【公式】合気道関係総合スレ5【ワッチョイ】
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技の使用条件を出来るだけ広げていくためには
自由に技を掛け合うってのは技の使用条件を広げる事と
技の威力?を上げるためには必要なことだとは思うがやり方次第なんだよね。
過去の「秘伝」の記事に塩田剛三先生と養神館のお弟子さんたちが合気道の「試合」を
実験?してみたら、おたがい我慢比べみたいになって、それを見た塩田先生が
諦めたみたいな事が書いてあった。
型稽古では、「いぢ悪」な掛かり稽古みたいなのが限界なんじゃないかな?
試合をする合気道を見ると相手の手を取り合った状態で膠着するのをよく見るんだけど
型ではその膠着状態を当てで突破したり、相手の手もとらずひたすら躱し続けることも
使用法としてはありなんだよね。
だけどそれじゃ危険だったり試合にならなかったりする。
そういった事も含めて今後の研究次第だろうね。
>>304
> 死合いとか略す奴も居るよな
「死合」だからやっちゃいけないという考え方をしていたんだね。
仰っていたのは塩田先生の兄弟子に当たる合気会の師範だよ。
そのエピソードが「植芝盛平伝」に書いてある。
忌むべきこととして態々禍々しい字を当てたのにね。
今じゃマンガやゲームでカッコよさそうという浅墓な理由でやたらと「死合」と表記されているな。 >>308
現在柔道人口と古流柔術人口を比べてみ?
試合で負けて警察や学校に柔道が採用されて古流は滅ぼされたんや >>307
争わないで勝つんや
相手とぶつかり合わないで捌いていく
敵を味方にする武術 >>302
試合は80歳の達人が高校生に負けてしまうからね。高校生が優れてるというアホな結果になる 滅ぼされた?
何をもって滅ぼされたと言っているのかね?
大衆迎合され組織が巨大化して統制が取れてない状況が繁栄?
そもそも和の精神とやらに乗っとるなら滅ぶも何も最初から何もあるまい ID:lwXiWA+c0こいつガチャピンだよ
色んなスレでバカな事書きまくってる >>310
古流柔術が試合で柔道に負けたと言うより、嘉納治五郎が教育者の立場を利用して、学校教育に柔道を入れたからでしょう。
柔道のルールは、殆どの古流柔術各派の技が使えないもの。
敗戦後は、アメリカに媚びて、柔道をスポーツとして広めたのだし。
現在は、柔道は他のスポーツに負けて淘汰されているんですね(笑)
現実には柔道人気は凋落して、廃部されてきているんですから。
http://www.geocities.jp/aisyouaisyou/renseikan.html 嘉納治五郎先生が植芝先生に送った書簡に「試合をすると小手先の技術に走るから合気道は試合をしない方がいいと思う。オリンピック化はしたくない。」と言う事を書いていましたが、その影響もあるのでしょうか?
原文が見つからないので明言出来ませんが、乱取りは否定していなかったと思います。 武道全体がマイナーだもんなあ。
現在、一番人気あるのは少年空手かな? >>318
すみません、意味がよくわからないのですが…。
『嘉納治五郎は植芝盛平に対し、「試合をやらない方が良い」と伝えたが、乱取りまでは否定していないはず。』
てことでよろしいですか? >>316
ガチャピンて誰や?
批判だけならアホでもできる。お前のように
>>317
明治21年警視庁武道大会で講道館が勝ち警察に採用されて全国に広まった。
負けたら滅ぶ
>>318
嘉納は勝利主義の試合の弊害を語っているね。柔道に打撃がないことも不具の武道やとも。
柔道は打撃でやられると言っていた。いずれ剣道と柔道は統一されるとも言っていた。
打撃の乱取り方法を考えてる時の死んだんや >>319
空手は最も人気があるね。合気道は大学生やね >>320
乱取りは否定していないはずと言うのは読んだ時の私の感想です。
なので憶測に過ぎませんが、概ね仰る通りです。 まあ開祖は合気道は柔道よりも剣道に近いから後継者は剣道家にしようとして
剣道家の婿を取った。離縁したけどな 乱取りは必要かなと考えた時期は私もあったんですけどねぇ。
『開祖、植芝盛平すら乱取りはしていない』というお人がいるらしいですが、『開祖は乱取りの形にすらさせなかった』というのが正しかろうと。
一気に制しちゃったようなんですね。
だから、お互いが技を掛けようとする乱取りの形にならない。
その方法が解っていつでも成功出来るなら良いのですが、解らない、出来ない。
じゃあもった実際的な練習をやってみましょう、となって、選ぶのが「乱取り」となると、「乱取りの形にすらさせない」という術理は放棄することに。
開祖のやってた動きにはなりませんわな。
ならばと開き直って、乱取りを中心としたものに体系を作り直す人もいらっしゃいますが…それを合気道と呼んで良いのか?
よくあるのは手首の関節の取り合いからの投げ・抑えと打撃や刺突だけど、「それら以外使うな」とルールを決めないと成立しないようなんですよね。
それを合気道と定義していいの?
とかね。
打撃・剣戟・掴み合いに慣れたいのなら、合気道の道場の中で取り組むより、合気道の外で体験・学習した方が実りが多そう。 >>325の訂正
× じゃあもった実際的な
○ じゃあもっと実際的な 合気道SAだっけ?試合があるの?
美しくないよなぁ。
でも試合をやれば普通にあんな揉み合いになるよね。 乱取り稽古をするあたって 合気道の技術だけを使うことに固執し過ぎでは?
柔道 柔術の乱取り稽古の中で合気道の技術も織り交ぜる形態の乱取りでも構わないのでは? >>328
例えば、養正館合気道のような?
動画を張り付けたかったんですが、うまくいかんかったので必要なら検索してください。 >>330
https://m.youtube.com/watch?v=CI7U2Lz7LXs
これはお互い手加減しながら甘噛みで戯れてると思うのですが、柔道に合気道を織り交ぜるとこんな感じでしょうか。 >>332
非常に勉強になりました。
ありがとうございます。 乱取も自由組手も何のためにするのか分かってないと
勝ち負けを競う事に拘泥しかねないから注意しなくちゃね。
技を創る稽古と使い方を修得する稽古は段階を踏んで別々にしなくちゃ
それが分かっていないと
「実際は手首を取りに来る攻撃なんてしない」とか「正面打ちのようなチョップをしてくる輩はいない」
なんて的外れなご意見がでてくるんだよね。
指導者でもそんな事が分かっていない人が多いのが現状だが。 打撃もありの合気道的な実戦武術ならハプキドーが一番じゃないか?
おまえらに怒られるかも知れんが(笑) ハプキドなあ。(苦笑)
https://youtu.be/VZ102PswhbI
ほんのちょっとだけ、大東流から持ってきたっぽい動作があるな。身体の使い方が全く異なるけども。
大半はテコンドーや中国武術、空手を合成した感じ?
でもまあ、いずれ、日本でもこんなのが作られて出てくるんじゃね?
このスレ見てたら作りたい人いるみたいだし。
演武の仕方は違うだろうが。(苦笑)
もっとも、空手+合気道なんて日本でも昭和の時代からあるんだけどね。
身体の使い方は空手だし、表看板ももちろん空手だけど。 ハプなんちゃらと合気道では似たような技があったとしても根本的に理合が異なるんだが
「打撃もありの合気道的な実戦武術」っぽいモノがやりたい人には
魅力的に映るのかもね。
だけど合気道が好きで続けている人は多分そんなモノはやりたがらないんじゃないかな?
日本の試合をする合気道も理合が変わってる気がする。
合気道の合気道らしい所を曲げることなく技を創ってから
使い方(自由に攻防)を修得すればそんなに型が崩れることは無いはずだが
「空手+合気道」なんて外側だけを見て憧れる素人にはそんなことはわかんないだろうしね。 昨日な話の流れは、
「見た目が派手な合気道」「打撃ありの合気道」
などの程度の低いものを目指すのではなく、
型稽古(インプット)と乱取り稽古(アウトプット)を行うのが日本古来からの稽古体系では?という事と
もし今の時代にそれらを実践するのであれば、柔道は柔道の道場で、剣術は剣術の道場で、柔術は柔術の道場で個別に行う方が得るものがあるのか、ある程度織り交ぜた方が得るものがあるのかでは? >>338
剣術がメインで柔術は剣術の裏技
剣術の体捌きを柔術で使うんや
乱取り稽古って稽古方が難しいから嘉納治五郎ですら柔道に打撃を入れられなかったし極真空手は顔面なしになってしまった。
空手の頭突き目つき金的耳裂き、合気道の指折り、とかどうやって乱取りするねん
危険な技を排除するならスポーツになるで。
剣道でいうなら竹刀踊りになる。
やらんよりましととるかやめるかどちらかやな。 >>337
合気道は魅力的やな
和合の精神も関節技も演舞も魅力的や
弱いという欠点を除いてはな。
強くなるために柔道化したら合気道の魅力は全部なくなりそうや >>338
古代レスリングでは睾丸を握り潰したんや
柔道は釣り手で殴ってから投げるし鳩尾に肘打ちしてから背負い投げするんや
どうやって乱取りすんねん >>338
レスリングの寝技で尻の穴に指を突っ込んでひっくり返す技もある。 合気道をどう考えるか、その道場の方針は何か、自分はどうしたいか。
それらによって取り組み方は変わってくんじゃないの? >>343
どうもこうもねーよ
おねぇちゃん沢山入れて、新人一杯入れて、飲み会で古参がふんぞり返れりゃ完璧さ >>344
さすがにそれは無かろう…つーか俺の知る道場では無かったな。 >>344
国語力ないですね。
そういう事を話題にしてるのではありませんよ。 合気道は綺麗な演武から実戦まではば広く使えるいい武道だよ。
実戦的なコンビネーションの稽古してないけど、別に道場ではそれでいいと思うよ。
ただでさえ覚える事沢山あるんだから。
実戦的な展開としては他の武術をアプリケーション的に覚えればいい。
別にミックスしなくても自然に使えるから。
カリなんかは相性いい。
https://youtu.be/qlWoZOYBzww
この白帯おっさんよりはおまえら上手にできるだろ。 沢山の技のパターンを覚えることが上達みたいになってるところがおかしいと思うぞ。
身体の基礎鍛錬もしない。
一つの技を徹底的にに磨き上げることもしない。
それで次々と技を覚えても土台が貧弱だから使い物にならないものだけが脳にインプットされていく。
柔道でも空手でも経験した人は分ってるだろうが
一つの技をあるレベルにまで仕上げるためにどれだけのトレーニングをしなくちゃいけないか。
他武道の有段者なら、対素人にはそれなりにキレる技が使えるけど
今の合気道有段者で対素人に一教や四方投げを「それなり」に掛けることが出来る人が果たしてどれくらいいると思う? >>350
素人にそれなりの技なんて必要ありません
何せ合気道は相手と争うことを目的としないのですから
合気道を学ぼうと入門した人が真っ先に覚えなければならない事は効く効かない関係なく有段者の技に合わせて受けを取る事です
コレができないと有段者は顔を真っ赤にして怒って力技になり危険ですから気をつけてください
コレが道場での現状だろ こちらが何もしてないのに勝手に跳んでくれる人居るね。大概有段者。
「そんな不自然なことしなくても良いですよ。」というとキョトンとしてた。(苦笑) >>351
危険な力技でいいじゃん。
それが出来ないと使えないよ。 合気道のことよっぽど御上品なものと思ってらっしゃるんだ。 >>351
> >>350
> 素人にそれなりの技なんて必要ありません
> 何せ合気道は相手と争うことを目的としないのですから
そこで考えることを止めちゃいかんだろ。
大先生が「練習上の心得」で
「本部術ハ一撃克ク敵ノ死命ヲ制スルモノナルヲ云々・・・」
と書いているのに・・・
争わないから制することが出来なくても良いんなんて妙ちくりんな解釈をする連中が後を絶たないから
益々合気道はダメになっていく。
この間までは武道としての合気道は二十年は大丈夫かな?と思っていたがこりゃ十年もたないかもね。 翁先生が「武産合気」で言われている「真の武道とは愛の働きであります。合気の道こそ『愛』の現れなのです。」の一文ですが、
皆さんは武産合気における『愛』をどう解釈されてますか? 宇宙を神だと定義するなら宇宙からの発生源である我々生命体がお互い搾取するような争いって空しいだけよ。
愛とはお互いを思いやり共存共栄することや。
合気道は何故動く禅と言われるか?
禅は己の煩悩を取り払うこと。
煩悩とは自己欲。
自己欲とは他を傷つけてまで自分の利益にだけ行動すること。
宇宙の摂理とは自分と他が補完関係にあり共存共栄して自然の流れを止めないこと >>359
つまり仏教的な自然観
世界の全てのものが補完し合い調和を保ってる=草木国土悉皆成仏
「自己中心的に生きるな」ということですか?
素朴な疑問ですが、
「禅は煩悩を取り払うこと」と強調されてますが、煩悩を取り払うことに「執着」するのも本末転倒ナンセンスではないですか?
あと貴方はその「煩悩」を取り払うためにどう生きてるんですか? >>360
煩悩を取り除こうとするのも煩悩ですね。
合気道で言うと、力を抜こうとして肩に力が入ってしまうようなものです。
その為、禅には数息観のような何かに集中することによる方法が導入されていますね。
私は359さんではないですが、生活そのものに禅を息付かせるのはなかなか難しいと思います。
歩いても、座っていても煩悩が無いようにするには現代社会は忙し過ぎませんか? 煩悩を完全になくすのは出来ないですし自我が悪いと言っているのではないですけどね。
意識しながらやることがもう自己欲に基づいていると言われたらキリがないんですけど。
座禅しながら数息観一つやるだけでも雑念は結構消えますから。
心は安定しますよ。 で、改めてお聞きしたいのですが、
翁先生が「武産合気」で言われている
「真の武道とは愛の働きであります。合気の道こそ『愛』の現れなのです。」
の 『愛』をどう解釈されてますか? スターウォーズのフォースの定義もあるところから気持ち悪くなるでしょ。
強さを求めるのは個人主義の象徴で
強くなるためなら何でもやるのか?という問いに答えさせて
やるというならホモ行為を課す。
それで他というものを悟らせるのが簡単なんだろうね。 だけどスピード、パワー、リズム感という指針を元に
自分の体躯にベストな領域を探し始めると
その行為は社会的な脅威ではなくなる。
いまの情勢の権化は籍を去ることの出来ない爺さんの覇権競争だろうね。 >>363
相手と対立しない。力をぶつけ合わない
相手と和合して制していく >>367
【制する】おさえとどめる。支配する。
「和合して」「制して」いく
矛盾してませんか?
自然界では力がぶつかり合う事象は当然のごとく有ります。
あえて力を「ぶつけ合わない」というのは人為的で不自然ではないですか? >>368
自分を殺しにきた相手を殺すーー誤った武道
自分を殺しにきた相手と友達になるーー真の武道 >>363
主(す)の大神の愛、と捉えてたと思いますよ、合気道開祖は。 >>370
では主(す)の大神の「愛」をどう解釈されてますか?
キリスト教におけるヤハヴェ(父) イエスの本質である「愛」とはまた違うのですか? >>371
私は開祖と同じ信仰を持ってる訳じゃないし、キリスト教もあまり知らないからなんとも。 >>374
以前 神道や言霊的?な観点から自分が書き込みしたのが>>8なのですが、
神道を仏教 キリスト教と対比すると自分なりの疑問が生じ このスレで聞いてみました。
色々答えてくださった方々、ありがとうございました。 こういう宗教や思想については「武産合気」だけ読んでてもチンプンカンプンになるだけだよ。
大先生も「わしの話はわからんでもよい・・」と仰っている分野の事だし。
そもそも大先生は合気道の技もそうだけどあまり教えなかった方だったからね。
大先生が分かって話していたのかも疑わしいかも・・
そういった話をされる時はもしかしたら神懸かっていたのかもね。
もしも興味があれば神智学関係の文献を読んでみるとよい。
別の方面から理解するヒントが得られるかもよ。
「武産合気」顕幽神三界は神智学で言う所の物質界、アストラル界、メンタル界に対応しているしね。
大本教にも神智学の思想が入ってきたそうだから、それが教派神道の教義と融合している可能性はある。
でも天之御中主神が耶蘇教の主と同じなのかどうかは分からん。
「武は愛なり」も分からん。
ちなみに鬼一法眼 の「 来たれば則ち迎え、去れば則ち送り、 対すれば則ち和す。 五五の十、 ニ八の十、 一九の十是を以て和すべし。」
を引き合いに出して「武」と「和」の思想を説明されたそうだが、「武は愛なり」という境地になってからはその「来たらば云々・・」は話さなくなったそうだ。 >>368
正しい動きをしたら結果として相手を制してただけ。
武道、格闘技だからと囚われるのは間違い。
これ初心者にありがちね 三輪明宏が凄い越路吹雪の愛=恋愛=LOVE翻訳の愛の賛歌を批判してて原曲は愛=人類愛=慈悲らしいね。
愛という解釈は本来広義なのよね。
慈悲という解釈が本来近いのかしら やる事をやり尽くした人が宗教的な事を語るなら未だしも合気道ですら多少かじった程度で開祖が言った事を理解なんてできるわけがない >>380
だったら合気道人口のほとんどが開祖の言葉を理解して出来ないのでは?
40年50年合気道を修め続けた師範達を除いて。 合同稽古や演武大会で 多くの師範の指導や演武を拝見してきましたが、開祖を探究されてる師範は今ではホントに少数派なんだと実感します。 >>381
まさか理解している人がいると思ってるのですか?
人の考え方なんてその人の正解であって他人から見たら正解とはならない
同じ行動をとることによって方向性は似るかもしれないけど同じとは限らない
開祖は様々な武術をやって合気道という道を見つけ自身が正解(それこそ本人しかわからない)と思う処に辿り着いたかもしれないけど其れを猿真似だけして他人に語るなんてのは虎の威を借る狐 >>384
そういう屁理屈は開祖と全然違う合気道されてる人、開祖の研究もされてない人に多そう
その論法だと
ゴーダマの弟子は誰も仏教を理解出来ない
イエスの弟子は誰もキリスト教を理解出来ないと言っているのと同じでは? >>385
開祖と同じ合気道をしてる人なんて何処にいます?
宗教を持ち出す時点で目くらましをしている
釈迦尊やキリストを持ち出す必要が何処にあります?
大体仏教にしろキリスト教にしろ理解したなんて言っているのは新興宗教の開祖様と呼ばれる輩ぐらいでしょうに
日々の鍛錬を経て導き出された答えであっても其れはそね鍛錬をした人の答えであって他人から見たら解となるかなんてわかりますまい >>386
何ムキになってるんですか?
ハナから開祖と違う方向を向いて合気道を修めてる人を揶揄しただけです。
宗教なんてどうでも良いんですよ。
開祖が「愛」をどう解釈されて合気道に取り組んだのか。それが大事。
我々が「開祖は開祖だから」「開祖は別格 普通じゃない」とタカをくくって全然明後日の方向の合気道やってたらダメでは?
と言ってるだけです。
真摯に開祖を研究して、せめて同じベクトルを向くことが残された我々に出来ることでは? >>383
植芝家の中でも2代目と3代目で別物っぽく見える まぁ仮に、開祖と同じ合気道を目指す人が、再現率100%の開祖の教えを開祖以外から学べたとしても、同じ「愛」に至れるかは別だよな
時代の変化ってやっぱ深刻だし
道場の稽古風景ひとつ取っても全然違うし
人が合気道を学ぶ目的だって良くも悪くも多様化してるだろうし >>387
開祖研究・原理主義者と
個人主義・現実主義者による
「開祖の足跡を辿るとはどういうこと?」討論 開祖研究と現実主義が相反するとは限りませんけどね。 >>386
ではあなたの開祖の愛とやらの研究内容を御講釈していただけませんかね?
あと明後日の方向の合気道とやらも >>393
まったくもって仰る通り
研究と現実は矛盾するとは限りません
なのに自称研究者と自称現実主義者が噛みつき合ってるのが現実なんですよねー >>394
アンカー ミスってますよ。
正直申し上げて私が開祖の「愛」を自分なりであったり、神道や言霊を研究されてる方(この方々は合気道や開祖とは無関係ですが)に質問などして手掛かりを探ってる状態です。
なのでこのスレだともっと開祖の理解をされてる方がいるだろうと思い質問しています。
ちなみに>>8は私の言霊の師匠の解釈であり、開祖の「愛」と同一ではないと思います。
けれども理解の手掛かりにさせて頂いております。
単純に自分より有識者に質問させて頂き勉強中なのが今の自分です。
私が明後日の方向の合気道だなと感じるのは、筋力やウエイトに頼った技術(自己よりウエイトのある相手には通用しない技術)であったり、
約束稽古の中でしか成立しない技術(せめて柔道 柔術などでも良いから乱取り稽古=アウトプットはしておきたいですね)
を さも「これが開祖の合気道である!」「これが実践的合気道である」と主張されてる方々の合気道でしょうか。
初心者なのに生意気な意見ばかりで申し訳ないです。
なので長年 合気道を修めてこられた方々の考えを是非 ネット(5ちゃんねるなんてゴミの掃き溜めと揶揄されてますが)ではありますが聞かせて有難いです。 >>397
開祖は柔道と大東流をやっても強くなれなかったが大本教に入信してから強くなったんや
大本教で開祖は有名な黄金体験という悟りをしてる。そして神は愛やと悟り愛の武道に目覚めた。 >>397
まあ合気道で愛は極意なんや
合気道の稽古をしていけば愛がわかるようになるということやろな
あなたは愛をわかってから合気道をやろうとしてるけど逆やな
愛とは和合や
相手と稽古をしていくと結果として和合に目覚めるということやろ
武術の稽古をしていくと結果的に愛と和合に目覚めるということや 何かヒートアップしてる人たちがいるけど第三者の意見挟んでもいい?
お呼びじゃないならROMってるけど では、少々長くなりますが
最初の頃は、合気道の稽古で気とか呼吸とか言われた時の「訳わからん」度が高過ぎて拒絶反応が強かった
だって当初は感覚として馴染みなさ過ぎたもん
それに、知識として気とか呼吸を理解できたとしても、身について使えるようになるまであと何十年かかるかも知れん
そもそも生きてる内に合気できるようになんのか俺?みたいな
今習ってることがわからなくて稽古のしようがなかった
俺以外の初心者はおろか、何年もやってる人たちですら、わからないと言ってた
稽古してる内に自然と呼吸や気が身につくのが本来望ましいんだろうけど、それを待てず「こんなん役に立つか」って言ってやめていった人たちもいた
まぁ堪え性がなくて合気道に過剰なイメージ持ってたなら、やめた方が正解なんだろうけど
俺はここで取り敢えず師範を盲信することもできず悩んだ
実は師範がヤラセとかで門下生相手に威張ってるような人で、盲信して稽古した結果「やっぱ変!」って気づくことになったりしたら、悲惨だし
周りの「師範の言う通りやれ」って言葉じゃなく、自分の感覚で納得したかった でも、俺が本当にわからなくて悩んでた時に、開祖の言う愛とか和合についてその人なりの考えを持ってる人が
「開祖ってこういうことを言ってた人なんだけど、開祖が残した合気道をやっていって、開祖みたいなことができる人になれたらいいね」ってことをそれとなく教えてくれた
その内容が俺の価値観にうまく噛み合ったのがきっかけで、俺という一匹の悩める子羊の目から鱗が落ちた
今でも、あれはあれで1つの愛だったかなーとか思ってる
で、ここからが私見なんだけど 乱取はお奨めしない、富木先生が抑留から帰還されて
岩間を訪れて自身考案の合気体操をみせて乱取ありのスタイルでやりたいと開祖に言った時
そんなものを合気道と呼ばれては困ると激怒したんだって 俺は、合気道をやる人が必ずしも開祖のようになる必要はないと思うし、真摯に稽古した結果たまたま開祖のようになれる可能性もゼロではないとも思う(というか信じたい)
第一、戦争がある時代の人と、この(良くも悪くも)平和ボケした時代の人間がまったく同じ価値観になれると思うのは、それはそれで頭お花畑だしキモチワルイ
となると、開祖を研究する意義ってのは、開祖の言葉(日常の言葉や古事記の引用)を紐解いたり映像を見たりすることで、
「開祖が歩んだ後にできた合気道という道はこういう道で、その中にこういう要素が含まれてて、完璧にトレースできれば開祖みたくなれるかもしれない」
って自分を納得させるとこにあるんじゃないかと
だから俺は>>8みたいな「単なる知識」には意味がないと思う
いや、10年経ったら考えが変わってるかもしれんが、少なくとも今は
そもそも開祖の人格や思想を100%完全に知ってたとて、自分の生き方や人格に反映できなきゃ意味ないし いくら字を読んで自分の中でイメージを精巧にしようが、現実で開祖の気と比較して確認することはできないし
実践的な気や呼吸、技の探求は稽古の中にしかない
開祖の直弟子や、直弟子のさらにその弟子が、経験や生の言葉を教えてくれるならそれは素晴らしいよね
羨ましい
でも、今は亡き開祖の言葉を追ったところで、自分の感覚と乖離してちゃ意味がない
他の人の技を見て「あの人の技、あれ本当に合気か?筋力じゃね?」って思うのはわかる
でもそこから「研究してない」って結論に行き着くのは理解できない
「開祖が映像でやってた技ではない」とか「稽古不足」って自分の中で思うのなら理解できる
だって研究してようがしてまいが、開祖や直弟子の気を体感していないか、もしくは体感したけどそこに至る意志がないか、はたまた至ろうとして至ってないからそういう技になるんでしょ
そんな訳で私見をまとめると、「稽古の糧になる開祖の研究には、自身にとっては莫大な意義がある」ってとこかな
逆に、研究しなくても真摯に稽古できるなら、研究しなきゃいけないとも思わない
合気道に打ち込んでる内に自発的に研究するようになるのが理想的ってとこかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています