>>84
同じ96年開催の慧舟会との他流試合(B-1)も素手でやっていた。
UVFとB-1で評価を落とし、しばし沈黙。
98年の11月末、第四回骨法の祭典を開催する。

しかし、この二年の間に、総合格闘技界もめまぐるしく変動していた。
修斗が台頭、PRIDEシリーズが始まり、高田vsヒクソン、そのリマッチが耳目を集めていた。
なにより、肝心のUFCがグローブ着用を義務化、頭突きや金的などを排除した。
要するに、バーリトゥードがMMAとしての形を現しはじめていた時代。
そんな中、素手・頭突き金的ありを謳ってもキワモノでしかなく、リベンジにはならなかった。

「完成」を謳うだけあって「そういう競技」としては一定の完成をしたと思う。
ただ、やっぱり当時の堀辺さんはまだ中央進出への未練があったようで、この路線も捨ててしまった。