で、本題。

義珍は型の歩幅を大きくした。大山は手刀受けをダイナミックにした。

俺は伝統はそのまま伝えるべきだと思ってる。そして義珍も大山も別に問題ない範囲だと俺は判断してる。
なせかというと、義珍も大山も別に伝統を変えてないから。沖縄唐手の人達はこれを「改悪」と言っている。

だけどね、こんなん改悪でも何でもないのよ。型に大した意味がないから、とかそういう問題でもないんだ。
仮に型にきちんとした意味が詰まって伝えられていたとしても、それでも義珍や大山のスタンスは間違ってない。
なぜなら、義珍も大山も動作を変えただけであって、伝統そのものは別に変えてないから。
そこを沖縄唐手の人は勘違いしてると思う。

「動作変えてるなら伝統を変えてるって事じゃん」「改悪だろ」って見方も一理ある。
一理あるけど、義珍は松濤館流空手として教えていたし、大山は極真空手として教えていた。

俺は義珍がさ、「この歩幅の広さこそが『本来の沖縄唐手の型』なんですよ」とか
大山がさ「この大きくダイナミックに回す手刀受けこそが古伝の動作なんですよ」とか
そういうのを言った記録って見たことないんだよね。みんなも見たことないでしょ?

型の動作を変えたところで、「××のパッサイ」みたいにこれは××さん流のパッサイですよ
っていうスタンスは昔からあったし、義珍も大山も自身が教える空手の内容としてそうやっていた
だけであって、俺は伝統を変えたとか、まして「改悪」なんていう範疇には入らないと思うんだ。

じゃあ、逆に伝統を変える行為とは何か? それはもう現代のみなさんの方が詳しいよね。

「これこそが本来の唐手の突きですw」「これこそが古伝の唐手の身体操作ですw」ってさ。

義珍や大山が動作を変えたどころの話じゃない。動作どころか唐手の歴史や伝統そのものを
都合よく捏造している。俺はそれこそが改「悪」だと思うよ。