『格闘技通信』第165号
P19
・…ただ、今、考えてみると、我々はその段階の骨法に
多くのページを割く必要はあったのだろうか。
 かつての、掌打や立ち関節にオリジナリティがあった時代なら、
「こんな格闘技もありますよ」と紹介しても、おかしくはない。
 だが、それらのオリジナリティが陰を潜め、
寝技に0から取り組み始めた時期の骨法というのは、
状態としては”よくある”何でもあり系アマチュア団体に
近かったのではないか。東中野のひとつの道場で
”何でも有り”の研究をスタートさせたばかりの状態だ。
規模的には○○格闘クラブと、そう変わりはあるまい。
 そんな骨法の創作した技を、我我はどんどん紹介し、
多くの選手の憧れである表紙や巻頭記事を割き、
自流試合を増刊号でリポートした。
 もう少し、静かに見守って、成熟を待っても良かったはずだ。
 むろん、”何でも有り”を分析し、分かりやすく読者に伝えるうえで、
堀辺師範ほど明解に語ってくれる人はいなかった。
 だから、その評論はとても貴重なページだったわけだが、
それが”骨法の技術紹介”の掲載へと直結するべきではなかったのだ。
 結論――。
「これまで骨法に多くのページを割きすぎました」



これは有能な連中がやめたあとのことだったのかー(棒)