ってくる頃まで住んでたけど昭和54年だった
東口発着も含めて草加は日野車だったイメージ 客寄せのために日中の閑散時間帯にツーマンバス復活させると面白いよね 客寄せなら青クリームや青縞のリバイバルカラー復活よ。
マニアがどかどか集まってくるでえ。 >>379 野田の下町交差点を野田橋方向に右折した直後をとらえてますな。
茨城からくる茨急&東武(岩井)の北越谷線は全部下町経由だったはず。どちらも整理券番号が多くて幕式運賃表示のまあ細かいこと細かいこと。
昭和57、8年頃すでにこの路線で茨急シマシマ見るのはかなりレアだったね。 東武バスのツーマン専用車は、廃車後は地方のバス会社に移籍したのだろうか。今の岩手県交通に日野+富士重中ドア引戸が移籍したがあるようだけど。
東武バスの中ドアのみのバスを改造して、前ドアを付けて、ワンマンバスにしたバスはあるのだろうか。 >>382
ワンマン改造については東武OB氏が書かれているので過去ログ読んでくださいね。 >>382
過去ログによると日野RB120が帝国・富士重で問わず岩手県南バスと函館バスに複数台、
いすゞBU10(川重40年までのモデルと富士重?)が南部バスへ移籍している。
他にスクール用に四国に渡ったとのこと(事業者・車種不明)。
自家用スクールには昭和43年の大東文化大の他、昭和50年前後に成徳深谷や埼工大深谷(現在の正智深谷)にRB120が入っている。
除籍数から考えればもっと移籍した車両があると思うのだけれど・・・。
ワンマン改造は改造車が不調なのと羽生工場の閉鎖(三進自動車と足利自修への外注化)により
数両で中止したとのこと。
推測だが昭和45年以前にはワンマンは限られた路線のみでしか使用せず
昭和46年以降は都内均一区間や団地路線を除いてワンマンを前後扉にするという方針で固まっているため
前中扉の需要自体が限られていたのではないかと思う。
前中扉ワンマン車をツーマンとして使用している例は大宮(吉野町・天沼)や太田では定期的に存在していた。
また、原則として昭和41年度までは三方シート、42年度以降は前向きシートになるが
46年度の新車大量導入に当たり三方シート車を優先的に大量の除籍をしており、
種車自体が限られてきたと思われる。
経年三方シート車を改造しても46年以降は異端車になるし42〜43年車は種車自体多くない。
43年後期に導入された日光の前扉車だけ改造しても問題は少ないと考えられるが
コストに見合う効果を考えたら新車をという方向になったのかも知れない。 >>382
昭和50年代半ば以降、越谷に中ドアBUが何台か打ち捨てられていたなぁ 松原団地循環と同時にワンマンスタートした柏の豊四季団地循環はようけ乗ってるけど、
松原団地のほうは朝日に移管されたところから察するとそれほど利用者いないのかね。 >>387
建て替えで住人減ってるから路線自体今後どうなるか 東武鉄道80年史でも活躍するワンマンバス、として松原団地循環、綺麗に写ってるじゃないか。
http://i.imgur.com/bhR5O2q.jpg
ま、豊四季と違って松原団地は下手に駅に近すぎるのが難点だな。 >>389
懐かしいな、系統番号枠付きのやついたなぁ 松原団地線、というより越谷営業所自体が移管されたからねぇ
あの頃の東武ってドル箱路線とか気にせずに営業所まるごと移管してたから
朝日になったからといって黒字じゃ無かったとは言い切れないのが面白い
越谷なんて新車投入営業所だったわけだし
分社化が1,2年遅れていたらどのくらい路線図が塗り変わっていたか興味深い
順当にいけば、草加、三郷、吉川、上尾、岩槻、川越、坂戸,あたりが移管されていたと推測出来るが 豊四季台団地は柏からも豊四季からも遠くてまさに東武バスを走らせるために作られたような団地。あの団地とTXがなければ西柏も怪しかったね。 >>391
営業所の移管の無頓着さにも東武のダメな体質が見え隠れしているような気がする。 朝日バスの経営を安定させるために黒字の営業所も移管したんじゃなかったかな
松原団地線はもともと草加だった
HTで前乗り先払いだった 30年くらい前に前橋駅から赤城山大洞行きという路線があったような。あれ、乗りたかったなあ(o^o^o)。 朝日バス移管後、中途半端だった弥栄団地循環が北越谷発着に固定化されて本数、利用者共に大幅に増えたな >>393
移管の目的はバスの分社化なんで将来的には東武バスをなくすつもりだったんでしょ
東武バスそのものの分社化は労組が大反対してて出来なかったわけで
会社の真意を知った労組が折れて分社化を認めたから東武バスは分社化
以降は移管する必要がなくなった 親父に連れられて筑波山へ行くとき土浦駅から東武バスに
乗った記憶があるのですが記憶違いでしょうか? 東武も都営みたいに車両や路線など
客の目に触れる箇所は変えずに、
運転士だけ鳩移管のようにすれば
広域ネットワークが残ってたのに。 そんなの関東最強を誇った東武労組が認めるわけないでしょ
下手にやろうとすればすぐストライキはじめるような感じだったわけで >>391
草加、三郷、八潮、吉川は都内に路線を持ってるから朝日に移管されなかった、とかあり得る? 無いと思う
朝日って足立区もコミュバスかなんかで走ってなかったっけ?
コミュバス移管が先に移管されてたから、コミュバス移管はその地域が移管される前触れなんても言われてた 足立区のコミュバスの委託先は
しっちゃかめっちゃかでよ、
東武、国際興業のような区民にとって毎度お馴染みの会社もあれば、
朝日だの日立自動車だのに加えて、新日本観光とかいう、
よその区で商売してるうえにPASMOもSuicaも使えない謎会社呼んで来てたりするから困るんだよ。 バスヲタの皆さんは、一度でもいいからバス業界に入社して、
いかに自分の思うように会社が動けないかを知ってみるのがよろしいかと思います。 >>391
上尾は駅東側の路線(大宮駅ゆき以外)が朝日に移管されている。 >>404
はるかぜは委託ではなく事業者の自主運行。
新日本観光は足立区にある事業者だよ。
東武がまともにバス事業に取り組んでいれば
はるかぜは不要だった。 >>407
小型バスで大型が入れない道に路線を引くという発想が
バス業界でなかったからね。小型バスでは利益が出ないと。
今は労働条件が厳しいから低賃金で、きついダイヤしけば
小型バスでも利益はでるかもしれないが。 >>398
土浦駅〜北条〜下妻(乗り継ぎ?)〜菅谷〜古河駅、
要するに国道125号をひた走りで路線がありました。 >>407
それであれ、コミュニティと称して一昔前の都バスと同じ200円もとってんのか。
隣の荒川区なんか京成に委託してて150円で乗れるのによ。 東武が営業所と車庫引き上げて後がまの茨急も縮小してて、なおかつ公費負担のコミュニティのまめバスが現金のみ100円均一赤字でも苦しんでる野田に、
いまだ東武が路線残してるのはすごいよ。 >>410
はるかぜはコミュニティバスだけど、自治体が主体的にやって運行を事業者に委託するよくあるコミュニティバスじゃないからな。
PFI方式で自治体は最低限のバス停や環境整備しかしてくれない。
普通のバスに近い。だから運賃もそんな感じ。
足立区内の路線バスが微妙だったからこんなことに。 >>411
むしろコミュバスが黒字の市町村ってあるのかね ムーバスは吉祥寺という人口が多くかつ道が狭い一方通行だらけの地域に
リエッセ走らせたというのが成功の要因で
関東や小田急が独自にリエッセ走らせればすむ話なので
コミュバスの成功例とするよりは
朝日の花田線が儲かっているのと同じなのかも知れんね コミュバスは自治体によるけど公共交通がない地域に走らせたり、病院を結んだりって
福祉方面を重視して路線を敷いてる自治体が多いから、黒字目的に走らせてるわけじゃない所が多いからねぇ
バス会社的にも貸切バスのような料金貰えて、しかも車両代も自治体から出して貰えるから美味しいらしいよ >>416
赤字補填の一般路線だと赤字の分だけ補填するから赤字にはならないけど黒字にもならない計算になるし
車両は他の路線との兼ね合いもあるが自由である反面自腹なんだよね。
その違いが典型的なのは上尾市循環バス「ぐるっとくん」と東武時代から赤字補填をしている上尾市運行バス(上尾〜東大宮間)。
同じ地区(上尾市原市地区)に上尾市が別の補助を出しているので上尾市運行バス自体が補助打ち切られ廃止されてもおかしくないのだが
地域的なものがあるのか今のところ運行が保たれている。
他の地域(大石や大谷地区)では東武の路線廃止=ぐるっとくん運行なのでその辺どうなのよって気はするが。 昔野田で、市の強い要請で野田市駅と市役所回る路線つくったら
コミュバスでも何でもないから補助もなんもなくてすぐお釈迦なったことがあったな。 昭和40年代までは市街地循環的な循環路線が結構あったんだけど
放射線状の路線の方が便利で結局大宮の天沼循環などくらいしか残らなかった。
大宮や熊谷市街地は3〜4ルートもあった。
野田市はワンマン初期の頃にやって失敗したものを今更やろうとしたというのが敗因。
ただあの頃はコミュバスという概念がなかったし、
自治体全額負担で貸切免許で無料市内循環をやる程に市の財政に予算がない場合仕方なかったろう。 コミュバスが制圧しているエリアで路線バスが残っているのは大抵の場合
コミュバスのエリアから外へ出る(市の中心部・本拠地や行政区域の外)か
それらに向かって短絡している場合が多い。
>>417の指摘する上尾市はその両方を持っていて
東大宮駅(さいたま市)〜原市地域〜上尾市役所〜上尾駅を短絡的に結んでいる。
上尾市内循環だと上平(六道経由伊奈学園高校方面)まで回ったりするしね。
確かに政治的福祉的な物は考えられるが清河寺回りの大宮や大石回りの上尾車庫が廃止されてから
上尾市内循環が運行されてるから廃止代替の意味はあっても廃止置き換えではないよ。 >>405
本社企画にバスヲタを置いて動かしている事業者もあるよ(ニヤリ
西武や関東バス、国際興業なんかもそれでうまく回ってた。
頭がよくコミュ力があればヲタの方が理解している分だけ有能。
野球嫌いなプロ野球選手はいないって事さ。 >>420
コミュバス自体は一般路線とは被らないようにするのが普通じゃない?
民業圧迫と言われかねないし >>422
被るようにすべきとは言ってないのだが?
コミュバスの中で民営が残れるのは自治体の外に出られるのと短絡的に結んでいるからという事例を挙げただけなんだが。
逆にコミュバスが短絡できるのならそれでもいいんじゃないですか? 前後扉でシートは何も考えず大量に並べただけ
こんなのが昔の東武のイメージ なんかまたクズどもが荒らしてるな
これだから昔の東武ヲタは >>419
大宮近辺の昔からあるバス停だと、以前の行き先やら路線図が消されつつも剥がれて残ってるものがあるね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています