俺は平安初段の下段払い追い突きの分解に筋肉バスターをこじつけても
全然何とも思わんし、それが使えるかどうかもまったく興味ない

でもこれが「平安の作者の糸州はこの下段払い追い突きに筋肉バスターの意味を込めたんですよ(´∀` )」
とかってなると、こいつ頭大丈夫かな?って思うわ。頭は別にして、恥ずかしくないのかな?ってのも思う。

応用や変化の話にしてもさ、俺は唐手の色々な文献や資料を見てきて、確かに型は
応用や変化をさせてどうこうっていう意味の記述もいくつか目にしてきたよ。
分かりやすいところで言えば船越が残した「型は正しく、実戦は別物」とかって教えもそう。

だけどさ、じゃあ船越は自身が習得した唐手の型を実際の殴り合いに向けてどう応用や変化
させようと努力したのよ? 船越はしなかった、ではなく他のどの唐手家だってそんな事は
ロクにやってこなかったのよ。そういうのを日本語では「建前」とか「お題目」とか言う。
やってこなかったからこそ、空手の世界は今みたいな状況になってるわけでさ。

型オタに見苦しい言い訳される前に言っとくが、その乏しいわずかな建前の記録をもって
「ほら、応用とか変化させるって書いてある! だからこれ伝統! 唐手の伝統!」とか
言うのであればそれはあまりに情けない。頭がどうとか恥がどうとかじゃなくて
ただただ単純にプライドは無いのかな?って思うわ。そこまでバカじゃないと思いたい。