本部御殿手は客観的にみて突っ込み所が幾つもある。
まず一つは、王家の血筋での秘匿の武術ならば普通は徒手空拳の術ではなく武器術が主体である筈。
沖縄は武士階級や王家筋は帯刀が許されていたのは、現代では調べればすぐに解る事実の一つであり
また、素手の技術を磨いた一般の人間達も別に薩摩の侍達を仮想敵にしていた訳ではないのも少し調べれば解る事の一つになる。

だが、本部御殿手はその技術体系や技法を見る限り明らかに素手での技術が主体になっており、武器術はどちらかといえばオマケになっている。
当たり前だが、高貴な身分の人間達が徒手空拳の技術が必要になっている時点で、戦ならばもう負け戦であり、護身術としてならば別に一子相伝で秘匿する必要もなく、そして普通はやはり武器術が主体になっている筈。

もう一つは、長男のみの一子相伝というのも普通に考えておかしい。
本来、一子相伝というのは複数の子供達に指導してその中で最も出来のよい人間に継がせるという物であって、これが本当に長男のみに伝えるというやり方をとった場合、高い確率で数代で技術として断絶する可能性が高い。
現代よりも医術の技術が低かった昔において、死は現代の我々よりもより身近な存在であったから。
怪我、病気、小競り合いなどで現代の我々の感覚よりもずっと簡単に死ぬ。
長男にしか指導しないでは、あまりにもリスクが高い。
よしんば継いだ人間が長生きしてもその継いだ長男が武術に余り興味がなく、また武才の無い人間だったのならその時点でその技術の中核は失われる。

更に朝勇は上原翁いがにも何人か高弟と呼べる存在がいたのに何故、御殿手の技法は上原翁にしか伝えなかったのか?
また、その上原翁も朝勇が亡くなった時点でまだ24の若者でしかなくギリギリまで指導を受けていたとしても12代宗家を名乗れるほど御殿手の全てを継承していたとは考えにくい。