【コント55号】玄和55【玄和会55号】
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2020年東京オリンピックで空手が正式種目となったものの、コロナ騒動です2021年に延期。
コロナのために稽古を数ヶ月できなかった方も多いと思いますが、稽古再開です!
論議も再開しましょう! >163
>現代物理学や量子論からは、
それはもしかして保江邦夫さんのお仕事のようなことを想定されてますか? >>165-166
これは単に「光の観測者効果」を指しています。
光は人に観測されるとともに性質を変えることから、
現在のところ、光にも意識があると考えられています。 >167
>ID:LKF7FkEr0
私はそちらの領域は門外漢で無知ですから、ちょこちょこ検索して「光、素粒子にも意志だとか意思がある」と唱えている論者がいるのは理解しました。
その上で、貴兄に誠実さが有るや否や?
そこは人と人とが真面目に向き合う上で極めて大切な核心だとご同意いただけることを私は願います。
つまりは、本心では唯物論を疑いないものだと信奉していながらも
背理法的に他者を揶揄するスタンスでないことを願うわけです。 つまりは、それぞれの対象を人間が認識していくにあたり「対象の基本単位」というものを規定していこうとする知的営みが
歴史的に形成されます。
例えば「物質の基本構造」として「原子核の周りに電子が回る」ような「物質のモデル」であり、
「細胞膜の中に核や細胞質がある生物の基本単位」のモデルです。
そのような「個別科学としての生物学」は細胞を基本単位として考えますから、細胞という構造を持たない物質を
「唯物論」として生物学の基本単位に据えることはありません。
そして物質の基本単位としての「原子核+電子」を「物質の構成要素」だとは考えても
電子だとか素粒子にバラされてしまった実体は「物質では無い」と理解するのではないか?と思うわけです。 >>168-169
正直、私はこれまで唯物論者の立場を通してきました。
しかしたとえば「光は波であり、粒子である」というのは、
「そういう論者がいる」レベルではなく、完全な現代物理学の定説です。
この原理にもとづいて、スパコン等の量子コンピューターは動いています。
さらに端的に述べれば、現代物理学、量子力学等は、
南郷氏から見れば完全な「観念論」で構成されており、
しかも大部分、それで多くの現象が説明できるのです。
南郷氏はそれに対して、「学者は、物質の本質がわかっていない」ですまし、
その説明が一切ないため、私としてはどうしても南郷氏に肩入れできないでいるのです。 >170
>ID:LKF7FkEr0
おっしゃってる事が理解できかねますが?
量子力学だとかスパコンだとか、あるいは「光」だとかは世間一般の常識に照らしても「物理現象」であり、
そこに観念論だとかの議論が顔を出す隙間はないはずでは?
常識的に考えても。
そこを敢えて「観念論」だとか云々するならば、そこにそれなりの必然的な根拠を述べるのが学問を志した人間の作法では?
そこを等閑視して強弁してくる量子力学論者で尚且つ南郷学派と関連性があるとの連立方程式の解が導くところは
小河一敏という明治時代の理科の実験家かも知れません? >>171
だ・か・ら、>>163を読んでいただきたいのですが、南郷、三浦流の唯物論の定義とは
「あらゆる観念的事象は、人間の頭蓋骨内のみで完結する」でしょ?
ところがアインシュタインによる「光速度一定の法則」など、
どう考えても南郷氏の基準からは「観念論」に入るんですよ。
光がまるで意志を持つように、観測者が動いていようが止まっていようが、
つねに同じ速度を保つわけですから。
しかもこれは、これまで誰がどんな条件で行っても、同じ結果しか出ないのです。
そのことについての説明が、南郷氏はいつも一言ですまし、
具体的な内容を言わないから、南郷氏の唯物論を一方的に信用できないというわけです。 ああ、貴兄の主張の論点は理解しました。
いや、理解したと思います。
その上で私から述べる事はありません。
もしも貴兄がこれから先も今の関心事を探究したいと欲しているならば、
この掲示板で成果を発表していただきたい。 ID:LKF7FkEr0 さん
一晩明けて貴兄が説いているところがジワジワと興味を増して来ています。
しかし、正直、貴兄が説いている論点が私には飲み込めていないのが偽りなきところです。
ですが、それは貴兄も理解しているところではありませんか?
現代物理学の量子力学や相対性理論についての概略さえ知らぬ者にも理解できるように
論点を明確かつ簡潔に述べてらっしゃるとは言えないのでは?
特に>163の「あらゆる観念的事象は、人間の頭蓋骨内のみで完結する」といった規定は私は三浦の文言の中にも
南郷の文言の中にも見た記憶がありません。
貴兄のこの発言は曖昧で抽象的なところがなく、実に簡潔に指示対象を示してらっしゃると感じますが、
このことは例えば「 「思考盗聴」なる技術では頭蓋骨の外部から電磁波を照射することで他人の脳内の思考・観念事象を
頭蓋骨の外部に盗み出すことが可能だとされてますね。
あるいは、いわゆる「テレパシー」なるものを信じている者たちは「思考の波長を合わせる、周波数を合わせる」というような
量子力学=電磁波の技術化のような
スマホやiPhone で遠隔地から情報なり思考なりを送受信できるように「思考・観念的事象」が
頭蓋骨の外部を行き来できると考えているようですね。
その場合、その「思考なり観念的事象なり」は何も無い場所に思考や観念だけが有るというのではなく
物理学の対象となっているような媒体・脳波なり電磁波なりを介しているという意味では
「唯物論じゃなくて観念論」だとは言え無いと思いますね。 ID:LKF7FkEr0 さん
貴兄の提言は実に興味深いものです。
おそらくは貴兄の関心事の焦点にある「量子力学、相対性理論」といった現代物理学の発展と
20世紀のテレビやラジオといった電磁波を使った無線の情報技術の普及とは
相関関係があるのだと想像します。
そのときに、門外漢の私は詳しく分からないのですが、遠隔地にまで伝送する「電磁波、電波」は
あくまでも「媒体」で、送受信される当の「情報」のほうは
テレビカメラで撮影するなりマイクで録音するなり「別に収録されなければならない」わけで、
電磁波・電波それ自体をいじくって生み出すわけにはいかない!わけでしょう?
「変調」と呼ぶみたいですけど、電磁波・電波とは別に生み出された情報=いわば脳細胞の集合体たる脳で思考された観念が
周囲の媒体を介して身体外部へ出て行くことは、「媒体それ自体が思考していない」という意味では
養老孟司先生の唯脳論とも矛盾しないと思われますね。 >172
>アインシュタインによる「光速度一定の法則」
私はこれも門外漢で詳しくなく、アインシュタインの相対性理論を古代ギリシャからの物理学史の発展の中での
必然性として説いている啓蒙書も持ってはいるのですが、まだ読むに至っておらず(汗)
私の持っている「古典力学、近代物理学」の知見では「エネルギー保存則」があって
物理学的には「慣性の法則」で外部から力が加わらない限り物体は等速運動をするわけですから、
「光」というのは他の物体なり素粒子なりと「エネルギー交換をしない!」のだと考えられるわけでしょうか?
つまりニュートンが研究したように「屈折」だとか「回折」だとかの「方向を変える」ということを光はするわけですけど、
他の物体なり素粒子なりとエネルギー交換をして「他の素粒子の速度を速くする代わりに自らの速度を遅く」したり、
「他の素粒子からエネルギーを得て自らの速度を速くする代わりに他の素粒子の速度を遅くする」といったことは
光の現象としては無い!ということでしょうかね? う〜ん、これは興味深いですね。
私は10代の頃は「光電効果」を使った機器開発の研究をしていたのですが、
「光速度一定」については当然に誰しもが一度は疑問に思うように不思議に思った記憶はありますけど
深く立ち入らずに過ごしてしまいました。
「光は仕事をする」にも関わらず「光の速度は変わらない」というのは、確かに「なぜ、そうなのか?」の
理(ことわり)が知りたいですね。
まあ、物理学というのは「実験結果の集大成」の側面がありますから、
「それは実験結果、観測結果がそうなのだ!」でも私は充分に理解は出来るわけですけど。
オームの法則で電圧値と電流値が抵抗値を定数とする比例関係であるのは「実験結果」であるように、
光の速度が一定であるのも「何らかの理論的な帰結」なのではなく
「再現性のある科学的な実験結果・計測結果だ!」というのならば、それは物理学的な認識として
至極当然な話しなのだと思いますね。 >172
貴兄の専門というか得意な領域は「物理学」や「数学」なのだと想像されますが、
古典力学=近代物理学と現代物理学=量子力学や相対性理論との境目に
「光は仕事をしながらも速度を変えない」という「再現性のある科学的計測結果」があるならば、
そこから帰納的に学的体系化を果たすなら「エネルギー保存則、運動量保存の法則」が成立するのは
「原子核の周囲を電子が回転している」という「原子」という基本構造をもつ「物質」の場合であり、
「原子という構造を持たない光や素粒子」は物質では無い!と概念規定することになるのではないかと思われますね。
それは生物学や医学において細菌とウィルスを別のモノだとして区別して概念化するのと同様に
必然的なことのように思います。
つまり「物質」というのは「哲学的?」に「観念で無いもの、観念に対立するもの」といった
弁証法性を纏わせられた概念ではなく、帰納的に導かれた個別科学的な概念として成立するのだ!と。 稽古をすると汗が出る。
汗が出ると臭い。
臭いということは汗がたくさん出たから、
汗がたくさん出たということは稽古をして強いということ。 >>183
左の脇の臭いと右の脇の臭いのバランスは良くなりましたか? 峰流婆峰流婆峰流婆峰流婆峰流婆峰流婆峰流婆峰流婆峰流婆 >>190
南郷の本に自嘲気味に「靴屋の分際を守れ」ってあったのは自分の読み違い? >>191
ああ、そうだね(´・ω・`)
それで間違いないよ 【一般教養】
その元になったのは
「The cobbler should stick to last.」という英語の格言で、直訳すると「靴屋に靴型から離れさせるな」となりますが、もっと一般的に「本分を守れ」という意味で使われています。
最終的に靴の良し悪しは靴型で決まるということで靴型のことを「last」と呼ぶようになったそうです。
この格言の元となった故事は、紀元前4世紀の画家であるアペルが自分が描いた絵の靴について靴屋に指摘されたところを手直ししたら靴屋が調子に乗って更に絵の評論をし出したので、「靴屋にそれ以上は喋らせるな」と言ったとされています。
それに対して19世紀のヨゼフ・ディーツゲンは革舐めし工場の労働者かつ経営者でしたので靴屋ではありませんでした。
ですのでご指摘の南郷氏の『武道の理論』の箇所は画家アペルの故事成語からなる格言と、「私の書き方でなく書いてる内容に」というディーツゲンからの引用と、そして南郷氏の考えとの三重構成となっていると言えます。 >193
訂正
✖ 画家アペル
◯ 古代ギリシャの画家アペレス 昔の南郷さんの本に、
居合と合気道も追求しているみたいな事が書かれてたけど
どの流派を誰に教わったんだろ???
なんかこの人の著書読むと、書籍からの引用で他武道や他流派を語ってる気がしないでもないから。
本を読んで独習した・・・・ とかだったりすることはないよね?? >>197は今、一生懸命土下座の練習をしています!
流れ込む蹴りを駆使する荒鷹に君の土下座が通用するといいね! 今更の話だけど「南郷継正 武道哲学 著者・講義全集」って、
今まで出した本を全集にしただけのものなの?
新しい内容は見られない? >200
誰かに探りを入れてるのかも知れないが、お宅自身はどう思うんだ?
見るべき新しき知見があるなら指摘してみたまえ。 >>201
>誰かに探りを入れてるのかも知れないが、お宅自身はどう思うんだ?
>見るべき新しき知見があるなら指摘してみたまえ。
はぁ?
何言ってるのかさっぱりわからん。
買ってもいないし、見てもいないから内容が既に出した本を単に全集にタイトルを替えただけなのか、
それとも、新に書き直したものなのか聞いてるんだが?
おまえさんバカ? >202
馬鹿はお前だろうね。
全集ってだけなら「今まで出した本を全集にしただけのもの?」なんて問いは生じない。
『武道の理論』と『南郷全集』なら名前が違うから普通は素直に「違う著作だ」と南郷に興味がある人間なら買うだろう。
しかも現代社で本の目次は公開されてるから、そこから判断も可能だろう。
お前は南郷学派の『学城』の二番煎じを望んでブログで執筆を重ねて出した自費出版の本が売れずに撤退した「ゆきよき」あたりに違いない 武道講義に記載の流れ込む蹴りの下りを読んで、
私は飛びあがるほどの衝撃を受けました。 人それぞれに感性が違うから何をどのように感じるかは様々だなw
先日、玄和の高段者らしき人物の自由組手での蹴りの映像を見たが「流れ込む蹴り」だとは私には映らなかった。
運足で近づいてくる相手にユラりと歩み寄っていきながら間合いに入るや否や瞬間的に前蹴りを蹴り込んでいたが、
それは玄和でいう「土台」を活かした軸足で地面をしっかりと掴んでの蹴りだと見えたから「流れ込む蹴り」というよりは「立ち止まる蹴り」だと私には映った。
おそらくは徹底的に修練した「その場蹴り」を実戦の場で出すのが玄和の理想なのだと感じたよ。 やはり「百聞は一見にしかず」で実物を見るということは大事なことだ。
自由組手での実際の動きを見るということは、その流儀が何を意識して稽古しているのか?何をどう対象化しているのか?がうかがえる、つまりはその流儀の極意が推察できるということだからな。
その現実的な「像」なくして単なる「流れ込む蹴り」なる言語表現だけを弄くり回して「それは上達論的でなく勝負論的な話し」だなどと《教条主義的》に語っても阿呆の極みでしかなくwww
私が見た玄和の高段者の自由組手での前蹴りは、蹴り足と軸足とが機能分化されていて、蹴るときに意識的ないしは無意識的に軸足にも威力を出すための能動的な筋活動が為されていると思われた。
まあ、流儀の《極意》は《極意》だから、低階層の阿呆にも理解できるように説明する必要は無いわけだがwww
義務教育の範囲を超えた話しだからなw >>203
大バカ者はお前さんだよw
バカで気が付かないのかwww
>見るべき新しき知見があるなら指摘してみたまえ。
みてねぇから指摘できるかよw
南郷理論を云々する輩でここまでのバカがいるとは知らんかったw >207
色々と話しが進んでいる中でお前のような投稿が為されるのにビックリしたよww
お前はお前の存在している場所で一生懸命に生きて、足掻いてるんだろうな。
そのお前の存在を、私は否定はしない。 >しかも現代社で本の目次は公開されてるから、そこから判断も可能だろう。
ここから察しても、ほぼ今まで出した本のタイトルを替えただけと察しが付く。
だから、確認の為に聞いてみたんだが、必死に噛みついているバカって何?ww
ある意味、南郷を買い被っていた。
まさか、「全集」とタイトルを替えて、今まで出した本をそのまま出版するのか?って
しかし、バカの必死の書き込みで分かったわ
買わなくて正解だって事を
バカは買って損したんだろうなw
で、だれかにもテメェの愚かさを味わって欲しいって必死に煽ってるって事がw
バカらしい行動だよwwww 素直に「見るべきものは何もない。過去に出した本の焼き直し」と素直に言えばいいものを、
「俺って頭いいんだよ」的な事を言いたいがための回りくどい言い方して結局バカを晒してしまった。
所詮、バカはバカなんだから素直に「過去の著作の焼き直し」って言えばいいものをw
お馬鹿さんさんだからwwwww 馬鹿は所詮は馬鹿。
「焼き直し」という先人が既に言語表現している記号に収まることで自信の満足感に浸れるだけの人材、路傍の石 AJobjg4u0の言っている「言語表現」を確認すれば、この人間が如何なる人間かの輪郭が浮き彫りにされてくる。
こいつの「焼き直し」なる言語表現にこだわる認識は、南郷が「カントの二律背反はパルメニデスの焼き直しに過ぎない」との発言の量質転化的な暗記の産物だと理解できる。
馬鹿は馬鹿でも、人間という範疇の中での馬鹿だから、言語表現を言語表現として記憶しているぐらいは出来るぐらいの馬鹿なのだww
私はお前が馬鹿だろうが何だろうが、知ったこっちゃねえ、ご自由に、馬鹿のままでいてくれよ、とwww 書き方を必死に替えて書き込んでもIDが同じでバカを晒しているのはここかな?w 玄和会が古くはK-1やPRIDE、最近ではRIZINなどに出場して栄光や名声を
得ようとしないのは、やはり流れ込む蹴りと放り出す突きだろうな。
地上波でオンラインできるような、お遊戯の技術ではない。 >216
お前の短くもアホ丸出しのコメントが、玄和会員の精神的な葛藤を顕にしているなw
私が詳細を説く必要もないだろう。
心ある人たちには、話の核心が解っているのだから? >216
お前の短くもアホ丸出しのコメントが、玄和会員の精神的な葛藤を顕にしているなw
私が詳細を説く必要もないだろう。
心ある人たちには、話の核心が解っているのだから? 剣道の防具の上からでの一撃で倒せるから危険すぎる
なーんて言ってたなあ
昔の寸止めと同じだなw 南郷って、なんで高岡みたいなのを取り上げたんだろう?
東大という肩書の人間に自分が取り上げられて浮かれたからか? 南郷は、柄谷光人の「バーグルエン哲学・文化賞」受賞について何か言ってる? Twitterで砂糖と味の素アンチの陰謀論者がバズってて玄和の陰謀論の人思い出したわ
その人も陰謀論唱えてて自炊を薦めてた割には短命だったな
玄和の合宿の食い物って肉団子とかあった記憶あるんだがあれこそ添加物まみれじゃないのか
輸入物のオレンジとかも出てたしあんなの皮に防腐剤添加されまくってんのに隣の奴が食ってたの思い出した
合宿だけじゃなく青雲塾も汚ねえ言葉で罵りまくりだったんだがあれって言われてる方にとっては精神的に良くないよね
今もやってる人ってどんな気持ちでやってるのか教えてくれ オレンジの皮の白いところまで喰えと言っていた班長は、本部合宿でたしかにいた。 『革労協主流派の非公然幹部逮捕 宿泊時に偽名疑い 50年潜り活動か』
https://www.asahi.com/articles/ASRC143X3RC1UTIL004.html
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