田代誠と肥田式強健術
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肥田春充の後継者にふさわしいカリスマ
圧倒的な実力 肥田式では腰の反り方で、いろんな意見があり、腰痛になる方もいるようです。
本を見てみると、椎骨と仙骨の接合点に力を入れて反らせるというのが多いですが、
天真療法のp.335の椅子運動法で、D仙骨の上端より、約2、3センチ下がった部分に力を入れて
充分に反る。と書いてあり、試したところ、思っていた腰よりも、かなり下の方に感じました。
これだと、上半身が虚で、腰腹の充実感があります。いかがでしょうか? >>395
兄の川合信水の子息、川合道雄氏は現在103歳か、、 肥田通夫氏は何歳まで生きたんだろうか?
ネットで検索しても出てこないんだけど… >>398
肥田氏の本が好きで読んでるだけの者です。
【宇宙倫理の書巻二】から抜粋
『毎朝十秒時の正中心大緊張は私にとりては、現世のパラダイスである』
『中心力一閃・・・忽如として人界の一切を離脱し、虚無別天地の聖境は絶美の装いをも眼前ってに展開する。そこに輝くは永遠の道、パラダイスのさざ波、涅槃の静穏ーしかして活生命のそよ風・・・空の彼方より無限に迫り来る法悦の響き・・』
『科学的理論及び科学的方法によって、煩悶苦悩憂愁を一掃する道なきにあらず。』
『思慮を絶すれば、煩悶苦悩は消滅する。思慮断絶の科学的具体的機械的方法は、円満な中心緊張である。禅の座法もその一つである。』
『仰臥式自然体姿勢による中心緊張で思慮を断絶する方法を私は明確に体得した。』
『この緊張━この刺檄、この全力…タッタ三回、一瞬にして一切を超脱━世界人類中只一人、無心独尊。』
『正中心統一作用が良く行われていると、人は心身共に健全であって、心身の存在を自覚しない。』
『それによって精神を、神経学的機械的に支配すると同時に筋肉内臓機関を健全にするのみならず強大なる体力を造ることができたのである』
『正中心大緊張は神経学的に脳幹思考中枢の機能を停止状態に置き、自ら無念無想の虚無精神となる。この純聖明徹なる霊鏡にこそ、真理の本質的姿は、初めて自ら映じ来たるのである』
『かかる経済的窮地にあって、心の悩みをいかにして解消し、旺盛なる元気を以って、勤労の道にいそしむことが出来るであろうか。それには実質的機械的に精神を強くし、肉体を健やかにする具体的方法を求めたい。
『私は云う。それには肉体の物理的重点に、合理的科学的の大緊張を与える事が最も有効であると。』
『中心力一閃、一切の思惟作用は突如忽焉断絶せられて、清明絶美の光明世界が、眼前の老樹の枝頭に展開せられる。勇胆岩の如く、直下に天下を脚底に踏断するの意気凛々として虚無心裡に湧出し来たる。』
『これは私が、正確な幾何学的姿勢を造ることによって、機械的に随時随所に発現し得る科学的方法である。』
『従って、熟練して精髄を得さえすれば、人類同胞諸君の何人も具現し得べき平凡事と云わねばならぬ』 オカルト信仰はカルト信仰と似てるね。
超能力なんてないんだよ。
騙されるな。 宇宙倫理の書巻二から
「━而して機械的のものである。機械的と云えば安っぽくなるものと誤解してはいけない。
機械的は合理正確を意味し且つ何人にも顕現し得る普遍的恩寵なることを意義するものである。」
「中心正緊張の大衝撃、大脳中枢に波及するや刹那に滅却し了す泡沫の業、頓に無上禅を活
現して欣悦を生じ、法雨頻りに降る涅槃の森━。
「これ即ち、総ての人に、平等に与えられたる神の大恩寵である。人間精妙なる最高極点は
総て納められて各人の肉体重心点に秘められてある。これを啓くことも捨つることも亦自由なる
の自由が自由なる人間に与えられている。」 「人体の物理学的正中心の一点が極まって虚無に帰し虚無極まって無限一となった時、心鏡
廓然として煢徹して塵曇なし。痕垢盡き除いて明光、茲に燦現す。心琴天楽と共鳴して無礙の
法悦、湧き溢る。」
「人間は自己の活きる務めを果たしながら、自己の人間としての完成に向かって進むべきであ
る。汝らの天の父の完きが如く、汝らも完かるべし神が神として完きが如く、人も人として完き
ことを目標に努力修行すべきである。」
「それには肉体の完成と精神の完成である。肉体の完成は体格の均整、内臓機関の健全、
体力の強大、動作の精錬を期すべきである。精神の完成とは自由性を以って理性と徳性とを
磨くことである。」
「大に渉り微に入り、広きに求め、深きに探らざるべからず。其処に向上あり。進歩あり。林間
の松韻、石上の泉声、静裡に聴き来たって天地自然の鳴佩を織り、草際の煙光水心の雲影
間中観去って、乾坤最上の文章を見る。」 >>105
無駄な修飾語を取ったら中身スカスカやで 「正中心は真中心であり、真中心は虚無中心であり、虚無中心は聖中心である。けれども何れも
、抽象的嫌いがあって、学的には全的容認を得られない感がある。されば、『人体物理的重点の
洗練修行』と云いたいと思う。洗練修行の字句では尚、観念的臭味を脱しない傾向がある。依っ
て単的に、『重心点における合理的大緊張』と云った方が明確である。実にや中心鍛錬は冷厳
なる物理学的幾何学的解剖学的力学的生理学的運動生理学的なるものである。
而して其の科学的緊張は、必ず神経学的に脳幹細胞機能に影響し、思考中枢作用に影響し
、期せずとも心を磨き精神を修め、生命を洗い、魂を浄むる働きを起こして、単なる肉体練冶
に終わらない効果を齎すのである。健康増進の如きことは下の下たるものであり、望まずとも
自ら随伴し来たるものである。」
『大師釈尊まさしく得道の妙術を正伝し、また三世の如来とともに坐禅より得道せり、この故
に正門なることを相伝えたるなり。』『この単伝正直の佛法は、最上のなかに最上なり。参見
智識の始めより、念佛、修懴、看経を用いず。但し打坐して身心脱落することを得よ』。 昭和陸軍の華美修飾過多の悪文の典型
海軍はもっとまともだったんだけどな
肥田の言説をそのまま受け取れないのは
あの盛るというか
はっきり言って作話の癖があると思う クンダリニーを上昇させて性中心を覚醒させると
聖中心とほぼ同じ体験ができる
脳内が完全な静寂に包まれる
クンダリニーを上昇させるには、厳しい鍛練は要らない。
気合いとか姿勢も必要ない
熟練するといつでも覚醒させることができる >>402
要点だけ読めば参考になると思うけどな。 口が良く回る詐欺師まがいのセールスマンいるよな
テレビショッピングみたい ◆川合式強健術より
私が御話したいと思った大体は尽きた。『強健術』はここに終りを告げねばならぬ。
奮闘の生活を送ろうとする志もなく、身に病苦の苦さを、味わった事もない人であって、難しい
理論と、冷ややかな批評眼とで、私の研究の浅薄を探るのに過ぎなかった者は、この記事
を読んでも、毫末の利益をも、受くることもできなかったであろう。けれども病弱に悩む、兄弟姉妹
にして、健康の奥殿に、体躯の鍛錬をしたいと、望まるる方にとっては、よし、みすぼらしい、私の
実験とはいえ、尚ほ多少の参考となり得たことを疑わぬ。、、 ◆天真療法p.334『椅子運動法』
第五安静に入れば、逐次正中心の鍛錬を行うと、回復がめきめきと促進される。この時期に
おける運動法としては、椅子を利用したものと、聖十字架型操練法とあるが、今回はその前者
について説明する。
この運動法は、椅子に腰をかけるので、姿勢が安定していて、健康の者にも非常に有効で
あるが、特に、老人や婦女子に適当するものであるから、おすすめする。後略 ◆天真療法p.336聖十字型操練法(仰臥式中心錬磨法)
この操練法は肥田式強健術の極意の型ともなっていて、極めて重要な操練法である。非常に
簡単であるが、心身強健の秘訣が、一点に潜んでいるのであるから、強健な人も、毎日継続して
実行されることをおすすめする。特に老人や婦女子にも適しているが、病気の回復期、即ち第五
安静期に入った病人は、まずこの運動によって、正中心の強化を図ることは、病気回復の第一
要件である。中略
病気を治す力も、強健体を形成する力も、この正中心の発動を活発にすることが、第一要件
である。病弱者には、この前の椅子運動法と共に、併用をおすすめする。 聖中心道p651
中心力による労働能率が、最高のものであることは、云うまでもないが、さりとて、労働の度ごと
に中心力を使うというのでは、甚だ窮屈でかえって不自然に陥りやすい。ではどうしたら良いかと
云うのに、ただ平素、正確に中心力を鍛えてさへ居れば、其れが自ずから、適宜に発動して、以って
知らず知らずのうちに、仕事が中心力で支配されるやうになるものである。即ち仕事と中心力が、
自然に一致して、ことさら中心力を使うというような、小細工を避けるが為めには、平生の規則正しき
修練が肝要である。 p652
腕組みしながら、話している時に、我が中心の力はあたかも電光の如く、時々、ピリッ、ピリッ
と両脚に閃いて、止むなく軽く踵で踏みつけたのであるが、其の度にごと望楼は、ドドン、ドドン
と、揺り動かされ、たちまち砕けて、数丈の崖下に、落ちはせぬかと思はるるばかりに震う。
私は自然に迸り来るこの中心力を辛うじて、自らわずかに抑へつつ楼を下った。かかる場合、
力の自然の発動に任せたならば、床を踏み抜き、根太を折るが如きことならば、まだしもの事、
一方の支柱が既に緩んでいるので、楼全体が壊れて、崖下に前倒れるの危険があるのである。
正しく腰腹の姿勢をとった場合、かくの如くに、中心から電の如くに、ビリッ、ビリッと、強大な
力が、自然に迸り出るやうにならなくては、中心の修養は、未だ堂に入れりとは、称し難いのである。
私の中心力抜刀術の型は、かくして凡て、自然に迸り出た、無為無形の型に過ぎないのだ。
『水鳥の往くも返るも、跡たへて、されども路はたがはざりけり』。 宇宙倫理の書巻一p285
運動するよりも労働せよ。労働は身体を動かして生産を伴う点において単なる運動よりも尊い。
けれども労働能率を高進せしむる基本的勢力の増進法があって、それにはほとんど時間を要せぬ
というものがあったならば、労働せんがために先ず、その運動を行うべきことが有意義であることは
論をまたぬ。正中心緊張の瞬間練修は、それである。 春充は文章の才能があるな
運動家としての活動の他に
小説家として活動すればよかったのに いや才能ないやろ
読んだ本から借りてきた用語をこれ見よがしに並べるという厨二病や
文章家としては一番恥ずかしいやつ 根本的健脳法p1序
『健脳法』などというと、如何にも私自身が、頭脳明晰、学識深遠、記憶力旺盛の者と、自ら許して
いるかのようにも、聞こへるが、私の所謂『健脳』というのは、そんな意味ではない。
私はもと、体も弱く、脳も悪く、頭痛はする。めまいはする。安眠は出来ず。悪夢に襲われる。
始終、高度の神経衰弱に悩まされて居った。どうかして、丈夫な体になりたいものだと、種々研究
実験の結果、いわゆる『強健術』を案出し、間もなく虚弱を一変して、無病頑健の体躯に改造する
ことが出来、さきの陰鬱な頭脳は、たちまち明るい、活き活きしたものとなった。ここに説く『健脳法』
というのは、その実験に基づいて生理的心理的に、脳神経を健全にするのに、最も簡易な、最も
有効な、そして最も根本的な方法であると私の確信する處のものを、率直に披瀝したのに過ぎない。
何の不思議なこともなければ、何の珍しいこともない。極めて自然な、極めて平凡な真理である。
体は何時も、活き活きして居って、頭脳は何時も、晴れ晴れして居る。病的な所は毛ほどもない。
何を見ても、何をやっても、愉快だ。雨雪寒暑によって、その健康を破られない。順逆成敗によって
、その精神を乱されない。これが私のいわゆる『健脳法』の目的である。 根本的健脳法 p265
私は、多年紛争を重ね来った地方問題の渦中に、身を投じ、連続一週間、激論争語、難問百出
の矢面に立って応酬し、頭脳の冷徹と、精神の平静とを保ち得た実際上の経験から、『怡然たる
、自己中心の世界』ということにつき、一段、啓発せらるる處があった。それは、協議会へ出る前
、ただ数回、強大な中心力を練って、無念無想の胸懐となり、平然として、これに臨むことであった。
交渉が行き難んで、丁度、鉄壁と鉄壁とぶつかり合った様になった時、しばしば決裂に瀕して
策の施しようが、無くなった時、交渉者は、血汗を絞り尽くして、顔色蒼白となった時、私は翻然
として、独り潜かに自己安住の中心世界に外物不可侵、春月悠々の聖境を楽しむことが出来た。
─平心は最上の武器である。 三島由紀夫や宮沢賢治などと同時代人とは思えないほどの悪文 p218
時候の加減か、何か非常な考えごとでもした場合に、頭痛がビンビンとするような時、寝て
休んでも、水で冷やしても、容易に治らなかったら、手ぬぐいで頭を鉢巻きにし、中心力強大法
による大緊張を十五回やって見るがよい。三、四分間たてば、ズーッと洗い取ったようにスッカリ
治ってしまう。実に不思議な程である。これは鬱滞した血行がたちまちにして、平均されるから
である。其の効果の確的迅速なることは、驚くのほかはない。これこそ最も簡便な頭痛退治法
である。
ただ一つ注意しておきたいことは、有熱の場合は、運動は一切止めなければならぬことである。
呼吸法すら、宜しくない。ただ静臥して、医治を受くべきである。 聖中心p516
それから私は軍刀の長いのを持ち出し、彼らが取り囲んで居る中に入って、額と額と一、二寸
位の處まで、顔を近寄せ、ヤッと一声、長刀を抜き放った。引き続き、違ったやり方で、数種、ぺラリ
、ぺラリと縦横に抜き放った。もとより何処をも斬らず、誰の着物に、触れさえもしない。切っ先は
人々の顔の直前をピカリ、ピカリと流れる。其の度毎に、ヒヤリと、度肝を抜かれたそうだが、身を
かわす、暇さえもないのだ。私の手が二寸ばかり鯉口で、動いたかと見れば、もうズラリと、
刀身は引き抜かれてあるのだ。ビックリして言葉も出ないのは、無理もないことである。しかも、
私は微笑しつつやって居るので、彼らは一層、不思議がって居った。
『何処でコンナ事を、習ったのですか。軍隊で教わったのですか』。『イヤイヤ、私が始めて
編み出したのサ。つまらん事だよ』。『ヘエッ。もったいないですね。先生をコンナ所に置いちゃあ』 p561
…突如─ 先生の右手が日本刀の柄にかかったと、思った瞬間、烈火の如き気合と共に、紫電
一閃、はや右手には、煌々たる長刀が引き抜かれてあった。この時、我ら両人の膝と、先生の膝
とは、まさに、相触れんばかりに、接近して居り、話に熱中せられて居って、先生の額は、我々の
額と相接するばかりに、近寄られて居られたのだ。その間隔わずかに二、三寸のものに過ぎな
い。我らが胆を冷やしたのも無理ではあるまい。だがその時は驚く暇もない。後になって却って
ヒヤとした位であった。もっとも先生は、一方はガラス障子、一方はガラス戸の嵌った本箱、
一方は壁、他方は紙の障子で、囲まれたタッタ三畳の道場で、其の長刀を、目にも止まらぬ
速さで、振り廻されるのであるから、人の顔の前で、抜き放つが如き業は、何でもないことだ。
この強大無限の中心力より、迸り出でたる一瞬の活動こそ、即ち心身一致の妙諦、體用合致
の極致を、示すものなることを思うて、ただただ驚倒讃嘆するのほかはなかった。 ↑四行目⇒近寄って居られたのだ。
当時大学生の吉田信恭君と森純吾君が八幡野の寓居を訪ねられた時の紀行文より そういう真偽不明な与太話の羅列よりか、3大学4学科に入学ってのが真実なのか知りたい
それか卒業できてないってオチじゃないだろうな >>438
それ、物理的に無理だと思うんだよね
入試に合格しただけなんじゃないかなあ >>439
昔の大学は今と違ってカリキュラムが割とゆるかったからとか聞いたことがあるわ wikiでは
1907年(明治40年)9月 中央大学法科、明治大学政治科、商科、早稲田大学文学科へ入学
1910年(明治43年)三大学、四学科を卒業 いくら緩くても4つも卒業するなんて聞いたこともないよな
明治大学では柔道部を立ち上げて主将をやってたらしいが
柔道のほうでは何の実績も聞こえてこない
強健術の逸話が本当なら柔道なんて楽勝だろ >>442
さすがに4学部は可能で事実、そして凄いことなんだろ
でないと当時から叩かれてる そんな大天才の残した実績が如何わしい民間療法だけって不自然すぎないか
もっと学術の世界で歴史に残るような偉業を成してて不思議じゃないだろう 即座に打ち殺してやる(聖中心p374)
その時も私は、事件に関して、Eとのみ、ごく穏やかに話をして居ったが、突如、私は態度を
決めて、Aの方に向き直り、『時に君、君はよく短刀などを振り廻して、脅かすそうだが、俺なんか
にそんなことをすると、一突きに打ち殺してやる』と、キッと睨みつけてやった。出し抜き、全く
の不意打ちであったから、彼の顔色はサッと変わった。後、彼は人に向かって、今まで一度
も、恐ろしいと思ったことは、なかったけれども、肥田先生に言われた時には、ギョッとしてすくん
でしまった、述懐したそうである。 お前こそ監獄へブチこむぞ(p374)
私は言葉静かに言った。『家屋破壊罪なんて、成り立つものぢゃない。成り立たんものを、告訴
なんかすると、誣告罪で、』……腰腹の中心を決め、威丈高になって、私は励声叱咤した。『お前
こそ、叩き込んでやるぞッ』。
青天の霹靂だ。彼は無論、私が、彼の乱暴な威嚇の下に、縮み上がってしまうものと、予期
して居ったのであろう。そこへ、無想だにしなかった霹雷落下に会って、彼は一度にすくんでし
まった。椅子の上でこしを折り、背中をまるくして鋭かった眼光も、猫のようになって居る。私は斜め
に見下ろした。 美事!八分板眞二ツ(p562)
……静寂と緊張との空気が流れた。
みるみる先生の眼光は、電の如く光輝き、忽として強大無限の中心力が、活動し始めた。一呼吸
毎に、正確にまとまって行く動作と、加速度的に、地球の中心に向かって、働く正中心とは、期せず
して、偉大なる活きた古代ギリシャの彫刻の如き、観を呈し、思はず恍然として、見惚れてしまった。
椅子運動法、簡易練修法、腹胸式操練法、順を居ってやられたが、我々はただ其の、広大無辺
なる中心力の活動に、何時しか魅了せられて、茫然として、凝視するばかりであった。 昔の大学は緩かった、なら、その学歴自慢の価値そのものが無効化してしまうよね。
大学卒業資格が社会的厳密な身分保証足り得るから学歴が重視されるわけで、複数の大学に同時に在籍して、各々の大学での学業研究が単に卒業資格を満たす程度のものなのか、それぞれにきちんと修めたのか、それが疑問だ。
学費を修めて卒論を提供すれば遊んでいても良い、という程度の緩さなら、意味はない。
そもそも、学歴自慢って意味あるのか?
大学を出たのは立派だが、卒業後は定職にも就かず死ぬまで親の金で遊んで暮らしていたボンボンでしかないのでは? 健康問題は合理的に(p570)
さもありなむ。実際健康問題など私自身にとっては、テンで念頭には無いんだもの─、
簡単な原則にさへ、徹底すれば、全然、絶対に解決解放されてしまう問題を大事そうに、
大層らしく、勿体ぶってヤレどうすれば丈夫になる、ヤレこうすれば病気にならぬなどと、
騒ぎ廻る現状を一瞥すれば、まことに浅ましき限りであって、顔をしかめずには、居られない
感じがする。 さらに彼の中心力より発する幾多の実験を示さるるに至りては、これが現人の所為かと、
幾度か思い返せしことであった。先生こそ荒れ果てたこの世を救う柱か杖の如く感じ、私の心
は幾度か、深夜ひそかに八幡野に馳せたであろう。 ああ、これ人の業なりや。神の業なりや。先生一たび、中心に緊張を与えらるるや、眼光炯々
として寸毫の隙もなく、厳然たる雄姿は自然界の何ものをも、圧倒し去る魔力あり。
先生の英姿、まさに壇上に現わるるや、新橋街頭、気車、自動車の噪音、忽として消え去り、
聴講者一同、宛然電流を通ぜられたるの感あり。この神秘的作用を受けて、時の移るを知らず。
俄然、心胆を抜かるること数回、一瞬時といえども、緊張を弛むるの余地を与へられざりき。
神人合一の境地にある、先生の一挙一動、一言一句、電光石火の如き中心力、無限大の
充実なる生命力。 その姿は摩利支天を彷彿させます。否、先生は摩利支天の権化であらせられた様に思う。
その数理哲学といい、晩年の千里眼能力に至っては、すでに人間の域を逸脱して居られた
様です。
この肥田式聖中心道たる人間精神肉体の健康維持はもとより、人間霊性の開発には、唯一の
安易道でありまして、人類の進化和平の道は一にこれに懸って居ります。哲学を研究し、宗教の
話を聞いても、大切な聖中心の力を度外視しては、全ては観念像に過ぎないでしょう。肥田先生
七十有余年の御生涯は、身を以って正道を体験実証されたのであります。前人が前人、凡人は凡人
並にこの安易道により、迷妄を去りて悟悦の域に達し得るとは何たる幸福。何たる自由の
獲得でありましょう。
摩利支天は肥田先生に化身されて、大衆にこの安易の法を説かれたのであります。
やがて近き将来、この聖中心道の生理心理学的研究解明がより精細に完成され、人類の
進歩発達に貢献する日も遠からずと信じます。その日を信じて我々ますます精進を継続
すべきものと思って居ります。 春充の著作って
各界でこう賞賛されたってコメントをたくさん引用してて
自分でこっ恥ずかしくないのかと思うわ 今の世よりか幾分殺伐としてたにせよ
春充に腕試しとかしにいった人間なんて本当にいるのかね?
暗算の早さを高めることは可能だろうが隣の部屋で今本の何ページを捲っているか
なんて五感の働きを超えててトリックでなければ不可能だろう まあ普通に嘘だから気にすんな
超能力なんてありません その話がウソだったら主張していること全ての根拠が崩れ去ると思うんだが
だいたい超人になったって話だけでも眉唾なのに強健術で健康になるってのもアテになるものか その素質は全然、ゼロであるのみならず、実にマイナスのマイナスであった。はにかみて、
低声で、どもりで、オドオドして、この点については私は、まるでお話にならん、低能さであった。
私の強健術について、実演を依頼された時、私の何よりも苦痛であったのは、説明すること
であった。(中略)
その時私は、聴衆から招かれて、壇上に立たされたが、ただ無言のまま裸体となり、無言
のまま一礼して十種類の運動練修の型を、実演して示しただけ、終わって又無言のまま、
一礼して降壇したような有様であった。それは実に、大正三年六月のことであって、一カ年
半の軍隊生活を終えた直後でありながら、演説の才能皆無の状態は、かくもあわれなもので
あったのである。 私大四校より東京帝国大学一つの方がずっとすごい
なんか受験できない事情とかあったんかな >>457
腹が出た、真面目にやると100%腰痛持ちになる、自称超能力者で、裁判所で奇声を上げて、死因は人類の行く末を未来予知した結果御飯を食べなくなって餓死とかいうキチガイだよ >>459
文系学科ばかりだし今時の受験生だって合格だけなら出来るレベルの大学やで
そもそも2個以上大学あっても講義に出席出来ないやんけ 現実の夢は破られて、泰西詩人と同じ感慨に、私もまた、空に届かぬ大木を、独り寂しく
仰ぎ見る身とはなった。しかして、学び得たるそれらの学問の、何れの一つだに活用はせず、
いたずらに無為の生を、草林の間に、埋めて居る。それもそのはずサ。兄より、学資の支給
を受けながら、気まぐれにも、おとぎ話の主人公が、抱くような非現実的な希望に憧れながら、
種々の学問をしたのだもの、、、、、
……アア、天意それ、何れの所にか存するものぞ。そもそもまた、愚劣、我が如き者には、
何の使命をも与えられないのであるか、、、 >>460
第二次大戦や核戦争の恐怖があったとき人類の未来云々は切実な事情ではあるが
ありきたり過ぎてちっとも新鮮味がない
チャップリンのモダンタイムスやオーウェルの1984年などディストピア作品の影響も
リアルタイムで受けて人類の未来に不安を感じ無いほうがむしろ不自然な時代 春充はそれまでが噓のように衰弱して終戦の10年後に死んでる
息子も亡くしてるしある意味戦争の犠牲者だけど
自らが誇ってた強健と比べてナイーブ過ぎるとも言えないかな
もっと悲惨な境遇の人でも戦後は前向きに生きてる人もたくさんいる
特に銃後の妻たちの逞しさなんて、それこそ強健な精神の持ち主たちだと思う
なんか日本の明治から昭和の誇大妄想化した時とそのメッキが剥がれた
流れを象徴した、時代の影響を受け過ぎただけの人のように感じる >>465
文字化けすみません
「それまでが嘘のように」です 大川周明のアジア主義や石原莞爾の世界最終戦争なんかも誇大妄想に過ぎた
彼らの理想を体現した満州国の建国が大陸や欧米の怒りを買って徐々に戦争へと突き進む訳だ
春充はこれに同調していてヒトラーにも共感を覚える始末
開戦を止めるのに奔走したかもしれないが、まず血の気の多い軍部を黙らせる為に組閣した
東条を敵視するのが間違いだし、結果としてA級戦犯で訴追された大川は
敵国から好戦的な人間と見られてたんだよ >>467
満州国の建国って避けられたと思う?
俺は無理だと思うんだよね日露戦争で勝ってイケイケドンドンになったからね >>459
だよなw 当時でも評価されるの東大だけだろ
そんなにすごいエピソードだらけの人物なら
現在でも南方熊楠くらい評価されてるはずだし。 満州からさっさと撤退して、アメリカと同盟を組んでソ連と戦えばよかったのに
韓国も併合せずに自治権を与えて放っとけばよかった
何から何までダメだよな それやったらソ連に占領されてリーチだろ
当時は中国LOVEで共産に危機感持ってなかったアメリカが日本と組むわけないし >>468
当時は、政府が統帥権の独立を標榜する軍を抑えられない状態だったからな
国は国際協調を軸とする平和外交をやってたのに国民は軍の強引なやりかたに喝采を送る始末
そんな世論に乗っかったマスコミもダメだった
戦後は、そんなことはすっかり忘れて軍が悪い、誰が悪いと悪者探しに奔走して
国民はその被害者とされた 春充がそういう好戦的な世相を喜び支持したという話をしてたんだよ >>475
> 当時は、政府が統帥権の独立を標榜する軍を抑えられない状態だったからな
結局帝国憲法に大きな欠陥があったんだよね
> 国は国際協調を軸とする平和外交をやってたのに国民は軍の強引なやりかたに喝采を送る始末
いや国民は戦争続きで厭戦気分だったけど
マスコミが煽って太平洋戦争に突入したんだよ
最初はマスコミなんだよ >>478
マスコミは当初、平和協調的なことを盛んに書いてたがそれでは新聞の売れ行きが
悪くなる一方だったので軍の暴走を支持するような威勢の良い方向に流れた
こんなことは何時の時代でも同じで、購読者が好みそうな記事を書いてるだけだ
単なる営利団体であるマスコミが政治運動なんかしてもしょうがない >>480
それはどうかな
戦前には尾崎秀実とかもいたし思想を優先して
朝日新聞は戦後もやらかしてるじゃん 戦前の新聞の影響力って凄いだろうな
ネットが出てきてようやく新聞の影響力減ってきた 尾崎は個人的にソ連の手先となり思想テロをやってただけの国家犯罪人
新聞は社として思想なんて優先してない
満州事変があった当時、労働者層に好まれた主に毎日は好戦的なことを書き
知識層が多かった朝日は逆に軍を猛烈に批判したことがこれを裏付けてる
その後朝日がどうなっていったのかは言うまでもないだろう
戦後、朝日が馬鹿なことばかり書いてるのは、ただそうしておけば部数が
増えるというだけの話でインテリが好みそうな綺麗事を適当に載せておけば
当面間違いがない 肥田式信じてる人って亀の甲羅焼いてヒビ割れ見て
天気予想してるレベルと変わらないと思う 当時の知的レベルは土人レベルだからね
肥田式も非科学的な幼稚な内容でも仕方ない 孫のカブトムシの死骸を隠して
超能力で見つけたふりしたんやろ >>483
いやいや尾崎秀実は朝日新聞で戦争を煽ったりしまくってたぞ
> 戦後、朝日が馬鹿なことばかり書いてるのは、ただそうしておけば部数が
違う思想を持ってる人が上に登ったから
https://ironna.jp/article/515
「これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、
戦前からあったということですよ。」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています