空手の型はやるだけ無駄と言う現実126
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空手家は型の意味を知っているのだろか?
知っていると豪語してもそれはただのこじつけではないのか?
現実離れした動作を繰り返す事で弊害が生じてはいないか?
型の分解や約束稽古をやる前にあえて型を練習する意味を型信者は答えられるのか?
その証拠に空手の型の動作で戦ったり相手を倒した例は一つもない
これらの疑問が解消されなければ空手の型はやるだけ無駄ということになる。
そして、これらの疑問がいまだに解消されていないのが現実である。
もちろん、空手の型は型競技、昇段審査、健康体操としてそれなりの意味がある。
しかし、それ以外の【型で武器を持った多人数と戦う】【人間技レベルでない武技を創出】等のスペシャル(笑)な効果を求めて稽古するのはやるだけ無駄という現実。
前スレ
空手の型はやるだけ無駄と言う現実125
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/budou/1611629552/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:: EXT was configured >>850
>伝統派の達人とはつまりは平安初段の達人で
フルコン空手の達人とはつまり平安二段の達人
だからね
こんなアホな事誰が言ったの? 型の真髄は体の外面の動きではなく外面を通して内側を鍛えることにある ここの人は空手の型ばかり議論にしてるけど
同じことが中国拳法の型にも言えるのでは? >>853
残念ながら言えない可能性の方が高い。第一に空手と違って中国拳法は数が多すぎるし
一つの流派や門派であっても系統が枝分かれし過ぎてる。あちこちの省にある聞いた事ない
農村に聞いた事ない拳法群がゴロゴロしてる。それは日本の空手の比じゃない数の規模。
だから一概に型の目線で套路をひとくくりにして語ることは出来ない
第ニに中国拳法は空手には無い、気の概念や勁の概念、呼吸法や武器術や各種の練功法などが
套路と結びついてる。それらが実戦で使えるかどうかはまったくの別問題だけどな。
つまり技術体系における套路の必要性や技術関連などの整備はとっくに終わっちゃってるわけ。
型がやるだけ無駄と言われるのは、必要性が確立されていないから。
型オタがバカにされるのは、必要性が無いのに無理やり弁護をしてるから。
なので、中国拳法みたいに型も必要性を確立させればいい。
実戦で使えるかどうかでなくても構わない。見栄えよくビシ!バシ!と型を出来るようにするためには
当然普段から型を練習しなければならない、というのであっても立派な一つの理由になる。むしろおすすめw >>854
その中国の日本人が知らないような武術まではわからんが
日本に入ってくるのはどれにもちゃんと勁の概念はあるからな
空手になると沖縄でもナイハンチやセーサンの意味がバラバラ
うちは昔ながらの空手と言う流派見てもバラバラ
沖縄拳法の先生が本部朝基のナイハンチの写真を見て「私がやってるのと一緒だ」的な事を言っていたが、本部の逸話でぶら下げた板を割る描写は沖縄拳法の突きとは違うし
元々型だけあって近代に各々が好き放題解釈してった説がしっくりくるわってくらい概念がバラバラ過ぎる >>850
ていうか、一人も出来ないのだから、使えないと言われても仕方ないんだよ。 >>853
言えるのかもしれないけど、よくわからんわ >>855
>本部の逸話でぶら下げた板を割る描写は
沖縄拳法が防具組手を始めたのは1960年代、という話は置いといて
本部の釣り下げた板を割る話は、どうなんだろうねこれ。個人的な見解でいえば
本当にそんな事があったのかな?と思うんだ。あった可能性も勿論あるだろうけどさ。
合気道の開祖(植芝)が、射撃場で軍人さんを横一列に並ばせて自分に向かって鉄砲を撃たせ
それを避けて距離を詰めて投げ飛ばした、という有名な話がある。植芝の証言では、撃つ前に
弾道が光の軌道で事前に見えるだの、距離を詰めるときは忍者のように前かがみになって走るだの
まあ夢と希望に溢れる話ではありますが、問題は植芝の証言といいつつもこの話を広めたのは高弟の
塩田が発端で、一説に塩田以外にそんな話は出てこないし塩田以前にそんな話も存在しなかったとのこと。
民間人に向かって6人もの軍人が一斉に発砲するなんて当時の常識では荒唐無稽だし
そもそもそんな理由じゃ射撃場の使用許可下りねーよ日本軍ナメんな、っていう見解もある。
ようするに何が言いたいかというと、良くも悪くも高弟が話を盛った。それと同じことが空手の世界でも行われたんじゃないかなと。 突きの威力がどうこうってのは、組手をやらないからこそ他の判断基準で優劣をつけるため
生まれる発想で、実際にストリートファイトをしていた本部が突きの威力にこだわっていた
というのは俺が調べた限りでは出てこないんだよな。
そもそも突きに威力があるなら一本拳なんかわざわざ使わなくてもいいわけだしさ。
威力を上げてダメージを与える、ではなく防御力の弱い箇所を狙って殴るというコスパの良い現実的な発想。
もっと根本的な話になると、そもそも吊るした状態の板を人の力で割れるのか?という物理的な問題も出て来る。
本部のこの逸話は有名だからマネする人が出てきてもおかしくないけど、やってる人見た事ないんだよな。
実際問題として、威力よりも確実に突きを当てれる精度の方が大事だと俺は思う。
想像してみて欲しい、手元にスタンガンがあったら、長い年月かけてボルトを必死に上げるよりも
まず先に確実に相手に押し当てれる技術を身につけるほうが先だと思わないか?
ちょっとくらいボルトが低かろうが、1〜2回相手に感電させればもう勝勢なんだしさ。
それと同じで、本部が吊るした板をどうこうってのをもし本当にやっていたのなら、割るではなく当てるため。
板を使った理由は吊るした状態で振り子のように動かしたときに、面の部分を狙って正確に当てれるようするため。
おそらく不規則に回転して動く板の面の部分を人の顔面に見立てて狙って当てる稽古をしてて、
その現場に居合わせた弟子が、後年話を盛ったんじゃないかと。まあ出来る限りに好意的に解釈しての話だけどね。
実際は、そんな稽古すらしてなくて弟子がでっちあげた可能性も高い。掛手で頬を叩いたとかの話も同様。言ったもん勝ち。 >>859
あぁそうだ、一本拳でも思ったわ
沖縄拳法の先生は使わないよなって 沖縄憲法が誇る突きを本部は使わずに得意なのは一本拳って別物じゃんと
話を盛るってのは沖縄の有名流派でも多いんでしょ?上○流とかさ
本土でも大東流は会津藩に伝わる武術じゃなくて実は武田が他の武術を学んで
作った説が最近では有力って話も聞く
師匠が「こうなんだ」と言ったら普通の道場生は歴史なんて研究しないから
「そうなんだ」って信じちゃうけど(俺もそうだった)
実は話を盛りまくりなのが武術界なのよね
だから「これが古伝の空手だ」と言われても「根拠は?」ってなる >元々型だけあって近代に各々が好き放題解釈してった説がしっくりくるわってくらい概念がバラバラ過ぎる
これ、ヒップホップのダンス動画
https://youtu.be/_9lsw2UksWA?t=6
この体の動きにどんな意味があるの?って聞いても、まあおそらくは
躍動感を表現したとか、緩急をつけたしなやかな動きを見せるのが目的とか、
そんな回答なんじゃないかな。意味というよりイメージに近い。
型も同じで、元は踊りだったから武道っぽく力強い様を表現しましたとか
キレのあるシャープな動きを表現しましたとか、そういうのが原初だと思うよ。
首里手のセーシャンや那覇手の三戦の両腕を曲げて力コブを誇示するような力感溢れる挙動とかさ
ウンスーの最初で手刀を下方向にシャッ!シャッ!と繰り出していったりとかさ
型の中にある意味が分からないけど何となく意味がありそうな動作というのは
それそのままに、大した意味はないけどそれっぽく見える動作というのが答え。
もちろん、ダンスによっては動作に物語性を付与したものもある。
恋人とデートの待ち合わせで遅刻して、ひたすら謝って、仲直りして、みたいなのをダンスを通して表現。
でも「実際のデートでそんな動きしてるヤツいない!」って言われても、それは言ってるヤツがむしろバカだよね。
同様に、型もそれっぽくだけではなく、ちゃんと意味が込められた型もあると思う。
下段払い追いつきは、相手の攻撃を払って突く、というそのまんまの意味。間合いは?とか指摘するヤツの方がバカ。
もともとそういうシロモノ、あるいはその程度のシロモノだったものを過大評価するバカが現れたから話がややこしくなっただけ。 >>860
いくら急所の顔面を殴ったとて、アドレナリンが分泌されて興奮状態にある人間には効きづらい場合もある。
だから一本拳は普通に殴るよりも指を故意に突出してる分、顔面殴ったときワンチャン目に入ればラッキーて
理由もあったんじゃないかと思う。痛みを感じなくても目視するセンサーがやられたら戦力大幅ダウンだしね。
>話を盛るってのは沖縄の有名流派でも多いんでしょ?上○流とかさ
盛ってるねえ。相手の肋骨を貫手で引っこ抜いたとかさ。
上地流の型の方が中国拳法の原型に近いとか剛柔流より古いみたいに言われてるけど実際は逆だからねえ。
剛柔流からパクった三戦を叩きやすいようわざわざ三方向への転進まで加えてさ。そこまでいくとある意味で清々しい。
>師匠が「こうなんだ」と言ったら普通の道場生は歴史なんて研究しないから
>「そうなんだ」って信じちゃうけど(俺もそうだった)
俺もそうだった。でも俺も貴方も、それ以外の多くの人も特別な人間ではなくて
「怪しいんじゃないの?」って指摘されたら「確かによく考えたら怪しいかもな」と
客観的に認めれる頭と心がある。でも世の中にはそういう指摘されても気づかないフリ
をする人が居る。便所の落書きですら本音を言わず自分にウソをつき続けるって、可哀相だなと思う。 上地の一番最初の弟子である友寄隆宏は上地に習う前は剛柔流の宮城に師事していたので
剛柔流の型の調達は可能。だけど習ってる期間はそれほど長くなかったので、基本とな三戦
とかは問題なくても、十三や三十六など上の型にいくほど修行期間の関係上習得は難しくなる。
おそらく十三はギリ習えたかもしれんが、三十六なんかは見学だけ。スーパーリンペーなんてもっての他。
上地流の型が三戦はよく似てても十三や三十六など上に行くに従い剛柔流と似なくなっていくのは
単純に上地の情報提供者である友寄の習得が追いつかず不十分だったことと比例している。
それでも十三ないし三十六は見る機会があったから何となく最初と最後の動作とか概要くらいはイメージできても
スーパーリンペーとかは見学する機会すらあまり無かったんじゃないかな。だから上地にスーパーリンペーが無いのは
中国での修行が不完全だったからとかじゃなくて、単純に上記のような理由。
まあ、他にもあまりパクり過ぎるとさすがに剛柔流から怒られるってのを懸念して三十六で打ち止めにしたってのもあると思う。
スレとはちょっと関係のない話でスマン。 >良くも悪くも高弟が話を盛った。それと同じことが空手の世界でも行われたんじゃないかなと。
自分の価値を高める方法として師匠の武勇伝を盛るのが手っ取り早いわな(笑) その通り。そして師匠がイマイチな人の場合は、習ってる先生ではなく、その師匠、さらに師匠
つまり先人を持ち上げる。自分が習ってる唐手は歴史上、こんな凄い人が居て〜〜。
そういう人が居ない場合、先生ではなく自分が習ってる型を持ち上げる。
自分が習ってる型はこんなに古くて〜〜。
習ってる先生がイマイチで習ってる型も改変されてた場合、他の持ち上げれるものを探す。
有名な中国拳法が源流で〜〜。一撃必殺の示現流の技術も入ってて〜〜。取手が〜〜、掛け手が〜〜
「私の道場でも型をやります。挙げ受けはハイキックのブロックの意味だと教えています。
総合の試合でも何人かの生徒が結果を残していますし、お疑いならこの場でスパーも構いませんよ?」
と平然と言える道場の方が、古伝でも何でもないけど潔いなと思う。 最初から型は役に立たなかった、踊り、ではなくもともとは実戦的な
技術を有していた、という立場で語ってみるけど
殺傷力ある殺人技術だけど、内にこもってるだけで発展性がない唐手。
それを本土に普及、ひいては沖縄の地位向上のために糸洲安恒が普及に
頑張ったと。体育用に平安という型を考案したと。
しかし本土の武道では他流試合も練習試合も当たり前、そのため剣道では
防具も発達してる。空手が防具をつけて実際の試合をするというのは
難しくなかったはず。
糸洲はすでにおじいちゃんだし沖縄にいたから仕方ない。それをする使命が
あったのは船腰義珍だったはず。現に講道館柔道は試合も異種格闘技戦も
バンバンやってどんどん栄えたとか。道なき道をゆけと言われたわけじゃない
船越の前にはレールが敷かれていたといっていい。講道館や剣道がもう手本を
見せている。なのに型以外教えなかった。試合とかになると説得力が
なくなるだろうと、全然自信なかったんだろうな。
本土の言葉が話せてコミュ力がある人材と言えば船越だったんだろうけど
弱かったことは間違いない。弱かろうが型に秘められた用法(くどいが
そういうものがあるという仮定で話を進める)を船越は直伝で
知らされていたぎりぎりの世代だったはずなのに。それも伝えなかった。
船越自身が型を健康体操以上のものとみてなかったんじゃないかな 型の効果否定派って中学生レベルのスポーツ理論しか言わないのな >>867
>道なき道をゆけと言われたわけじゃない
>船越の前にはレールが敷かれていたといっていい。講道館や剣道がもう手本を
>見せている。なのに型以外教えなかった。試合とかになると説得力が
>なくなるだろうと、全然自信なかったんだろうな。
う〜〜ん。これはちょっと難しい問題なんだけどさ、まず前提条件として
船越は、というか唐手というものは元来組手や試合を行うものではないのよ。
俺は船越の肩を持つ訳じゃないけど、講道館や剣道が手本を示してるのに自由組手や試合の開拓に
乗り出さなかったのは船越の責任、みたいに言うにはちょっと可哀相なんだ。
なぜかと言うと、あまり知られていないというか、みんな結構勘違いしてる話なんだけど
そもそも船越が沖縄に来るもっと前、屋部や糸州が沖縄の学校で教えていたその時代に
既に柔道や剣道は唐手なんかよりもとっくに学校の正科になって授業や部活で教えられてたの。
当然防具をつけての竹刀の打ち合いや柔道衣を着て乱捕りなんかも沖縄のあちこちでやってたわけ。
そしてその沖縄には当然船越はもちろん船越以外の唐手家もいっぱい居た。だから、船越が自由組手を
やらなかったから責められたり批難されたりするなら、それ以前に沖縄の唐手家全員の責任は?となるのよ。
で、俺は船越も含めて当時の沖縄の唐手家達に責任はこれっぽっちも無いと思う。
だって、そもそもからして防具をつけて殴りあったり、それが素手であっても組手をするものじゃないんだもの。
大事なのは船越が仮に弱かったとしても(というか、確実に弱かったと思うが)、さりとて弟子に自由組手を
させるかどうかは別問題なのよ。だって、自分は組手をしてこなかったから弱い、でも君達には強くなって欲しい
ということで組手を許可させてり奨励させる事だって出来るじゃん? でもしなかったのは、自分の実力とは別に
もっと根本的な問題として、唐手は実際に殴り合いをメインにするものじゃないのだから、反対するのはしょうがないのよ。 今これを読んでる人は多かれ少なかれ空手の経験があると思う。
貴方がもし貴方が東南アジアかどこかの地で、正しい日本の文化、正しい空手を
教えに行くことになったとする。生半可な気持ちではなく、出来うる限り正統な
ものを伝えようと決心していきました。
そこで現地の生徒に型を教えたら「先生、これからは多様性の時代です。教えてもらった型を改変して良いですか?」
「ボクシングの技術を知ってるのでそれを融合させて良いですか?」「拳銃と型を組み合わせた基本稽古を作りましょう!」
「殴られても痛くないように大麻を吸引して組手をするってのはどうでしょう?大麻は僕らの国では当たり前の文化ですし。」
例えば生徒がこういう事を提案してきたら、残念だけど空手はそういうものじゃないよと反対すると思うんだわ。俺ならそうする。
仮にボクシングの技術を取り入れるのが有効であっても、大麻を使ったほうが稽古の効率が良かったとしても
これからの時代、銃を想定しての分解や型の改変などをした方が有益だったとしても。
それでも反対すると思う。だって空手はそういうものじゃないから。個人でやるのはグレーゾーンだよね?
だけど、個人でやったとしても、それを彼らが現地で「空手」として横行する危険を考えたら、やっぱり反対するわ。
お前はいったい何を教えに行ったんだ?って事になる。部下が勝手にやった事なので私は責任取りません、とかいう
言い訳が社会で通用しないのと一緒。それでも時勢は変えられないのならその場から黙って身を引くのが唯一出来る抵抗。
だから船越は自由組手の模索で暴走した大学空手部の最高顧問の座を降りたわけだ。
もちろん、モノは言いようで「伝統に新しい風を吹き込む」とかいう名目で自由組手を模索する唐手家も
居ただろうけど、それはあくまで少数。沖縄の大多数の道場が本土普及前に自由組手を行わず、普及後も
やはり行わなかったのが一番モノ語ってる。逆に唐手にそれほど思いいれが無い人なら自由組手推奨するだろうけどね。 >そもそも船越が沖縄に来るもっと前、
間違えた。正しくは船越が「本土」に来るもっと前、ね。
で、沖縄では組手(どころか約束組手を含めた対人稽古全般)をやらないのが主流だった沖縄を
やっぱ唐手家は組手をしてナンボでしょ? と新風を吹き込んでくれたのが上地流。
>>863でディスってるように書いたけど、上地のおかげで沖縄の唐手のあり方も幾分変わったのは事実。
ありがたやありがたや。 船越に責はないことよくわかった。
沖縄で剣道や柔道がもう栄えていた、本土で栄えてる武術は
対人稽古をガンガンやって強くなってる、という実態を知っていたのに
それにかんしてはなんら対策してない糸洲が駄目だったんだな。
もっと糸洲は空手の実力云々は別として革新的な人材だと思ってたよ
本土の武道の実態を見ながらも型と巻き藁だけで「3〜4年で奥深くまで
いくものもでてくる」だの「ひとりで10人戦えるものも出てくる」だの
おめでたいことを言ってるような本当にたいした男じゃない。
普通なら「こりゃ唐手も防具つけて対人練習しなければ到底本土の
体育に採用されない」と危機感おぼえるはずだろう。船越にそれは無理でも
糸洲はそういう危機感がなかったのか。本当に型だけで警察や兵隊に実戦に
役立つと採用されると思ったのか。 >>872
>それにかんしてはなんら対策してない糸洲が駄目だったんだな。
ん〜、だからそれがちょっと難しいのよ。上でも書いたように
これは沖縄唐手家全員の問題で、そして沖縄の唐手家全員に
多分批は無いのよ。なぜなら、それが唐手だから。
前にも書いたけど、柔道で乱捕りをしたり剣道で防具をつけて打ち合いをしてても
それを目の当たりにしてきた居合いや弓道が、じゃあ防具をつけて打ち合うとか
流鏑馬なんてウマに乗って射るのは古いからバイクに乗って射る稽古を取り入れようとか
そういう変化や対策はしてこなかった。相撲だってこれからの時代蹴り技や武器を取り入れよう
とかそういうのもしてこなかった。それって悪い事かな? あるいは批難されることかな?
したいと思った個人やごく少数の一派は居るだろうけど、大多数はそんな事はしない。
だってそれが伝統や文化というものだから。だから、誰が悪いというものではないのよ。
もちろん、人間だから多少の見栄はあるよ? 居合いの人だって剣道の人と防具をつけて
試合をしたらそりゃ負けるだろうけど「お互い防具なしで真剣を持っての立会いなら別です」
とかくらいは言うんじゃないかな。それを見栄と取るか自負と取るかは別だけどさ。
だから、糸州が言う奥深い境地がどうだの口伝がどうだのってのは、対外的には見栄で
内心的には自負。弓道で無心の境地で100発100中で的を射る境地にたどり着く事は素晴らしいけど
拳銃に勝てるの? いやさ、別に相手が火器じゃなくてもいいから戦場で生き残れるの?って言われたら
それとこれとは別問題、みたいなね。だから唐手は元来武術ではあっても居合いや弓道寄りの性質なのよ。 なので、唐手が好きな人であればあるほど、唐手というものの文化や立場に重きを置くので
そのままを伝える。警察や軍隊でも当時すでに剣道や柔道は行われているし、関係者もいっぱい居る。
糸州も組手なんかロクにやってないんだから、建前上は戦えるとは言っても内心は彼らとやりあったら
マズイってのは実感してたんじゃない?
だけど別にそれは問題なくて、弓道や居合いが剣道や柔道に危機感を覚えるか? って言われたら
別段憶えないのと一緒。だって自分達はそういう次元やカテゴリーとは別のところに居るんだから。
学校で茶道を導入しても「今の時代、エナジードリンクより旨いお茶が出来るのかよ? モンスターに勝てるの?」
とか言われても、そういうものを目指してる訳じゃないから気にしないってのと似てる。
>逆に唐手にそれほど思いいれが無い人なら自由組手推奨するだろうけどね。
で、自己レスになるけど、唐手が好きで唐手の文化を大切にしてる人ほど組手はやらんけど
あまり唐手に思い入れが無い人は組手をやっちゃう。その代表格が本部。
本部は一見唐手が好きなように見えるけど、厳密には唐手が好きなんじゃなくて、根源的には
殴り合いが好きだったんだと思う。だからナイハンチ以外に本当は色々知ってたにも関わらず
普及として他の唐手家みたいにあれこれ他の型を教えなかったし、そのナイハンチにも分解を
こじつけれる事が出来たにも関わらずまったく残していない。ここら辺、上地と似てる。
上地も自由組手を推奨してたし三十六以外は剛柔流のパクりだし、その型だって3つしか教えていない。
上地にとっては唐手は多分、食い扶持になればいいかな程度でリスペクトもクソも無かったんじゃないかな。
あと本土で自由組手に関わったのは摩文仁くらいだけど、これは本人の実力もなく、そして教えてる内容が
首里手は船越、那覇手は宮城で、別に摩文仁である必要ないよね?っていう自身の商品の「売り」が無かったから
色々模索して防具組手とかしてた時期もあったんじゃないかなと。意外な事に、本土の人間は型のコレクションに
喜びを覚える層が居るってことに後々気づきだして自分の立場も安定しだしたけどね。といういつもの長文。 本来はこういう話題に乗じて、沖縄の唐手家は組手をする勇気が無い根性無しだったとか
技術の開発をせずに型やって自己満足してただけのオナニー野郎ばかりだったのが悪いとか
そういうディスりも出来るけど、俺は型肯定派だし沖縄唐手も昔の唐手家も別に嫌いじゃない
というかむしろ好きなのでちゃんと弁護するときはする。船越より前の世代の唐手家に非はない。
が、もし非があるとしたら、その次の世代。1950年代後半くらいから開祖格や関係者が没っして
高弟達が自分の会派を率いるようになった。その世代の人達は今後の沖縄唐手のあり方の舵切りを
する立場にあったんじゃないかなと思う。つまり組手や分解を導入するか、それとも今のまま型だけ
やって日々の楽しみと健康維持で終わらせる方向でいくか。そこで保留、ないし今のままを選んだ。
俺は組手や分解を導入した方が良かったんじゃないかな〜〜と思うのだけど、まあ伝統を守るのは
良いことだから高弟達の世代はそういう道を選んだのね、でまだ非はない。問題は次に続く孫弟子の世代。
組手もしなけりゃロクな分解もなくてあるのは古い型だけなのに本土の伝統派やフルコンに謎の上から目線。
そういうウンコは滅んでいいんじゃないかと思う。 曾孫弟子の世代である令和の今は、組手では本土の伝統派やフルコンに差がつき過ぎて
もう追いつけないので、これぞ本来の分解、と称してマウントを取りたがる傾向にあるね。
一昔前は、これが本来の型の動作、だったけどそれだけじゃ無理なのを学習したのはエライw 文化を継承しなければならない 自由組手のために防具、ルールを
もうければそれはもう空手じゃなくなる、
というのは正論だがコテコテの沖縄人、本土への発展を願わない人間の考え方だろう。
弓道や居合は、柔道や剣道とならぶ
メジャースポーツに、ってな大それた考えはなかったはず。
本土で学校体育で、警察武術で、軍隊の格闘技として発展していほしい、と
願うなら糸洲はそんなこと言ってる場合じゃない。
沖縄という閉ざされたところで柔道も防具剣道もなかった、と俺は思ってたから
ほなら糸洲は仕方ないなあ、と思ってたけど本土の潮流、実態をその目で
見ていたのならあまりにピンアンと巻き藁でメジャースポーツ目指した
糸洲はあまりにもあまちゃんだろう。沖縄で反発がすごいなら本土でそれを
推進させるべきだったし、物腰やわらかそうな船越を窓口に、急進派を
どんどん送るべきだった >>877
>本土で学校体育で、警察武術で、軍隊の格闘技として発展していほしい、と
>願うなら糸洲はそんなこと言ってる場合じゃない。
いや、発展させる必要はないのよ。ただ軍隊とかで導入したら有益だよって話。
>ピンアンと巻き藁でメジャースポーツ目指した糸洲はあまりにもあまちゃんだろう。
メジャースポーつを目指した訳でもないのよ。ただ軍隊とかで導入したら有益だよって話。
発展とかメジャーを目指したとか、ちょっと勝手な糸州像をこさえて一人で憤ってないか?
そもそも唐手が沖縄県や軍隊に注目されたのは元をただせば兵役の検査で屋部を筆頭に
糸州の弟子達が筋骨隆々だったからだよ。大事なのは、別に殴り合いが強いから注目された訳じゃない。
唐手は場所も取らず相手も要らず立派な体を作れて尚且つ(建前上は)武術性も身につくってのがウリで
海軍の狭い軍艦の中で水平の運動不足が問題になってたけどちょうど良いんじゃねーかって点も気に入られた。
当たり前の話だけど警察も軍隊も柔道や剣道はとっくに取り入れられてる。格闘技的な面ではなく身体的な強靭さを
養う方法が欲しかった側と、格闘技的な面は弱いけど身体的にはマッチョになれる側の利害がピッタリ一致したから
途中まで話が進んだだけ。導入が頓挫してしまった理由は色々説があるけど(沖縄を含めた地方部落への差別があった
とか既存の武道勢力が猛反対したとか)、糸州がもし本当に剣道や柔道に技術でも勢力でも打ち勝つのを目的としていた
のなら対人稽古をもっと発展させたろうよ。糸州はそれをしなかったし、船越だって本土に来る前に約束組手や分解を整備
することだって出来たハズだけどしなかった。マキワラや型で天下を取れるとか思ってたんじゃなくて、そもそもマキワラや
型をやって修養とするのが唐手なんだから、その沖縄の文化(武術)をただ本土にも紹介しようと思っただけだよ。
分かりやすく言うと、ラジオ体操。軍隊は海軍体操があるし、警察にも専用の体操があるだろ。
あの体操は健康維持やウォーミングアップ程度の存在だけど、同じ体操をするなら沖縄の唐手を
やらせた方が健康維持どころか体力増強だからコスパいいんじゃね? という感じ。そういうポジション。 >糸洲はあまりにもあまちゃんだろう。
貴方は船越であれ糸州であれ、誰か犯人探しをしないと気が済まないように見える。
唐手の型に大した意味なくロクに組手もせず技術もスッカラカンという現在の状態に
したのはいったい誰の責任だ?みたいな感じ。
もうさすがにスレ違いだからやめるけど、誰の責任でもないよ。元来そういうものだったってだけの話。 実はここひと月型がマイブームなんだがいろいろ型を観てたら
平安ってのは要は型のベスト選曲みたいなものなんだろう
平安とナイファンチだけで型は事足りるんじゃないか?
クーシャンクーなんて無駄に長いけど平安よりなにが優れてるんだ? >>880
クーシャンクーを初心者に学び易くしたのが平安の初段〜五段
クーシャンクーには平安にはない飛び蹴りなどの動作も入ってる
クーシャンクー出来るならば平安こそいらないよ 平安って糸州が創作したにしては各段の作風がバラバラ過ぎるよね?
ここら辺も調べてみると意外な発見があって面白いよ とび蹴りなんかまあ使わないだろ。無駄に長いし。跳び蹴りくらいしか
違いがないなら平安でいいか? >>884
クーシャンク―が上手くできる方が達人ぽいからクーシャンク―にしておきなよ。
いざとなれば型の試合でも使えるしな >>884
それを言うなら空手の型は型試合と昇級昇段審査以外ほぼ出番ない
そして試合に使えるのは圧倒的にクーシャンクー
少なくともクーシャンクーを避けて平安をやり続けてる有段者を俺は知らない 日本だけか知らんが空手家がラウェイルールで試合すると型のような動きになるって言ってる人いたな 古伝の型をオリジナルアルバム、平安をベストアルバムだとした場合
クーシャンク―はシングルカットされた曲も多い名盤って感じかな?
でも70分超で長すぎるし同じような曲も多いしで。
そらならベストアルバムでいいじゃんって思うのよ 何をもって優れてるというのかで違ってくるんじゃない?
武術として見るのか運動として見るのか身体芸術として見るのか
伝統性や娯楽性や商品性などによっても価値は違ってくる
そこを曖昧にして優劣を語っても堂々巡りだと思うよ 普段やるならないふぁんちとかさんちんで充分だろ。そればかりだと飽きたりつまんなかったりするからほかのかたをやるんだろ >>889
もう、語りつくされた事だけどさ
型の試合や昇段審査に有効
組手試合や他流試合に無効
戦えないと言う意味では武術性は皆無だな
芸術性と言うのはあるけど、組手だって芸術的だと言える。
娯楽としては空手をやっているマニアしか良さが分からんからなw 単に型練習についていけなかったヤツらが、俺らが駄目なんじゃない学ぶ価値がない技術だったんだ、と
すっぱい葡萄理論でゴネてるようにしか見えない
三戦ぐらいはやったことあるよな?
それを無駄、というのならもう何をいわんや、だ ああ サンチンは無駄だよ。
逆に聞きたいが型に一体何を求めているんだw 昨日北斎漫画展を観に行ったんだけどさ。北斎ってスゲエ。
ひとりアニメーションみたいなこともやってた。
型が使えるも、役に立たないも、どっちも根拠に乏しい。
多くが失伝してるから。
もし北斎が琉球に長逗留してメジャーな型をアニメーション風に描き切って
その文献が残ってたとしたら意味不明な動きも解明されたろうな。
そうすれば世界中の格闘術が知られるようになった現代でも型に学ぶ価値があるか
実は深みもなくいまとなっては学ぶ価値もないか、はっきりした答えが出ていたと思う サンチンは外国人がこれがサンチンの本当の意味だと本を出してるくらいだからな。
日本の空手家も知らなかった 三戦(サンチン)の「なぜ?」 身体構造に基づく姿勢・動作・呼吸・意識で最大のポテンシャルを引き出す!
如何に型の意味が失伝していてコジツケまくってるかという証拠だよな。 失伝っていうのも語弊があるけどな
まず根本的に型に本来武術的な意味があったということが全然証明されていない以上
失うもととなる技術の存在が不明瞭だから失伝そのものが成立しなくなる
仮に失われてしまった意味があったとして、どの程度のレベルかというと・・・もう語りつくされた結論しかない。 余談だけど、豆知識として古い時代に作られた型になればなるほどその意味は無いに等しいかあっても低レベルになるが
逆に新しい時代に作られた型になればなるほど(あと創作者が若いほど)昔の型に比べて武術というか技術性を帯びてくる。
クルルンファーの太刀を振り下ろすような動作とか、シソーチンの腕関節抑えとか
上地も明らかに金的を狙った手わざとか、棒術を焼き直して型にするなどしてる。
まあ武術性を帯びてるといってもその程度で、突いたり蹴ったりだけの型だとか
突き蹴りどころか舞踊と遜色ないナイハンチに比べたら、の話だけどね。 武術だけだよな 昔の方が凄い技術があるって言うのは
スポーツや格闘技はそんな事を言わない
サンチンやればナイファンチやればあんな力やこんな力が身につく、と言っても自由組手を重視してる武道や格闘技にボコボコにされる現実
型にはこんな分解がぁ、と分解組手じゃ複雑な綺麗に技を決めらるが自由に攻撃してくる相手には対応できない
あとは「実戦がぁ」「試合には使えない技がぁ」と言うしかない
弱くても伝統の技術を身に付けたいんだ、とかなら納得 型なんていくらやっても弱いままだし、永遠に武術的な技術が身に付くこともない。
だけど
幸い型の試合って言うのがあって、これが唯一活躍できる場なんだけど
その唯一活躍できる試合ですら、型ヲタは否定するよね。
型ヲタは型の試合に出ても勝てないから、否定しているんだろう?
試合に出ないで、自己満だけで型をやってりゃ誰にも否定されないからなw
そして、自分のやってる型は試合の型と違って高尚なものだと思い込んでいられるからなw 型の採点競技って意味わからん
型稽古の目的はあくまで組手への反映だしな >>902
組手に応用できないから意味がないって言ってんだよ >>903
浅い
近代体育の観点からしても表面的すぎる
空手は、いや格闘技は人の形をしたシャモの喧嘩ではない 浅いと言えばブルースリーの映画にこじつけてオフスパーから逃げたのに型が勝ったとか言ってたアホがいたな(笑)
いくら空手の型が浅いからってジークンドーに背乗りして勝った勝ったとか恥ずかしくないのかなと でもこれは舞踏という観点になるかもしれんがフルコンだろうが寸止めだろうが
いろんな型をやりこんでる選手の組手ってきっと美しくて人気出るだろうな >>905
結局空手は武術では使えないというアホの証明に終わったもんな 他武道を引き合いに出してしか空手の型の有用性を証明できないなら空手の型は浅すぎるだろ
サンチンですらアメリカ人に本当の意味(笑)を解説されてるんだもんな 多分、型の解釈やこじつけでも外人に負ける日が来るんじゃないかな
軸が〜バランスが〜とか小学生でも思いつくヌルいこじつけを言う日本人と違って
外国の場合は最新のスポーツ理論があったら「あ、じゃあこれサンチンの意味にしようぜ」
とか何の躊躇もなくこじつけちゃうかもしれん。変に武道性にこだわって丹田呼吸がどうだの
姿勢をまっすぐがどうだのって制約にとらわれてる日本人よりよっぽど先を行くんじゃないかな。 アメリカ人の三戦の解釈は実際に出版されてるから日本人の敗けだよ
このスレの型オタはオフスパーから逃げるのが型の解釈で勝ちとか出版できないレベルの雑魚だから本当に情けない >>907
アレは空手対空手の話で
型の動きで戦ってやるって言ってなかった?
後輩が〜とか警察が〜とか嘘を重ねて逃げたけど 確か【型の強さを証明する】だったな
それを後から現地に誘き出されたから【型の兵法で勝った】などと無理矢理ゴールポストを動かしてブルースリーの映画を引き合いに出して勝った勝ったと泣きわめいていたが
あくまでも最初に【型の強さを証明する】と言っちゃってるからオフスパーから逃げただけという現実 ゴールポストを動かして精神的勝利ってヤベーな型オタはwww 外人のサンチンの本は前に俺も買った。
でも難しくてページが進まなかった。
だいたい外人特有のチャプターごとになんかポエム添えたりするのが大嫌い しかしただの近代スポーツ組手競技にしかならないのもつまらんな
手先足先タッチゲームや首下どつき合いスポーツ競技でしかないのは 型にはよくわからない動きだらけで実戦で使えるかどうかも怪しい、いまとなっては
使えないだろうというのが過半数だろうけど残しておくべきものだと思う。
美としての側面もあるし。
ただ、それは組手稽古より大事かというとそれはありえない。
そのどつくだけ、タッチするだけに陥らないように保管として学ぶべきであって >>917
組手試合の役に立たないなら捨てて構わんてならんか?
俺は型が組手で勝つ役に立つと思ってる派だが >>918
まず>>840への質問に答えるのが先じゃないかな? >>919
文献から以下引用
一人で三戦の方を稽古する時、私は深い瞑想状態に入ることができる。
自分の内面に入り込むには、まず自分のまつ毛を見つめる。
そうすると額の天目というツボー眉と眉の間よりやや上の部分ーに精神が集中する。
このことが意識を外部から内面へ向かわせるのである。
そして呼吸法とともに型の世界に入り込んでしまえば、すでに外界からは完全にシャットアウトされた境地である。
そのなかで私は、体内を巡る気の流れをはっきりと感じ取っている。
おそらく三戦のような古くからの型はもともとこうした稽古法だったのだろう。
これは1回の稽古でそう何度もできるものではないが、継続して練れば大きな効果があるものだ。
ちなみに「まつげを見つめる」という意識の使い方は、仏教の言葉から発想したものだ。
こんな句である,
「仏法は瞼の上のつるし物、あまりの近さに見る人もなし」
これは
「悟りというものは、自分のまつげのように目の前にあるものだ。
人は特別の事のように思って他を探してしまうが、そうではない。
朝起きたら顔を洗い食事をする、当たり前の事を当たり前にするという、日常の中にこそあるのだ。
だがあまりに身近すぎるので誰も気づかない」
と解釈するのが普通である。
(廣重毅「極真空手 城南支部 強さの秘密」より。故 廣重氏は緑健児・八巻建志・数見肇・塚本徳臣らの極真王者を育成した) キックボクサーがボクシンググローブ着けて型稽古をすれば有用ではないかと今思った。
ひとつの型を最低でも1000回、効果を確実に得るには3000回くらいはやらないといけないらしいけど。 >>920
なるほど
自分の頭で考えたのではなく、やはり受け売りですか。
私は>>675で書いたように
「あの○○先生がそう言ってるからきっとそうなんですよ、僕もそう思います、だから型は使えるんです
というレベルの話でしたらもうお腹いっぱいなのでお引取りを。」というスタンスに変わりありません。
あとは>>840さんのレス待ちですね。呆れて閉口するかもしれないけど。 >>920
>そのなかで私は、体内を巡る気の流れをはっきりと感じ取っている。
気の流れねえ・・・。この先生は気についてどの程度知ってるのかな?
少なくとも経脈と絡脈の違いや性質くらいは理解してて言ってんだよね?
気の流れと言っても、奇経の中の任脈や督脈について言ってるのか
それとも十二正経(人体を流れる十二本の気の道筋)のことを言ってるのか
奇経にしろ正形にしろ流注の概念(十二の道筋を臓器を交えてどういう順番で巡るのか)
を理解してない事には気の流れもクソも無いんだがな・・・。そして俺が思うにこの先生は
そういう基本的な事すら多分勉強してないんじゃないかな、と説明を読んでて感じる。
この先生に限らずだけど、日本の武術の世界だとよく勘違いされてる事があって
気の流れは弱いとマズイけど強いのもそれはそれでマズイ。どっちも異常。
例えるなら、腕の筋肉が麻痺や衰弱してまったく力が入らないのはマズイけど、
さりとて四六時中ずっと力が入り続けてて関節すら曲がらないほど硬直してるのもマズイ。
ニュートラル、つまり普段は柔らかいけど力を入れれば固くなれる陰陽の調和が取れた状態が一番いい。
だから気の充実ってのは、気が不足している人はマイナスだからゼロポイントまで戻しましょうねって話で
あって、どこも悪くないのに事さら体に流れる気を強く強く、ってのは漫画や小説では良いけど実際は間違い。
日本の武術の場合、特に中国拳法と関係がある(とされてる)空手においてはここら辺を勘違いする先生が多い。
その原因は気について大して知りもしないのに「僕がそう思うからそうです」理論で語ろうとしたがること。 俺はたまたま東洋医学を学ぶ機会があったから知ってたけど、上で書いたような十二正経だの
任脈や督脈や流注だの、気なんて深すぎて勉強するのが面倒だよって人のほうが大半だと思う。
でも、実は俺が上で書いた気の概念なんてのは、ネットでググれば10分かからず得られる知識で
人に説明してもらうなら5分で終わる。初歩の初歩すぎる知識だからな。その程度の事なのよ。
そしてその程度のことを、面倒だからやらない、じゃあどうするかといったら
「僕がそう思うからそうなんです」理論に頼る。気の流れだけじゃない、呼吸にしてもそう。
本屋で解剖学の本を数ページ見れば肺や横隔膜の構造なんて書いてあるのに、それすらせず
とりあえず「腹式呼吸が良い」ってことで終わらせちゃう。全部が全部こんな感じ。検証すらしない。
なんでそうなのかな〜って考えたけど、まあ、つまり結局本気じゃないって結論になるんじゃないかな。
まつげを見る瞑想がどうだのってのも、腹式呼吸と同じくありあわせの知識でじゃあこれ流用しちゃおう
で終わり。現実的かどうかは気の流れを感じるのと同じく瞑想している感じが僕はしてるのでOKって事にする。
本当に型とは何かを探ったり、あるいは意味がなくても型を使えるようにしたいと思ってるのなら
こんなお粗末なマネはしないと思うけど、でもまあ結局、面倒の壁の前では型もこの程度でいいってのが本音なんだろうね。
>おそらく三戦のような古くからの型はもともとこうした稽古法だったのだろう。
で、僕がそう思うからそうなんです、の延長がこれ↑と。はあ・・・。
まあ、結論として型を肯定したい気持ちは分かるんだけどさ。
主張しますよ、でも面倒だから調べませんよ、だけど私の言ってる事は正しいですよ、は通らないよねって話。 >>918
俺は何者でもないから断言はしないけど型が組手に役立つと思わん。
そういう意識もってやれば役立つこともあるだろうけど必須とはどうしても
思えん。
でも組手の役に立たんから捨てていいとは思わない。
難しい型をいろいろ練習すれば組手の動きが美しくなるとは思うし
ま、それは装飾的な技巧となって武術、格闘技、護身術として退化になる
可能性もあるけど >>922
そりゃ実績も実感もない何者でもない自分の想像よりも世界的実績のある指導者の実感から言ったことの方が議論や考察に足るでしょう
もちろん型の効果は型をやらないと得られないし得れると信じてやらない限りはいくらでも否定できるとは思うし信用できない人は帯審査の前しか型をやらないでしょうね
フランシスコ・フィリォも師匠の方針で型はみっちりやらされている 小難しいそういうマニア化した知識こそ受け売りの無駄くさいかも
と言ってみる >>926
>そりゃ実績も実感もない何者でもない自分の想像よりも
想像、つまり頭の中で考えてただけという事ですか。
だったら自分の考えよりも権威ある人の意見におもねってしまうのも納得です。 >>927
>小難しいそういうマニア化した知識こそ受け売りの無駄くさいかもと言ってみる
そもそも気なんていう非科学的でマニアックなものを感じるとか言いだしたのが廣重氏ですからね。
よく知りもしないのに気がどうこう言う廣重氏の話が無駄くさいというなら納得です。 >>928
そっすね
自分の実感だけならまだ到達してない未知のものを学んだり教えてもらう必要もないわけで
自分がウォーリーが見つけられないからウォーリーはいないんだとか主張するタイプよりは体験した人の証言と実績などの例を出す方がまだ生産的だと思う >>929
東洋医学が非科学的でマニアックかどうかは自分にはわからない。
たぶん個人差が大きく再現が難しいものの科学的だとは思うけど。 体の中にあるツボは365ある、と中国の古典に書かれていて
実際に調べてみたらヤベー数がちょっと合わなくなったよw
っていう人間臭い話は置いといて(wHOが認定するツボは361)
東洋医学の本場である中国では上で上げたツボとは別の、独自のツボや
独自の経絡(気の流れ)を伝えてる一門だったり一派だったり一家だったりが
無数にあるのでそれと関係ある中国拳法が気の流れがどうこう言うのは、まあ置いとく。
だけど日本において、まして中国拳法と大して関係のない唐手が型において気の流れがどうこう
言うのは恥をかくだけだからやめた方がいいんじゃないかなー、と思いますわ。
那覇手の東恩納や宮城や許田が気の流れがどうこう言って指導してたなんて聞いた事ありませんしね。
>>930
>自分がウォーリーが見つけられないからウォーリーはいないんだとか主張するタイプよりは
>体験した人の証言と実績などの例を出す方がまだ生産的だと思う
そっすね 。どこに居たの?って聞いても「俺が居たと言うんだから居た」って人の意見を鵜呑みにしてください。
たぶん尊師が空中浮遊をしたって信者も同じような精神状態だったと思います。
>>931
空中浮遊してるウォーリーを見つけられる日が来るといいですね。応援しています。 じゃーちょっと出かけてくるので。適当にレスしてスレ盛り上げといて。よろしく。 鍼治療とか効果あるのかな
電流を流すといいのか
押す箇所によって体の部分別に効果あると言われる足裏のツボはどうだろう
組手技術や組手強化のための稽古の優先順序も指導者によって違いがあるから自分の信じたいもの、信じたい説に沿ってやっていくしかない
廣重氏のところやフィリオはもちろん型稽古メインではないけど型もやって史上最強レベルと評される実績は出している
あと見映えの問題だけど型や移動や基本といった空手の元々の動きに沿った稽古を無駄だからと排除して無くしてしまうと出来損ないのキックボクシングのような低劣なものしか残らなさそうで嫌というのがある
自分がもう一般部のトーナメントに出れないほど歳をとったせいもあるけどそういう空手的な動きの稽古は精神が浄化される気がする
それこそが気であり気のせいとも言えるかもしれませんがね >>906
実際はショボすぎて全く人気が出ないんだよ >>915
科学的な裏付けがないものは、ポエムでごまかすのはオカルトの十八番だよ。
これは世界共通だね。 >>916
本来打撃系の格闘技はそんなもんでしょう。
組手だけでもかなりのテクニックがあるから、十分面白いと思うけど、それがつまらないと言うなら仕方がないね。 >>918
そう思うのは勝手だけど、何年もここで議論されてきて、重要性を説明できた人が1人もいないから、結局無駄なんだと思うよ。 >>921
とりあえず、大きな数字だけ並べておけば、すごいものだと思われるよと思ってるかもしれないけど、逆効果だからやめたほうがいいよ。 >>925
前から言ってるけど、形をやると組手の動作が変わるなら、組み手の選手の動きを見たらどこの流派のどの型をやりこんでいるか当てることができるはずだけど、実際問題わからないよね。
これが答えだと思うよ。 >>934
昔強かった選手を持ち出して、形を練習に取り入れていたと言うのはどうかと思う。
そんなに凄く良いものであるなら、今の格闘家は型を取り入れているよね
結局のところ、もともと空手をやっていて形をやっていたか、実績に悩んでオカルトに走った選手ってだけだと思うよ まぁ、正直言って今格闘技で行われている練習方法が必ずしも正しいわけでもないし、ときには疑ってみるのも良いことだと思う。
人によって練習の時間配分も違う
ただ、型に限っては昔から普通に行われてきた練習方法だったのは間違いないので、その型が今一般的に行われている練習方法になってないと言う現実を見る限りでは、型は有効な練習方法でないとみるのが普通なんだよね
不必要、効率が悪くて無駄なものは淘汰されるのは仕方がないよね。 あれだけの運動神経と、手わざのように蹴りを操れるフィリオなのに
型があんだけモタモタしてるってのは稽古の比率のうち型は数パーセント
くらいだと思う。「師範がやっとけっつーからちょっとやっとかないと
怒られるし」程度のもんだろう 証言といえばラウェイの試合に出たり素手で顔面や金的攻撃、頭突きを認めるルールの空手興行をしてる村井義治という人がナイハンチの型は素手の正拳突きに大切な身体操作が身について、古伝の型はなんでもありを想定してるので掴まれた状態から、いかに効果的に打撃を放つか?という知恵も伝わっていると言ってる。
つかみにも対応し、短い間合いで強力な突きを放つ工夫がなされていると。
これをもって俺の意見として型は有効と大風呂敷広げないが、そういう証言もありますよという紹介をさせていただく。 オリンピックで金メダルを取ったんだから人格も金メダルのはず!
なんていう頭お花畑の人は笑われてもしょうがないよね。
その人の技術とその人の人格は別物なんだから。
技術と人格が別ということは、技術が高くて実績を残していても
人格が低くて平気でウソをつく輩も居るということ。
人格が低くなくても立場や思想によってはやはり人は結果的にウソをつく。
例えば弟子が自分より強くなると面倒だからウソをつく、誤魔化す
あるいは強くなって欲しいけど血族じゃないから仕方なく相伝も印可も
渡せず必要なことは全て教えたから後は自分で頑張ってと放任する。
日本はなまじ武道や武術の長い歴史があるんだから、そんなの珍しいことじゃないのに
なぜか有名な先生だから有名な選手だから、と肩書にコロっと騙されちゃう。
そういう純粋まっすぐ君が居る限り、空手にしろ宗教にしろ騙す側の人間は安泰だね。
まあ、かくいう俺も調査の初期は有名な大学教授だからとか、有名な郷土の研究者だからとか
そういう立派な人達が都合の良いウソや、まして捏造まがいの事に加担するするハズない!と
純粋に思ってて大分遠回りさせられたんだけどねw 人間、痛い目を見なければ目は覚めません。 >>925
>そういう意識もってやれば役立つこともあるだろうけど必須とはどうしても思えん。
>でも組手の役に立たんから捨てていいとは思わない。
殴りあいの技術を磨いたところで、じゃあ実際に1年のうちで何回殴り合いの機会に遭遇するの?
って言われたら、たぶん日本に住んでる限りは普通の社会人なら3年に1回あるかないか。
若い学生ならもうちょっと頻度は増えるけど、それでもこのご時世だしね、1年に1〜2回なんじゃね?
前にも書いたけど、1年に1回あるかないかのために殴り合いの練習なんてするよりも
残りの大半である360日以上を、日々型をやって自己満足に浸って楽しく過ごせるほうが
よっぽどコスパ良い。そういう意味で型は殴り合いの技術なんかよりもずっと価値があると思うよ。
実際、昔の沖縄はそういう状態だったから型が上手く機能して文化として残った。
組手に効果があるから残ったではなく、オナニーとしての価値が高いから残った
というところをちゃんと自覚してる分には、俺は型は廃止せず伝えていくのも良いと思う。 >>945
>古伝の型はなんでもありを想定してるので
もう散々その話は議論され尽くしたじゃん
過去の文献をいくら探してもそんなの誰もしてなかった
型稽古がメインで自由組手どころか分解組手もやってなかった
最近になって創作して「これは昔からあったんだ」と言ってるだけだと
まさにその人がそうじゃないか
だからその人が「ナイハンチの型を研究してみて試合でこう使えた」と言えば
それが実際そうなら「そうなんだ」で納得するやろ
「古伝です」なんて嘘言わないでこれから型の使い方を新たに考えて行けばいいんじゃね?って
「これは昔から伝わった技術です」と言うと「それは嘘」って突っ込むしかない
だって誰もやってなかったからって話
何も理解してないんだな >>947
殴り合いの機会が日本に住んでる限りは普通の社会人なら3年に1回あるかないか
っていったいどこに住んでるんだお前はw
俺は空手を習ってたのは学生のころだけだったけど結局喧嘩することなく終わったから
高校生の時以来一回も殴り合い機会に遭遇してないしそれが相場だろう。
よしんば俺の住んでるところがだいぶ治安のいいところだったとしても
平均して殴り合いの機会があるのは社会人で20年に一度くらいじゃないか >>949
>殴り合いの機会が日本に住んでる限りは普通の社会人なら3年に1回あるかないか
>っていったいどこに住んでるんだお前はw
スマン、確かに話を盛ったわw いやね、一応これでも気を使って言ったのよ
まったく使う機会ないものを練習してるだろってのも、それはそれでちょっと寂しいしさ…。
前にも書いたけど、沖縄の武器術はクーシャンクーだのナイハンチだの珍妙な名前はついてない。
○○さんの棒とか至ってシンプルな名前。この武器術ですらどこまで実用的であったかは甚だ疑問だけど
ただ世界中の国の歴史を見るに、素手よりも武器術の方が先に発達してるってのは共通してて
結局素手の殴り合いってのは小学生くらいならまだしも、大人になるにつれて非現実的なんだよね。
だって本当に治安の悪いところなら素手でやりあう必要なくて武器持った方が確実。だから武器術が先に発展する。
ボクシングとかムエタイみたいに興行や商売としてなら発達するかも知れんけど、そうでない以上は沖縄も含めて
わざわざ素手の技術を高めようなんて普通なりにくいわな。むしろ今の飽和した時代だからこそ可能なんだろうね。 関係ないけどここの言い争い流れ星のちゅうえいとTAKIUEの言い合いみたいな視覚イメージ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。