肥田式強健術 02
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>>754
( ・ω・)ずいぶん弱気ですね、20年さん笑
あれほどイキッテいたのに。失望させられました。
押し入れから体育座りで発狂して、一生を終えてください、ただそれだけの人生wwww 20年さんユーチューバーになったらどうですか?
スマホひとつあれば出来ますよ 20年さん、諦めずに頑張って下さい。僕も頑張ります。 >>754
そもそも聖中心の発動の成功って
何を示すのですか?
それによって何が出来るようになり何が得られるのか
何何処を目指して鍛錬されてるのか煽り抜きでお聞きしたいです >>765
ベンチプレスで10トン挙げられるようになる 強烈な自己肯定感・多幸感の時期と
強烈な自己否定感・絶望感の時期が周期的に来るって
躁鬱病にしか思えないんだが
躁状態だけを維持できる技術があればいいなあ
でもこの人の場合、術で躁状態になったわけじゃなく病気で躁状態だったのを
本人は術でそうなったと思い込んでただけだよね 胸式で吸って腹式で吐くのだから
横隔膜は上がったままだよね 気合いを掛けた時に横隔膜を下げて
腹を風船のように膨らますなということ
そんなことしたら脱腸になる。 フェルマーの最終定理の証明とか
安全なエネルギーの開発とかをすればよかったのに
春充って社会貢献してないよね? 日本は人口が多すぎるので、外国に移民を送り出せとか書いてた
今は少子化で移民を入れろと議論してる 簡易強健術の理論が書いた本はありますか?なぜこの型に至ったかなどの経緯がそれぞれ書かれているものが知りたいのですが。 >>780
春充の立場を知っていれば、
社会貢献をしてないなどとは口が裂けても言えない筈。
知っている者だけが知っていればば良い事だから。
知らない者は口を開くな。 >>783
前スレだったか孫文にあってる話しが書いてあったけど
本当だったら凄い話しだから春充の逸話がこのまま消えて行くのは勿体ないから
伝えるべきだと思うな
伝えないと高木一行も居なくなったことだし忘れられるのは時間の問題だな 日本亡命時代の孫文(孫逸仙、中山樵)を東京府牛込築土八幡下(日比谷公園)
の隠れ家に訪ねた、、 >>787
知ってる人は知っているし、
何より、本人があの世にまで持って行った内容だから。
それを口にして良いかどうかを判断できるのは
親族か関係者の子孫だけでは?
>>788 こうした逸話は大きなヒントになるとは思うけどね。
他にも足跡をたどると、ヒントは幾つも転がっている。
自分が聞いた限りでは、
日本を愛し尽力し、偉大な功績を残した先人であるとしか言えない。 >>782
18才から20才までの2年間は、ゆっくりとした動作で長時間鍛練した
呼吸法も長時間実践したと書いてる
24才の時、気合いを付け加えることによって時間短縮に成功
41才の時、聖中心覚醒と同時に、腰腹同量の大切さを発見
50才の時、鍛練時間2分のみ
70才の時は、鍛練時間40秒のみ
集約拳は前腕を緊張させるため
瞳孔不睨は雑念を払うため 春充は、とにかく右翼の大物と友達になれるぐらい
凄い気合いの持ち主だったのは間違いない 空中浮遊と未来予知は、高木のでっち上げ
薄紙を鉄板のように頑丈にしたのは本当 >>789
日本は人口が多すぎるから
外国に移民(棄民)させろと言った人が
愛国者かな? >>792
凄くまとまってていいね
聖中心ってもっと若いときになってたと思ってた
聖中心あっての鍛錬時間の短さってよく分かるまとめだ
聖中心覚醒には腰腹同量が鍵なのかな 岡田式静坐法、静坐のすすめ(柳田誠二郎)、新医学禅(長谷川卯三郎)などの本は、
正中心の参考になる。 腹力を鍛えろと書いた先人はたくさんいたが
これに腰力を加え、腰腹同量を発見したのは
おそらく私が最初である。これだけは少し自慢できることである。
by 春充 筋肉は1筋ずつ鍛えるのが、最も効果的である
by 春充 私は初期の頃、脚の角度を広く取っていたが、中心が出来るに従って、自然と90度に収まったのである
まず腹を造れ。枝葉は後から付いてくる。
by 春充 型をぐずぐずとやり直してはいけない。一気に流れるように最後までやること。
そうすれば、全身が爽快感に包まれる。
もしそうならないならば、あなたのやり方は、どこかが間違っているのである。
by 春充 私は殴り合いなど1度もしたことがない。
私に怒鳴られて、殴り掛かってきた者など1人もいなかったからだ。
周囲から恐れられていた右翼青年も、私が一喝すると、下を向いてしょんぼりとしてしまった。
by 春充 裏の体育と表の体育を繋いだ者がただ1人いる。肥田春充である。
春充の超能力で最も不思議だったのが、薄紙に気合いを掛けて鉄板のように頑丈にしてしまう能力だ。
底の空いた缶に気合いを込めた薄紙を張り付け紐で縛り、中に水を入れる。
それを窓の近くにぶら下げてると、1週間経っても水が漏れなかったという。
薄紙をネジって紙縒りにし、重りの付いた鎖に引っ掛けると、気合いと共に重りを机の上まで持ち上げてしまったこともあったという。
春充はこれを、宇宙力と呼んでいた。
by 裏の体育・表の体育 正中心が出来ると、スラスラ文章が書けるようになります。自動書記のようです。
学研や秘伝に投稿した文章は、そうやって書いています。
便利ですよ、正中心はWWW
by 高木一行 表の体育裏の体育は自分も読んだけどそんなこと書いてたっけ 2年くらい前か、本を出版して悟りを得たという情報発信していてそれなりに名が知られた坊さんが悟りは錯覚でした、僧侶を辞めますって
宣言していたそうだが、こういう宗教家、武道家、健康法指導者というのも錯覚が多いのだろう。
その坊さんは気づいただけ良かったのだが、
多くの人は気づかないでそのまま行ってしまうんじゃないのか。 >>811 その人は悟りを得たんじゃなくて
悟り前夜にいると宣言して、悟りを得る為に旅に出て失敗して
今までとりくっで来た事は全部思い違いでしたと言ってるだけ。
あんたの言ってることも間違いで錯覚だったと気付こうか。 なるほど。
肥田式は仏教の本を買う人がいるんだな。
他には春充が紙を固くするのに1ミリも姿勢が狂えばこれは出来ないという発言をしたそうだが、本当に言ったことなのか出来たことなのかすべてがわからないよね。
孫の昆虫が死んでいるのを透視したなど。 >>805 >>814
まあ、そうした超計算法とか超記憶術とか、
読唇術や透視術とか、各種霊術だとか
出来る人達や出来るように見せかけられる人達は大勢居るからね
やり方や練習方法だって確立されてる。
そんなに珍しいものでもないし、
必死になって追及するモノでもないかな、、、と。
いずれにしても、そこに本質を見つけられるかどうか? って話かと。 正中心から引き出された超人的能力でなければ、手品やソロバンであったなら本質もなにもない >>811
その話ここの過去スレで知って結構ビックリしたな
調べてみると所属してた所の坐禅じゃなくて流行の瞑想してたみたいね 悟りの定義自体があやふやなものだから錯覚だったとすら判断できないってのが正しい
個人的にしか拾えないような感性の世界を広く定義することなんてもともと不可能なのにな だからこそ禅問答が必要なのだよ
その解答如何で悟りの深さが分かる様にはなってる
ただし、それを計れるのは深く正しく修行をした方のみ >>821
それも結局は主観的な判断によるものでしか無いんだよな
だいたい導き役の僧が悟ってるかどうかすらわからんのに計るもなにもない
そもそも超自然的でファンタジーに寄りがちな悟りを重視するよりか
そうしない道元の只管打坐のほうが現実的だし
紀元前からやってた勝劣やら悟った悟らないという詰まらない論争から
距離を置くことが出来るという利点がある 私は高飛車に、『それでは胸が空いて、頭が軽くなると云ふやうにはなりますまい。
即ち無念無想にはならんでせう。駄目でせう。どうです。どうです。あなたはどうです』
と、飛び飛びに指しながら聞いたら、みんな、『駄目です。なりません』と、正直に
答えた。正中心の真境に徹することは、なかなか容易のことではない。やはり命がけの
修養を二十年、三十年積まなければ、出来るものではないのだ。 >>823 主観的ではなく、ある程度は客観的な方法や解答が用意されてはいる
そこは秘伝や口伝もあるので公開されないという事情がある
後悔されれば意味を失くす。 >>823
>そもそも超自然的でファンタジーに寄りがちな悟り
って何のことだ? それはクオリア問題とおなじでどう頑張ったところで客観性などもちえない
だから俺は悟ってる向こうさんは悟りがないといった言ったもん勝ちの状態になる
そしてひとたびその状態が訪れれば悩みが吹き飛んで全てがハッピーみたいな状態が
未来永劫続くかのような発想が悟りにたいする幻想
悟りとは無心で物事にむきあう瞬間のものでしかないといってるのが道元 >>827
曹洞宗系の悟りは物事が「苦」に転換しにくくなることだな
ハッピーとかじゃ無くて
禅は心の状態だけでそこに持って行くから
肥田式とか武道系みたいに姿勢を全然重要視して無いんだよね >>828
上座部とは異なって日本仏教は悟りをあまり重要視しなかったし
がんらい地道な心のありようだとおもってる
高い境地にある禅の高僧が春充の姿勢をみて平伏したという逸話があるが
これも床を足の形に踏み抜いたのとおなじで創り話だとおもってる
社交辞令で言ったことを大げさに宣伝してただけやろう 『大悟十八回、小悟は数知れず。』悟った後の修行(正念相続)が大切。 >>829
> 上座部とは異なって日本仏教は悟りをあまり重要視しなかったし
いや禅なんて悟りをどこまでも重視してるし上座部よりもしてると思うよ
上座部に関して結構勘違いしてる人が多くて上座部で有名なテーラワーダにしても
テーラワーダの人も自分たちは初期仏教とか言ってる人も居ますけど
これは嘘です(意識して嘘をついてるのか不勉強なだけなのかわかりません)
テーラワーダの本拠地のスリランカでは仏教は2回途絶えてますし
今ある瞑想は20世紀になって作られたものです >>827
>それはクオリア問題とおなじでどう頑張ったところで客観性などもちえない
>だから俺は悟ってる向こうさんは悟りがないといった言ったもん勝ちの状態になる
>そしてひとたびその状態が訪れれば悩みが吹き飛んで全てがハッピーみたいな状態が
>未来永劫続くかのような発想が悟りにたいする幻想
そんな話は君しかしてないってのが
先ずは客観的な現実かな
独りで思い込みをしゃべられても、それこそが幻想だよ、と言うしかないからさ それが思い込みじゃないならお前がただしい一般的な仏教観を言えばいい
違う違うといってるだけで分かったつもりを装ってるのは卑怯者のやりかたですな
楽なお仕事だ >>820
「仏教思想のゼロポイント」という本
悟りとは曖昧なものじゃなくて悟りを得たらはっきりわかるもの
ttps://www.tbsradio.jp/35285
9分ぐらいから >>834
経典を引き合いにだしてるけど経典ってのは山ほどある
そのなかに矛盾した話が大量にでてくる訳でひとつの言葉を経典のなかに発見して
仏教全体を定義づけることが不可能ということ、これは仏教を知ってれば誰でもわかるはず
悟りが分かると言とか分からないというのもチベットではとか漠然とした権威をもちだして
結局主観的な話にしかなっていない ある男性は本物の自閉症患者だった。無表情でロボットみたいなしゃべり方、音楽を聴いても感動することは一切なかった。
他人を傷付けることを平気で言ってしまうため、変人だと思われて仕事を次々に解雇された。
ある日、電磁気療法の治験に参加することになった。
その結果、相手の微かな表情の動きから、相手が何を考えているのかが素早く分かるようになってしまった。自閉症から超共感能力者に変身してしまったのだ。 彼は自閉症に関する講演会を開催した。聴衆は全員医師。
演説の最中、1人の聴衆と目が合った。その聴衆が何を感じているか、素早く分かり共感を覚えた。
聴衆と目が合うたびに、彼は心を読み共感を感じていった。
全聴衆が何を考えているか分かり、その全てに共感を感じた。
講演が終わった後、参加者から「こんな感動的な演説は生まれて初めてだ」と大絶賛されたという。
春充の超演説能力と似ている。
春充は電磁気の代わりに、気合いを使って脳に刺激を送り、脳を活性化させ超共感能力を使って演説をしたのかも知れないね。 脳内の独り言が消滅して静寂に包まれる
景色が光って見える
全身が歓喜に包まれる
クチの中に美味が広がる
↑以上は癲癇発作の患者が訴える症状
聖中心体験に酷似している
聖中心とは癲癇発作の一歩手前の状態かもしれない >>835 正直に言うと、それは君の修行不足が故では? ま、カリカリしてないで
おまいらちょっと 頭休めて癒されろください
https://i.imgur.com/lxWHSZ4.gif 禅問答には面接テスト的な意味もあるから
それが主観に過ぎないのなら
世界中のあらゆる場所で行われている面接テストが主観に過ぎないと
否定される事になる。
面接の評価は、勿論、主観性もある面で強いのだろうけど
それ以上に、客観的な根拠や理由が必要。 客観性というものはどこで誰が測定しても同じ結果が得られるような科学的根拠をもつ計測に基づいたもの
宗教がやってるような学術的な根拠をもたない面接などいというものは科学的態度からは恣意にもとづいた
主観的判断と看做されます 癲癇発作を意識的に起こすのが
肥田式かもしれないね 日本の将来を担う大学生が
夜の銀座の町を酔っ払いながら徘徊する姿を見ると
絶望的な気持ちになると、原著に書いてる
これを拡大解釈して、2000年後の未来を透視して絶望死したと書いたのが、高木一行。 いまだに一定数、高木の信者がいるというのが困るな
いい加減に目を覚ませ 春充みたいに体の操作で精神を操作してた人って他にいるのかな? >>850 世界中のシャーマニズムやそれに基づいた瞑想や民族医療、民族武術はみんなそんな感じかと。 はげ充みたいに精神がいかれたから、お薬にてをつけたんだな 「それで多幸感を得られるなら違法ドラッグでもいいだろう」この結論に至るのだから精神は狂っている >>857
最初は修行の助けとして使ってたっぽいけど
ニューエイジ系と同じで最後は薬物の奴隷だったんだろうね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています