三菱電機の全盛期、とにかくエレベーター事業は儲かった。売ってよし保守してよしのドル箱だった。
当時は海外製エレベーターで事故が相次ぎ国内製への関心が高まっていた事や、国の法令サポートも合わさり、とにかく売って売って売りまくった。

辺り一面が三菱のエレベーターとなりシェアNo.1などと言い始めた頃、エレベーター業界の価格競争が始まった。
三菱電機も慌ててエレベーターの価格を下げ、現在の1円スマホのように維持費で儲ける方針へとシフトして行った。とにかく広げれば価値(勝ち)という戦略であった。

しかしその頃、既に格安のメンテナンス業者が多数誕生していた。消費者の間では安くエレベーターを手に入れ、格安の業者にメンテナンスさせる手法が流行した。
それに焦りを感じた三菱電機はエレベーターを今のような「高級品路線」へと方向転換し、一方で旧三菱ビルテクノサービスはメンテナンス費用を下げる方針へと移行した。これが悪手であった。

過去売りまくって風呂敷を広げすぎた事から、メンテナンス件数は多いのに単価が低くて儲からない。本体は高くて売れないから給料は上がらず、仕事は一生忙しい。皆も良く知っている弊社の誕生である。