今まで俺が書いてきた内容は昔の唐手家たちの評価を落とす事にも繋がりかねないので、一応フォローしとくが。

船越が本土に唐手を普及に来たときもさぁ、講道館や他の武道関係者のお偉方の前で
約束組手を儀間と一緒に急遽作って披露したって言うじゃん?

船越だけでなく、摩文仁や宮城にしてもそうなんだけどさ
唐手というものを前もって普及しに行くって分かっていて、それで本土に来たのなら
当然本土に行く前に約束組手とか作って準備して用意しておくと思うんだよね。

でも用意してなくて、結局本土に来てから学生様たちに準備運動から始まり分解も約束組手も
自由組手に至るまで作ってもらってる。

一人で型やって巻藁突いて終わり、っていうのが当時の唐手のスタンダードで
自由組手や分解をしなきゃいけないのにしなかったりとか
型に技術をこじつけなきゃいけないのにこじつけなかったりとか、
ようするに技術の蓄積をしなきゃいけないのにしてこなかったのであればそれは怠惰なんだけど
そもそも現実に殴り合うことを想定もしていなければ、型に技術をこじつける意識も希薄で、それが唐手だったんだから
昔の唐手家が対人稽古してこなかったり技術の開発や練磨などを全然してなくても、むしろ当たり前で責められるいわれはない

何となく武術っぽい練習した気分にひたれて、筋骨がムキムキになって、あわよくば何もしてないよりかは闘争になっても役に立つかも?!
と妄想して心の拠り所にする。柔道やボクシングみたいに痛い思いや怖い思いをする必要もないのに肩を並べた気分になれる。
そういうコスパ最強の産物が唐手であり型であって、デメリットといえば実際の殴り合いにまったく使えなくてクソ弱い、程度のもの。
その殴り合いだって、一生のうちで何回遭遇するか考えたら、むしろ柔道やボクシングのように毎日対人稽古する方がコスパ悪いんだわ。

だから本土の学生も同じようにユルく受け入れてくれると思ったら、実際に殴り合いしたい! とかまさかの事を言い出して困ってしまった。
そう考えると、別に昔の唐手家が技術の積み重ねをしてこなくても、それはサボってた訳じゃないんだよな。その程度が唐手なんだから。