某氏ブログより
極真会館、もと極真会の起源

戦後西池袋界隈は俗にいう闇市が大盛況にあった。南口は立教大学手前の二又交差点、現在の丸井近辺から現繁華街のロマンス通り一体は「闇市」の一大中心地だった。
ただ闇市といえば新宿も上野と例外なく大きな問題を抱えていた。
それが日本人と三国人特に朝鮮人グループの縄張り争いだった。そして同じ朝鮮人も親米の建青・建青一派と共産党系朝連一派だった。彼らは戦後疲弊した日本人を利用酷使して勢力争いに明け暮れていた。
1946年前後の話だ。
大山倍達(崔永宜)は戦時中から国民徴用令によって千葉館山の基地改造に携わっていた。大山の同期には後の東声会会長の町井久之もいた。既に仕事現場には共産党オルグが活躍し、後年の朝鮮戦争の火種は既に芽生えていた。
戦後、大山は建青千葉支部長として八面六臂の活躍をするのだが、ある夜、池袋西口の闇市で朝鮮人縄張りの責任者兼建青池袋支部長が朝連の急襲によって瀕死の重傷を負った。大山はとりあえず千葉を後輩に任せ要となる池袋支部長を兼任した。
そんな時大山が出会ったのが池袋西口闇市を全権を持って収める関口愛治・極東関口一家総代だった。
本来ならば闇市でのトラブルといえば日本人と三国人の勢力争いと相場が決まっていた。しかし以上の理由から池袋の西口闇市は日本人と朝鮮人の関係が上手くいった稀なケースだといえる。
その後、時が流れ神農系テキ屋団体・関口組も博徒団体との軋轢も生まれ始めていた。
こうして1960年。
大山と兄弟盃を交わした極東会総帥関口愛治との話し合いで、関口の舎弟、松山眞一が収める会・極東会真誠会から「極真会」を貰ったのが現在の極真会館のルーツなのです。