世界最強の男
北斗神拳は、考えれば考えるほど難しい。
人体自体が、五層の世界をあらわしているらしい。
胸の当たりの構えは、狭義のやや人間界よりやや下の世界らしい。
構えが腹の当たりにになると、それは地下の世界をあらわしている。
顎より下は、神界より下の世界。
だからそのあたりで構えてもみても北斗の神の世界へ通じるはずはない。
北斗相伝者は、サッーと両手が上に挙げられる構えとなってしまう。
それこそ相伝者は咄嗟のうちにである。
この辺にも天地人の摂理が働いている。
そこで一般の武芸の構えは、北斗の境地を表わしていないということになるらしい。
達人が、思わず両腕が頭上に挙げられる場合は、原理は同じである。
胸の当たりの構えでは、北斗の志向は、北斗の神に届かないのである。 >>75
良いんだの余剰だのそんなのは妄想の世界じゃないか?
>>76
そりゃ実在しない拳法の事を考えるのは難しいわな 井上尚弥が、ゴングが鳴っていきなり飛び出して、顔にパンチが当たり、
ダウンしていた。
もう一度、そのパンチを出してみろと言われても、相手の選手ネリは
再現はできない。世界中の観客が、もう一度、そのネリ・パンチを再現しろと応援していたが、
出ないまま試合が終わってしまった。再現できない突きという技の存在もある。
再現できない技だからといって、想像ともいえない。
再現できない技を達人は磨いている。
井上は再現できるはずがない再現井上パンチを出していた。 松尾芭蕉なんて、伊賀の忍者で旅をしながら、俳句も歌っていた。
能=アクロバットというより、能=神事。
オペラやミュージカルとは全く違う。
囃子方(はやしかた)は「囃(はや)すは「生やす」に通じる。
何もないところに、何かを生じさせる。
それが生やす人=囃子方の役割である。
空(くう)なる場にエネルギーを呼び込み、達人は、
さらにそのエネルギーを活性化させることによって、戦い全体をグループ
させる。
返せや返せ。昔の秋を。今宵の秋風、身にしみじみと、
恋しき昔 忍ばしきは閶浮の
秋よ友よと、思ひ居れば、
夜も既にしらしらと
はやあさまにもなりぬれば 北斗の神は、ケンシロウを思想的に絶体絶命の窮地に追い込むことになった。
ここに、ケンシロウは韜晦者(とうかいしゃ)たらざるを得なかった直接の理由を
見出すのである。ケンシロウの韜晦は完全に成功し、彼の思想的危機は誰にも気づかれる
ことなく現代にいたる。では彼は何故自己の理想を韜晦せざるを得なかったのであろうか。
200X世紀末という時点における、ラオウ、ケンシロウという、
それぞれ強大な体系を背負い、相互に親和と反発の不思議な縁で結ばれた二人の偉大な思想家、そして
武芸家の置かれた状況を一瞥しなければならない。
ラオウとの戦いによって、ケンシロウは、一躍新時代の武芸の中心に位置を占めることになる。
ケンシロウは、神拳創始以来の七乗と一乗の観照主義の北斗武技を身にまとった。 カタカムナによると、
ケ=放出、十字の左上に小円、右下に小円。
ン=タテ線に小円一つの図象で、現行カタカナ文字の原型であることを示している。
小円は、イ・シ・ソの図象と同じ位置であり、タテ線はそれが発生するキワの存在を示している。
ンは他の四十七の声音のすべてにつけて、「アン・イン・ウン...」のように言葉をつくることができる声音である。
そこでンは他の四十七の声音に抽象される状態を発生させるということから、起励力を示すのがンの思念である。
シ=大円の左半球(現象系を示す)一個の小円で作られ、小円の位置がイ、ソ、ンと同じポイント
にあることから、シの思念がわかる。シめす(示す)のシであり、示されたもの、示しているヌシを表わしている
思念がある。
ロ=空間、抜ける。タテ線に左下に小円と右上に小円。トコロ=空間、トキ=時間。
ウ=上半円と十字象と小円一個でつくられている。上半円は現象界を表わし、十字はカムウツシやアマウツシ、
すなわちカムやアマのチカラが潜象世界から現象世界に現われることを示す。
小円の位置がミ・チ・ラの図象と同じ位置にあることから、ウは潜象から現象にものが発生する状態を
とらえたのがウの思念である。すなわち生まれるのウである。 時間という把握不可能なエネルギー物質が、
我々の世界に現象化したものが、拳の先の力である。
拳の先の力が、我々の世界の中に表れた時間の文(もん)である。
想念の世界に存在しているものは、その想念を降す。
北斗の神界に存在している神拳の技は、その神拳の技を我々の世界に降す。 いろいろとあるのだけど、
まあ、ベルトも一つの威嚇することができる。
囲まれた場合、自分のベルトをはずして、
ベルトの両端をもち、ベルトを引っ張ると、バシッと音がする。
その音だけで、目の前の集団は、一瞬で理解する。
わかると思うけど、ベルトの両端を引っ張る音だけで、相手は理解する。
次の段階として、ベルトの片方の力を抜いて、垂らす。
そして、伸びたベルト一本の端を持ちながら、叩く。例えば、机とか、柱とか、地面。
その音だけで、さらにビビル。つまり、拳をいちいち突き出さなくても、
ベルトのしなる音だけで、その響きだけで、相手はイメージができてしまうのである。
やばい場合は、ベルトが頬(ほほ)に当たれば、確実に肉片は飛び散ることがイメージできてしまう。
競馬の騎手が、尻を叩いているが、あれって、人間がやられると、肉片が飛ぶし、紫色に変色する。
北斗神拳の使い手が、その拳にベルトを持てば、神速ベルトになり、さらに進化、変化を遂げて行く。
一例である。わかると思うけど、柔らかいゴムの方で、相手を叩く。
そら鉄の部分は、手に持つ側である。一瞬で、ベルトの先を、思った箇所に当てる技術がある。
つまりボクサーでも一撃である。そのベルトの速度は、目に見えない。 ラオウもトキも
北斗七星こそ北斗神拳だと、北斗七星を固定してかんがえているのかもしれない。
北斗七星はS∽北斗七星なのである。
ある意味で、トキ、ラオウこそ北斗神拳の純粋北斗伝承者なのかもしれない。
北斗七星を固定しているからである。
しかし北斗はS∽渦回転している。
逆北斗S∽渦回転も同時にしているのである。反転回転している北斗神拳も存在している。
その場合、1→2→3→4→5→6→7と同時に7→6→5→4→3→2→1
と増数、減数の北斗の術を同時に使っている。
北斗七星は、同時に北斗八星であり、同時に北斗九星であり、備時に、北斗一星の拳でもあるのである。
ケンシロウ以外は、輪廻型北斗が使えないのは、この観念にあるのかもしれない。
これは七の拳だと受けたのが、実は逆七の数字の拳を受けていたのである。
ケンシロウは、ラオウの正七神拳の突きを、ケンシロウは渦逆七拳受けで受けていた。
つまり、ブランコの揺れが、最大位置に来た途端、流れが反転するように、
ケンシロウの七拳が、最大位置に来た途端に、反転七拳に変わるように秘孔を 打っているのである。ブランコが力が反転する瞬間、力はゼロ量である。
そこを突くゼロと突かれるゼロの点において秘孔を目指す。
しかしケンシロウが突いた腕を急いで引き戻す腕の流れは、実は、逆七ではなく、
正七の拳なのである。引いているのではなく、突いている。突いているのではなく、引く渦逆渦なのである。
相手は秘孔を突かれ、その後の時間は正時間の流れのため痛みを感じない。
しかしケンシロウの突きは、逆七秘孔なので、逆渦時間の流れのため、痛みを感じない後の痛み化とする。
それにおいて、完全破壊の拳化が可能となった。12の反対は6なので6の拳。
7の反対は、1なので1時の拳である。5の拳は、11時の拳となる。11時の拳を受けたと思った時は、
それは5時の時空間の拳である。ケンシロウの北斗は、渦S∽北斗なのだろう。 西坂祐瑞の「内臓洗練法」がいいのかもしれない。
西坂師は身体の反応に注意して行なった。
その結果、漠然と身体の各部に軟酥のエッセンスが滲みこむ様を
イメージするよりも、各内臓を上から順に、その部位と形を
はっきりとイメージしたほうが効果が上がることを発見したのである。
この近代解剖学的な軟酥法に、彼は内臓洗練法と名づけた。
つぎに、西坂は、こころの座である識心から身体各部にイメージを送ると、
それがあたかも波動が伝播するように伝わることから、その波動を識波と呼んだのである。
順序を立てて識波の外科的手術を試みた。
刃物を強くイメージ波動が肺尖から下部に向け肺臓を貫くように閃送した。
イメージ上の刃物が鋭く激しく肺を切り刻むように観念するとともに、内臓洗練法も適時実行した。
息を吸うと同時に識心を集中、息を吐く動作に移る瞬間、イイッという思いで集中しsた識心の
波動を勢いよく患部の中心に瞬間的に貫通させる。
識心の波動(識波)を鋭い刃物であるとイメージし、その刃物が患部を貫くさまを同時にイメージする。
イメージの刃物の選択は経験によるが、イメージのメスで切り裂き、イメージのミシン針でぬい、イメージのノミで貫くなど。
刃物の先端を下に向けること。
ただし、関節炎、傷、肺疾患などは観念のみ行ない安静を守ること。
西坂式北斗秘孔をすればいいのかもしれない。
つまり、秘孔をついた後、イメージのミシン針で傷口を縫ってあげるところまでイメージをしてあげなければ
ならない。これが西坂式みたいである。 ☷
☳
北斗神拳伝承者とは、一陽来復の武技なのだろう。
☷+☳ 最後に、秘孔をつく。 ☷
☳
火の始めとしての、拳をつく。
火気復活としての、右ふとももにけり。
火気再生として、にぎりをやや柔らかくする。
火気発生として、秘孔をつく。
火の法則を巧みに操って祭り(武技)をする。
火気再生を促し、火気の再生を祈る北斗神拳。
神界では、人間は呼吸するのだろうか。
ある器官について説明してみたい。喉頭と気管を取り上げてみる。
私たちは気管で絶えず空気を吸ったり、吐いたりしている。
このような活動を人間はしている。
空気は絶えず喉頭をとおって、外からなかに入ってくる。
神界の中に存在する達人は、体の中に入ってくる空気は、
いつも神的なものと結びつく。
神界で生活する人間の呼吸は、今日の体に適した形態をうしないます。
そうして、達人は神界的なものすべてを、より高次の、神化された形態へと
変化させる力を有する。肉体的な喉頭がなくなったあと、
空気を吸わなくて、神界を歩くのである。
神界での生活では、人間は、呼吸をしているようで、呼吸をしなくても生活ができるのである。
北斗神拳の一子相伝者は、呼吸をしなくても北斗神拳を使うことが地上でできるのではないかと
考える。ラオウは、息をしているが、ケンシロウは呼吸をしているようで、実は、
神界的喉頭をもっているため、息を吸ったり、吐いたりしなくても、強烈な秘孔を打つことができる。
火の始めとしての、拳つく。 宮本武蔵は、お茶漬けを食べながら、
そのハシで、飛んでいる虫をはさんだと言っている。
これは、どういうことなのだろうか。
このような練習を、武蔵はしていないはずである。
練習をしていないが、自然に出来るのだろう。
ものすごい精密で、スピードあるということなのだろう。
お茶漬けの米一粒一粒をハシでよそいながら山をつくる。
普通は、米をかき集めながら、一気に山をハシの上につくるのだが、
武蔵は、茶碗の中の米が、移動していると想定し、一粒一粒を一瞬ではさみながら、山にしながら、
そのご飯を口元に運ぶ。山から口にするのではなく、一粒から山にして、口に入れているみたいだ。
これを北斗神拳で考えると、敵に囲まれても、
一粒、一粒大事にしていく感じなのかもしれない。 神拳とは、
人の悟(さとり)をうる、
水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。
北斗神拳で秘孔をつくとは、
自分のあり方を視つめるということである。
自分のあり方を視つめるというのは、
自分をわすれることである。
自分をわすれるというのは、自分の本来のあり方が、
実は意識以前の存在だということを知るためである。
そのときはじめて北斗神拳は生きてくる。
すなわち、神拳と名づけるゆえんである。
打つ、突く、踏み込む、こうした感覚的な確実性から、いろいろな意識の段階を経て、
絶対知の最も高い段階に至るまでの精神の展開、あるいは発展過程、これが北斗神拳である。 古代では、混沌からあらゆるものが合一して出てくるが、
月だけは神聖化している。五行では、水・火・土・風・木で、
月は五行外である。月を省いたことが時間軸をとめたとも考えられる。
ツクは月から出ている言葉だ。
古代人は精神集中することをツキと呼んだ。
着くも同じである。精神が届くわけである。
月こそ観念の自然的根拠そのものである。月は、空間の私有ということです。
北斗の七星の私有は、速度の私有と言ってもいい。