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【古流?】天心流スレ15【兵庫支部長の粘着】

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0001名無しさん@一本勝ち
垢版 |
2018/04/03(火) 04:10:29.78ID:hr9ukSqY0
【天心流兵法 捏造流派疑惑について】

本来天心流の鍬海氏は以下のように伝系を主張していた(2014年7月)。

・国富忠左衛門→国富弥左衛門→国富弥五左衛門→国富五郎衛門→石井家三代→中村天心

そして江戸末期に国富五郎衛門から香具師の石井家に伝承された時をもって関東の剣術となった。

しかし、水月塾支部長殿の調査によって以下の事象が明らかにされ、「国富弥左衛門→国富弥五左衛門→国富五郎衛門」という伝系が創作・捏造の可能性が非常に高くなってきた(2017年7月)。

・幕末の国富家、さらに福本藩の士籍に「国富五郎衛門」という人物は存在しない 。
・国富家は幕末まで代々「忠左衛門」しか名乗らない上、国富姓も福本藩にはその一件のみ。(=分家はなし)
・国富家の子孫の方が現在でも関西に在住している。

これに対して、突如天心流兵法は自分達が天心流の「江戸伝系」であることを主張し、上記の伝系の捏造疑惑は問題にあたらないと反論した(2017年8月)。

しかし繰り返すが天心流の元来の主張では、関東にはじめて天心流が伝わったのは
幕末から明治にかけての石井家の代である。(天心流公式サイトリンク http://tenshinryu.net/about.html ) ※魚拓採取済み

尚、水月塾支部の調査発表以前は、国富忠左衛門の名を代々が襲名していたことは明らかであったものの
幕末最後まで国富「忠左衛門」の名が受け継がれていたことは不明であり、
水月塾支部の調査によってはじめてその事実が判明した。
天心流兵法の発表は、その調査結果を受けているにも拘らず、
新主張では、福本藩の忠左衛門家とは別の国富家の系統を発生させてしまっていることになる。
しかし、五郎衛門らその別系統の存在の証拠は一切提示されていない。

以上により、天心流兵法の主張する幕末期の福本藩の国富忠左衛門家の系譜に誤りがあること、
それに伴う捏造疑惑はいまだ解決をみていないものである。
0002名無しさん@一本勝ち
垢版 |
2018/04/03(火) 04:11:38.08ID:hr9ukSqY0
【仮説】江戸柳生分流天心流兵法を名乗る団体は明治期以降創流の「現代流派」天心一刀流の系譜にあたる天心流であって
「天心独明流」や「三日月藩・福本藩の天心流」とは全くの無関係であり下記の同名異流の三流派はそれぞれ別物である。

1. 天心一刀流(天心独明流)
 東京国立博物館蔵「天心一刀流秘伝書」流祖は伊藤(伊東)一刀斎景久、天心独明流(一刀新流トモ云)の流祖は根来獨身斎重明と
 記載されているので、天心一刀流は天心流兵法とは無関係であると考えられる。故に四代として中村天心の名など繋がらない。

2. 天心流(三日月藩)
 水月塾支部長の調査によると
・国富家は代々嫡男しか忠左衛門を名乗れない(→兄弟親戚に同名はない)
・国富姓も福本藩にはその一件のみ(→分家はない)
・幕末の国富家や福本藩の士籍を数千人を調べても国富五郎衛門の存在が確認できなかった
 以上の事から国富家の系譜を受け継いでると主張しながら国富家の歴史をことごとく間違えている天心流が主張する、
 国富忠左衛門(→国富弥左衛門→国富弥五左衛門→国富五郎衛門→)石井家という伝系の( )内が創作・捏造の可能性が非常に高いと判明した。

3. 天心流兵法(元、石井家伝天心一刀流)
 古剣法保存会という紙切れに記載されていた「浪中刀」という技法を有する、天心一刀流のこと。綿谷雪の武芸帳の流派名鑑に
 「天心一刀流第四代 中村天心 東京都三鷹市」と書いてあるが現在の江戸柳生分流天心流兵法では中村天心は第九代となっていて、
 くわみ宗家が「剣術に関しては天心一刀流を名乗る」と宣言したことから伝系について更なる疑惑が生じた。
 
【検証】天心流は江戸柳生どころか福本藩の天心流と縁もゆかりもないだけでなく、
歴史的には剣術の流派であったはずの天心流が、抜刀術を主とする型構成に変異していたり、
川村氏や井上氏の所有する天心流目録とは技や伝承が全く一致しないこと、
三日月藩・福本藩は討幕派なのに対して、天心流兵法は裏柳生を称し、葵御紋を使用する等、
数々の歴史的事実との矛盾を露呈しているため、
「伝系の正当性を証明できないのに、却って開き直って色々怪しい伝承を付け加えてる団体」「真っ当な古流というには根拠がない怪し過ぎる団体」と指摘されている。
0003名無しさん@一本勝ち
垢版 |
2018/04/03(火) 04:11:50.86ID:hr9ukSqY0
【天心流の伝承にのみ残る文献資料には見られない歴史主張例】

「時沢弥兵衛は徳川家康公が伊賀越えを行った際に、同行、警護した者達の頭であった」

しかし、国富忠左衛門の死亡年月日は、柳生宗矩の死後ほぼ100年後の1741年で
伊賀越えと忠左衛門の死は159年も差があり、時沢弥兵衛と国富忠左衛門は絶対に出会うはずもなければ
二人には何の因果関係もなく、天心流が主張する江戸柳生分流との系譜に大いに疑問が呈された。

>天心流兵法流祖 時沢弥兵衛は代々同名を継いだ事です。
>流祖が何代目の時沢弥兵衛なのかはわかりません 

と、自流の流祖のことにもかかわらず何代目かわからないと、後出しの苦しい言い訳で逃げている。
ちなみに時沢弥兵衛、国富忠左衛門、さらには関東に天心流を伝えたといわれる石井恒エ門までも皆が皆、
三家ともが代々同名を継ぐ者で構成されたという、偶然にしてはあり得ない不自然な伝系のために、
歴史的矛盾や時代的齟齬を都合よく調整できる作為があることが指摘されている。

※国富家とは異なり、時沢家が代々同名を受け継いだことを証明する史料は一切発見されていない。
あくまで天心流兵法独自の新主張である。
0004名無しさん@一本勝ち
垢版 |
2018/04/03(火) 04:14:45.80ID:+ArDYNGb0
江戸柳生の闇は深い。
天下の滅んだ流派、闇夜に蛾が光を求めるように亡者どもが光を求める。
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