「【驚愕!】合気道の科学」からの引用

大東流合気柔術の創始者で武道の神様と言われた武田惣角は、柔道の絞技によって高校生に惨敗した記録がある。
八光流柔術初代宗家であった奥山龍峰が、その著書『奥山龍峰旅日記』の中に記している。
小樽新聞主催の対談で小樽商高柔道部員の村井顕八に向かって、「柔道など辞めて、貴殿も大東流をやれ。柔道は踊りでないか」と侮辱。
村井顕八は「ならばそれを証明してもらおう」と挑戦状を出した。
試合開始直後、武田惣角は衿頸を掴まれ引き倒されて寝技に持ち込まれ、大東流の秘術の限りを尽くして悪戦苦闘するも、力及ばず、無慙にも絞め落とされて気絶してしまった。
この敗北の後、「大東流合気柔術は、柔道の足許(あしもと)にも及ばぬ」という評論が一気に拡散し大東流合気柔術の存在は忘れ去られて行った。
他にも武田惣角は素人と喧嘩して殴られて前歯を折られて失神負けしたことがある。
村井顕八は後年、植芝盛平と棒術対柔道で対戦し、植芝盛平は武器を持っているにも拘らず村井に投げられて無残に敗北した。
武田惣角の一番弟子の植芝盛平も棒術を使ってさえ柔道に惨敗した。この惨敗以降、植芝盛平は試合を一切行わず、合気道を試合の無い武道として拡散して現在に至っている。
植芝盛平の弟子である塩田も勿論、試合をしたことは一度もなく、実戦経験ゼロである。