昔の東武バスを語ろうよ!3
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深谷地区末期は本庄から回送してたしなぁ
もっとも、直営末期に新設された森林公園が小川町まで長距離回送していたように
東武としては回送距離より営業所の数が多い方がコストがかかっていたのかも? 白石車庫線の終バスは皆谷から森林公園まで回送でその距離約40km! >>169 続き
原市・沼南・丸山駅
東大宮駅〜砂団地〜瓦葺・がんセンター〜上尾駅東口(毎時2本、その後補助金バスへ)
原市地区が不便だったこともあり、そこそこ需要のあった路線。
しかしニューシャトルができると激変。
原市駅から大宮駅までが13分、沼南駅からも14分でつくので、わざわざ
東大宮に出る理由がなくなった。
志久駅:上尾駅東口〜小室志久〜伊奈役場
伊奈中央・羽貫駅:上尾駅東口〜六道〜伊奈役場
小室志久経由の伊奈役場行はニューシャトル開業後もそれほど本数は変わらなかったけれど、
六道経由伊奈役場行は、伊奈町の中心地を通ることもあり、日中でも毎時2〜3本、朝なら5本あった路線。
伊奈町の唯一の交通手段だったことで、乗車率はかなり良かった。
しかし、ニューシャトルで20分くらいで大宮駅まで出られるようになると、
やはりわざわざ上尾からという人もいなくなった。
拠点性を失ったことが上尾駅前が綺麗に整備されながら、近隣市町村より駅前商店街の衰退の速さを招いた。 東大宮駅からがんセンターに向かうバスがほんのわずかな時期にあったようですが
いつ頃の話ですか?尾山台・原市団地経由ですか?砂団地経由ですか? >>181
1984年頃までで、砂団地経由だったと思う。
記憶が曖昧。詳しい人お願いします。 >>168
大成は大66以外に大63も通ってた。
大63が西口に移った際に大66は三進自動車行から富士写真入口行に変更。
その後さいたま市の政令市化で宮原駅に伸びたが廃止。
大42については2002年にメディカルセンターから宮原駅へ区間延長。車両は1996年以降中型。 >>183
それはもう1990年代後半前後の話。
投稿者が主張したいのは、全体的に打撃を受けましたよということじゃないの?
そんなこと言いだしたら「三洋電機行」だって抜けてるし。
まあこれは、三洋電機自体がなくなったことによるけど。 >>184
183だが、ニューシャトル開業による影響は記憶がないので、
書いた内容は埼玉に来て、記憶がある1990年以降のもの。
183で書き忘れたが、三洋電機前行もあったな(後に岩谷産業前に変更)。
大宮の東口から出ていた当時の大63と大66の出入庫で、
系統番号は大41だった(西武バス
にも同じ系統番号はあるが無関係)。
大63と大66が西口発着になったのは1994年。その際に大41は廃止、
大66は出入庫の富士写真入口行になった。 三洋電機を語るなら日進経由三進自動車・大宮駅西口と松原住宅経由別所団地のツーマン系統は欠かせませんね。
大41から分かれて何でこんな狭い道を?と思うところに車掌誘導があるとはいえ全長10mクラスのバスが突っ込んでくるのは圧巻でした。
別所団地線が宮原駅西口発になった今でもその片鱗は駅を出てしばらく先で体感できますが。
また三洋電機には大宮商工会館から大成陸橋を渡り宮原一丁目で旧中山道に入る菖蒲上町行きもありましたね。 >>186
昭和28年まで鬼怒川〜田島間で滝ノ原に行く事は出来ました。
会津乗合に移管された後は野岩鉄道開業まで運行されていました。 22時代の最終のみの大41三洋電機前行き、懐かしい。
大42の中型限定もそろそろ解除できないものか…。 >>170
吉野原工業団地整備の一環で開発した土地に
当時は大47と宮05、そして現在の大53の本数を一定数確保する事で
バスターミナル機能を持たせる代わりに
車庫を丸々移転させるという条件だったそうですが、
蓋を開けれ見ればご承知の通りです。
つつじが丘公園の横から宮05や尾52に乗る稀な客以外は
停留所すら不要な状態に……。
今後出方次第では大53が増える=大51と尾52が減便と見ているのですが。
>>189
大42は現状でちょうどいい本数とちょうどいい輸送力ですので。
中型限定の「朝日自動車方式」でこのまま続けると思われます。
むしろ更に別所団地を終日中型化して宮原駅発着路線の完全中型化を行い、
別所団地線の本数増と別所町北端部(上尾市西宮下方面)への延伸を期待したいところです。 「朝日自動車方式」もグループまでは徹底されていない?
川越観光が大型を入れてるのも謎 >>191
川観は単に鳩山ニュータウン系統が運び切れないからで鴻巣とかは中型でやってる
運び切れないという理由なら国際十王も朝日本体(本庄の早稲田)ですらも大型は存在する
限られた時間帯だけのラッシュ輸送なら中型で本数増やす(朝日菖蒲の上尾系統や寄ってたかっての鴻巣免許センターなど)方向だが
その場合人的にも車両的にもコストが増える
大型1両でちょうどいい客数に中型2両持ってくるのが裏を返すと朝日系のデメリット 昭和59年と63年の館林市地図を見比べるとバス路線がなくなってる 過疎ってるからたわいもない事書き込むけど、
蓮田駅〜上大崎〜菖蒲仲橋の路線は、本当に味があってよかった。
本線から外れた集落をだらだら右へ左へと寄っていく様は、
これぞ東武バスの路線という感じだった。
オレンジに塗り替えられたBU10が走る様は、今でも記憶に残ってるけど
写真を撮っておけばよかったと後悔してる。 バイパスが開通して旧道を通るようになったせいで右へ左へいってるように見えるって路線もあるね ttps://www.youtube.com/watch?v=DCaQgk61B_w
0:28位から東武バスが少しだけ映ってる。 >>193
東武バスの館林撤退は1986年3月
館林に最後までいたのは7596 >>198
前中ドア?
前後ドアの6319〜6322は越谷にいたな バスジャパンに東武バスアーカイブ出してくれないかと期待してるんだが 今回のローカル路線バスが水戸-長野だったので東武全盛期だったらなと思うところが幾つもあった >>202
今回のって古河から境車庫へいって埼玉からまわっていくのが正解だったのかねぇ
太田からは比較的スムーズにいけてたし、太田へは埼玉からアクセスしやすいから1日稼げた予感 >>202-203
全盛期だったら水戸から高崎まで全部東武で途中歩かずにつながったんだろうか。
古河から境車庫とか、もっと手前の土浦から水海道〜岩井〜北越谷とか、とにかく埼玉に入るのが
どうやら正解だったみたいで あの番組って想定ルートは歩かないでも行けるように組んでるのかな?
横川駅まで歩いていかないとならないのは回避ルートあるのだろうか
草津の方から長野に出るバスってあるのかな >>205
歩き前提
埼玉は前通った時てこずったからねえ 昭和54年の東武時刻表を見ると水戸から高崎までは東武だけで行けるね そう言えば東武もスポンサーなんだよな
東武ワールドスクエアが提供各社に名を連ねてる 埼玉脱出で群馬に行く事を考えるとアウトになる場所が変わるだけじゃない?
埼玉脱出できても群馬〜長野とかどうする気だったのか >>210
太田だかで実際に乗車したルートに合流すればあとは上田の案内所の人が言ってた終バスに乗り継げたんだよ 今回は栃木〜群馬あたりのコミュバスで時間食ってるから
あれは埼玉経由で単純に時間計算しても1日丸々浮かせられる
1日浮かせられれば上田から前回通ったルートで長野に出られる 最もそういう失敗も含めて番組として成り立ってるからゴールできるのが正解とは限らないんだけども というかこの手の元祖のTBSのそこが知りたいって番組の頃は
路線網が充実していたというのもあるが
日本バス友の会や製先スタッフがが事業者に事前に調査し
絶対に失敗しないように手配していたからね。
逆に事前に分かっている(取材許可を得る為に事前申請は必要)ので
事業者が新車を用意してしまうのが悩みの種だったとか。
まぁ新車が導入されない群馬栃木茨城の常勝オレンジ軍団では関係ない話だったんだけどw 製先スタッフがが=制作スタッフが
今でも取材許可自体は事前に申請しないとだろうから
成功がわかっててもそのルートを避けたのかも。 申請しても許可が下りないとこもあるらしいね
大都市圏なんだろうけど 許可が出ないところは車内での撮影がないだけ
外から映るだけのシーンになる 埼玉行っても東武動物公園からがないし、熊谷まで行けば太田に出られるけどそこまでがとんでもないよ。加須、羽生、行田エリアも壊滅的だし。
やはり水戸→友部→笠間へ行ってちょっと歩いてでも岩瀬・下館→小山のルートのほうがよかったと思いますよ。ちょっと南下しすぎたし、古河は
NGワードだと個人的に思っていた。ただ、三国橋を渡って道の駅北川辺まで行けば一気に栃木駅までコミュニティがあったんですよ。 TO〜B Deluxe
貸切あんなにいたのに一瞬で消えちゃったね。ブルーリボンかっこよかった >>219
2000年の規制緩和でやっていけないと悟ったからグループを巻き込んで大整理
ESPみたいな事故を見ると東武の判断は正しかったのかもしれない >218
桜川市と筑西市は東武どころか関鉄まで撤退してる地域なのでコミュニティバスすらない
水戸線沿いを選ぶとちょっとどころか丸一日歩く距離を歩くことになる >>218 東武の笠間は94年まであったらしいけど
末期は水戸〜赤塚〜飯島・杉崎・笠間車庫だけだったらしいし
90年の時点で笠間市の境の桃山(茨交が現在も運転)から下館までは
路線がなかったらしい。水戸線に乗ればわかるが岩瀬とか新治当たりの廃れ方は
すごい。関鉄の岩瀬〜筑波山口もなくなってコミもなくて30年前の館林状態だね 岩瀬と言えば益子からの東野バスもあった。形ばかりの本数だったが。
岩瀬と茂木の東野拠点は、駅からはわかりにくい場所にミニマムな車庫を備えていた。 茨城にあった、結城モータープールと小塙車庫って同じ? >>225 岩瀬は掘っ立て小屋みたいのにCCMが止まってるの見たなあ 当時は珍しくもないから写真撮らなかったのが惜しい >>227
岩瀬の東野、メトロ窓のCCMだった。写ルンですで撮ったがプリントは散逸…
下館八丁台は路線が無くなり、最後は貸切の配置だけだった。車庫も取り壊し、敷地の隅っこにブルリやセレガが停めてあった。 >>228 そうそう メトロ窓でフロントにでっかい幕付けてる奴ね 写真撮っておけば良かったorz 下館八丁台は東武撤退後は東野交通の観光車庫になり
圏央道ができるときに下妻に移転してんだっけ
その下妻車庫は東武バス>茨城急行(工場)>東野交通
だったかと 東武が撤退して子会社にも移管されなかった両毛線の栃木〜水戸線福原は
壊滅的だな。小山なんて新幹線駅なのに路線バスと言えばハイエースとポンチョだし
唯一結城市は古河との境の七五三場と茂呂あたりに東武が来てるがあの本数じゃ
いつ消えてもおかしくない。あと朝日系の時刻表が全く使い物にならないんだけど
あんなんで地元民は使えるの? 子会社以外でも路線移管を引き受けるバス会社が無いほど採算性が怪しい地区だったんだよな 関東自動車も県南から事実上撤退してるからなあ
小山は営業所あるけど一般路線担当してないし 小山市のバスの衰退ぶりは凄いな。
東武→関東自動車→コミュニティバス。
関東自動車も昔は、石橋駅〜自治医大病院〜小山駅
という路線もあったのに。鉄道と平行路線は厳しいか。
東武バスは小山ゆうえんち行きとかあったな。 >>236
関東自動車時代も小山ゆうえんち行きはあった
小山ゆうえんちが無くなって路線も消滅したか? 結局のところ東武と関東でエリア争いやって疲弊して共倒れ。
大島教授の言う群馬での対上毛ならまだ山道で自家用車が普及するまで集落があればバスの需要があったから
どちらかのバスが来て欲しいというのもあったけど、
野木町の佐川野や壬生市街みたいに平地の十字交差点で東武と関東とで奪い合ったら客も半減するし。 東武の旧足利路線って割と引き継がれてるみたいだな
小俣北町〜足利〜行動山とか岡崎山〜富田〜足利〜松田町なんか
分割はされてるけどそのまま残ってて吃驚した。 >>240
足利の山の方はまだ街に出るのにバスの需要があったし
東武撤退後も残す必要性があったから。
問題は越境する路線、特に東毛方面へ。 市が運営してるコミュバスって採算性は度外視で各地区と駅を結ぶようなパターンがほとんどだから
需要があるから走らせてる・・・と考えるには厳しい
さらに東武撤退後からコミュバス運行まで長い空白期間があったから需要は激減してるだろうからね 桐生市内から東武バスが全面撤退の時は、市に移管した山間部の区間だけ飛び地で残ったし、
手前の桐生天神町からの路線は小学生が通学に使っているのに廃止と、当時のNHKテレビのニュースでやっていたな。
館林市は東武バスが全面撤退で路線バスの無い市に一時期なったし。
今は、私鉄が撤退することになれば、市直営がコミュニティバスに切り替えることをやっているからなあ。
コミュニティバスという発想がもう少し早く出ていれば、館林市も路線バスの無い市にはならなかっただろうな。 >>242
それもあるけど、一部の例をのぞいてその自治体の境界内で運行されることが多い。
だから、市区町村外に通院している病院がある、通っている人が多い高校や大学がある場合、通院、通学の役に立たないこともしばしば。 小山市の場合。
東武+関東自動車の2社時代→東武撤退→関東自動車の路線バス廃止で市のコミュニティバスのみへ。
一時期、しおや交通が関東自動車の採算の取れる路線を引き継ぐと言ったけど、コミュニティバスが路線を延長する話が出て、小山市と揉めてやめたとか。
今でも、しおや交通のバス停は放置したままか?
鬼怒川温泉地区でやったように、村営バスより5分前に出て、運賃も安くするような「嫌がらせ」までして、走らせるメリットは内だろうな、観光地じゃないし。それに、コミュニティバスは100円?だし。 群馬の館林営業所が太田営業所の出張所に格下げになった頃。
平日の朝九時頃、回送バスが3台連なって太田営業所に帰ってくるのを見たことがある。
館林方面からの回送?だから、館林駅前発着路線の朝夕の運用、あるいは企業と契約の通勤バスで運行したあとだろうか。
3台とも前後ドアの日野の路洗車だったし、館林が出張所になった時に減車した分のフォローか?
あと、朝一番の尾島三菱電機ゆきは二台だったような。
途中道幅が狭い区間があって、中型限定路線だった。
宝町まで路線短縮前に、木崎駅前(といっても、移転する前の木崎自動車教習所の前にバス停が…)から太田駅まで夕方乗ったけど、尾島三菱電機に出張できた三菱電機関係者と思われる人が一人と俺だけだった。
運転手さんが三菱電機の人にもうすぐこの路線廃止になるんです、なんて話していた。
大手私鉄の東武鉄道が運行している路線バスで、会社全体を見て黒字だから、国から補助金が出ず、県と沿線市町村の補助金だけだから、東毛地区の路線バスは早々に壊滅的になってしまった。
他社がやっていたら、多少は延命しただろうな。
群馬中央バスも伊勢崎駅〜木崎駅の路線があって、1983年当時で、朝夕1本だった?
夕方、木崎駅行きを見かけたけどお客は一人しか乗っていなかったな。 今の朝日自動車レベルまでに待遇落としてたら多少は残っていたか?
運転士不足で山間部の路線は撤退不可避だったかな 朝日どころか東武バス日光ぐらいまで待遇落とさないと維持難しいかもしれん 採算とれるような路線だったら他のバス会社や地元のタクシー会社が引き受けてるだろうよ
北関東の東武撤退地区でもそうやって東武グループ外の会社が引き受けてる路線が結構ある
朝日みたいな純血の東武グループが引き受けてる所ははもう美味しい路線の証だろう 東武って労使双方とも一昔前の頭で、地方分社化の流れが遅かったのが致命的廃止ラッシュを招いたようにも思う。
福利厚生とか保険とかグループ単位で、後はわけちゃえばよかったのにね。 今の東武バスが分社化しているように、1980年代に東武バス埼玉北、東武バス群馬と東武バス栃木、東武バス茨城とか、大きいけど県単位で分社化すれば良かったな。 >>251
比較的採算が取れる地区だったのか群馬は関越交通に移管されてるよ 元々東武労組がバス分社化に反対してたからね
だから東武としては引き受けてくれる会社がなければ撤退しかなかった
でも1980年代の北関東の車社会化の流れは凄かったし
分社化されてても、結局現在までにほとんどの路線は廃止されていたんじゃないかと思う
当時他社が引き受けたドル箱路線すら、今は相当厳しい状態になってる
一方でバス分社化までの流れも、90年代後半になると越谷みたいな都心に近い所まで移管に手を付け始めた事から
会社は東武バスを消滅させる気だと労組も焦ったんじゃないかな
朝日系は東武からの運転手を一切引き受けなかったから、運転手の長時間通勤がますます酷くなるということで
それまでバスの分社化を認めなかった労組も折れざる得なかった
お陰で今は群馬や栃木から都内まで通勤してる運転手までいる始末 東武バスの運転手さんで栃木県や群馬県から都内に通勤!
時が不規則だから自家用車通勤か。
高崎経済大学の先生の本か何かに書いてあったけど、埼玉県内で団地路線が増えた時に、出張あつかいで北関東の営業所の運転手が期間限定で応援にいったとか。
それが、転属でずっとみたいな感じに… >>246
もし東毛地区が群中+関東でやっていたとしたらもっと早いうちになくなってた可能性もある。
東武が1985年に撤退するエリアなら1980年頃って感じだろうか。
まだ鉄道と一体になったフィーダー輸送という思い入れや
強い労組が廃止をとどまらせた部分もあるしね。 >>259
群中が受け持っていたら史実の群中の太田発着撤退までは何だかんだで持ちこたえそう。
関東自動車が受け持っていたら多分史実の東武バス撤退よりは前倒しになるかも。
東武に関しては労使共に硬直化していたのがとても残念。
地域子会社とか、自らの資本が入ったバス会社への移譲とか他の大手私鉄や大規模バス会社が着手していたようなことをもっと早くやっていれば随分結果は違ったと思う。 労組本部にとってはバス分社化によって労組が分割され弱体化する恐れがあったから
認めたくなかったというのが大きいのではないかな
バス部門側もとっても鉄道と同じ会社であるがゆえに鉄道従業員と同じ給料が貰えて
バス運転手としては相当条件の良い会社として知られていた
ゆえにバス分社化に伴う大幅な給料引き下げで出ていった人が多かった
分社化後に入った人はさらに低い給料で朝日同等か正社員になれなければそれ以下のレベルになっている
今の東武バス地域会社も地域ごとの給料条件というのは表向きの話で
分割させて労組を強くさせたくない会社の思惑もあるんじゃないかと疑ってしまうw 郡中は1983年当時は、新島に太田営業所があって、新島〜太田駅〜新田〜伊勢崎駅〜前橋駅なんてロング路線や、1日一本大間々行、伊勢崎駅〜新田〜(太田バイパス)〜太田駅南口が平日に朝夕一往復あったな。
それに、太田市で郡中タクシーもあったな。 >>262
群中は東武を含めた群馬県の他の事業者よりも意欲的な印象はある。
冷房化を進めるのも早かったし。
群中って決して恵まれたエリアではなかったのにね。
観光地で荒稼ぎ、ってわけにもいかなかったし。それ故危機感あったのかな。 >>261
東京西部の某社の分社化がその理由だと聞いたががそうなんだろうか?
今は分社化しても応援や広域配車が出来るようになったから
(さいたま国際がなくなった理由はかつては出来なかったらと聞いた)
車庫単位で分社化できるようになったけどねぇ。
>>262
その時代だと都市間を結ぶ幹線がそのレベルで支線は壊滅なんだよ。
70年代の群中は営業努力はしていたんだけどエリア的に分が悪過ぎた。
これが群バスのエリアだったらもう少し持ちこたえられたのかも知れんね。 >>265
よく言われたのが、群中の意欲や能力で群バスエリアならかなり盤石な会社ができたと。
群バスの意欲や能力で群中エリアだと、昭和の終わりか平成ひと桁までには貸切専業+自治体バスを受託できるかどうかになっていたかもね。
群バスは人が流失しすぎてダイヤも組むのが大変で、大昔のダイヤや乗番を適宜間引きして作ったようなダイヤ+その後の新路線は新路線完結でダイヤ作っている状態だし。 群馬バスも群馬中央バスは元は同じ会社だからなあ。
内紛があって組合が作った会社が群馬中央バス。
会社を分けるときにエリアが逆だったらどうなったんだろう?
群馬バスは東急系になって、不動産業もやってその後会社が傾いた。
そして組合が作った、新・群馬バスに。
群馬バスの経営者は二度も組合に反発されているから、経営者としてはだめだったんだろうな。 >>267
むしろ群バス労組の二度目は東急が放り出した→第一交通産業にちょっかい出された
ってところが大きいんじゃないかな?
東急は箱根山の合戦で陣取りした地方子会社が重荷になっていたけど
東急そのものがヤバくなったのは別の理由なんだよね。
タクシーを日本交通に譲ったように綺麗に処理できればよかったんだけど。
東武は野心がないのが結果的にうまく行ったが
悪く言えば旧仙南交通も会津乗合や常磐交通も救えなかったって事になる。
まぁ箱根山の陣取りには中立で逃げ切った賢さはあった。 >>268
東武や野心も何も、とにかく何もしなかった感が強い。
赤城山戦争くらい? 東武バスに野心があったら、西武VS小田急(東急)のように、東武VS群馬バス(東急)を派手にやって、群バスエリアの信越線エリアの路線まで食い込んだだろうな。
東急のやり方のように、上毛電鉄を乗っ取って、東武系の子会社にして群バスとあらそわせたとか。 朝日もグループ離脱するしね。
しかも引き受け会社の社名があさひw 東武鉄道の会社としての考えでバス部門を全部朝日自動車にしてしまおうという考えがあったとか。
それを知った組合がバス部門の分社化をのんだというのが前の方のスレにあったけど、朝日自動車が東武グループを離れるとなると、協調関係から敵対関係に変化してしまわないかな。
例えば、東武バス日光と日光交通。東武バス日光のエリアに日光交通が新路線や競合路線を作って対抗とか。 >>272って朝日スレであさひバスって妄想たれてるいつもの子じゃないの?
系列会社というのがどういうものか全く理解してない あれだろ。関西以西のバス会社のスレであさひ美容バスなんたらかんたらと荒らし書き込みを垂れ流している手合い。
あさひ美容外科というのは、関西人には馴染みが深いのかもしれんが関東人は何それ?と反応するのが殆どだろ。 >>270
戦前からの京成との因縁を教訓に
東急も西武も敵に回さなかったのが東武のやり方だからね。
その辺の立ち回りは地政学的にも歴史や背景的にも
東武以外には出来なかっただろう
(しいて言えば同じ振る舞いが出来たのはトロッピーくらいか)。
>>271
片側2列で全列横向き可のフル回転シートサロンが富士重R3が出た時に導入したくらいかな。
貸切冷房車の導入が昭和38年頃、スーパーハイデッカーの導入が昭和60年で関東では早い方なんだけど、
特に目立ったものではなかった。質より量を求めたのは関東大手の必然だからね。
逆にいろは坂対策で昭和40年代中盤に特注の短尺で非冷房車を大量導入したのが後に足かせになるのだが
ライバルが群馬各社や同様に質より量を求めた関東自動車(栃木)、国際興業や秩父鉄道では問題ないレベルだったか。 >>276 片側二列のR3なんていたんだ 驚き。当時のパンフ見たいなあ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています