なぜ天心流は羨望で叩かれるのか?

羨望とは、他人の幸福が我慢できない怒りにほかならない。
もっとも、羨望は非常に陰湿なので、そんな感情を自分が抱いていることは、誰だって認めたくない。

第一、羨望が自分の心の奥にあるのを認めると、羨望の対象より自分が劣っているのを認めることになる。それは、自己愛が許さない。だから、羨望の対象に何らかの過失や落ち度が見つかると、絶好の口実とばかり攻撃する。
正義を振りかざして攻撃する人々が少なくない。
このような正義の起源が「ルサンチマン」にあることを見抜いたのは、ドイツの哲学者、ニーチェである。
「ルサンチマン」とは、「恨み」という意味のフランス語であり、一見正義を振りかざしているように見えるが、実は「復讐を正義という美名で聖なるものにしようとしている」人間を、ニーチェは「ルサンチマンの人間」と呼んだ。

天心流を執拗に攻撃する人々は、「ルサンチマンの人間」であるように私の目には映る。それでは、何に復讐しようとしているのか?うまくいかない自分の人生に対してである。

人生がうまくいかず、日々欲求不満がたまっていくが、強い自己愛の持ち主ほど、自分の能力や努力が足りないせいだとは思いたくない。欲求不満を解消する手段がなかなか見つからないと、どこかで鬱憤晴らしをする必要がある。

そこで、復讐の口実を常に探すわけだが、伝書が火事で焼けた伝系を証明できないような流派は格好のターゲットになる。
 
この復讐願望の起源は怒りである。古代ローマの哲学者、セネカが指摘したように、怒りとは「復讐することへの欲望」にほかならない。

怒りは、相手が不幸になるのを待っていられず、「みずから害することを欲する」。だから、誹謗中傷による悪評を立て門人を辞めさせ、虚偽の通報で稽古場を奪えれば、「ルサンチマンの人間」としては万々歳なのだ。

論理的に考えれば、自分の人生がうまくいかないことは、天心流の活躍とは何の関係もないはずだ。だが、そんなことはどうでもいい。「復讐の鬼たち」は正義という言葉を常につぶやきながら、天心流を不幸にする機会を虎視眈々と狙っている。