【太気拳】なんでも相談室 part3【意拳】
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part1で出た結論。
組手をしない会派は駄目。
どんな理屈を捏ね繰り回しても、
所詮は張子の虎。
駄目! 絶対!
新たに太気 意拳でどんな効果が出て 他武道や組手にどう応用できたかの体験談
や考察も語りましょう >>310
その言い方だと太気拳は本当は歳をとったらすぐ弱くなる
島田先生はUfcやキックボクシングの人達には勝てないと聞こえるが・・・ >>311
そんな事言ったつもりは無いけど
勝てるとか勝てないじゃなくてもう選手やるには
年取り過ぎてて怪我しても治り遅いし
UFC等のルールで勝てる研究やるのも遅すぎる
本人的にも今更やっても意味ないし
そもそもあの人武術家以前に喧嘩屋だし >>312
普段指導してるスパーリングはUfcやキックボクシングに見えるが・・・? >>313
今そうゆう事やってるんだ
正直全然知らなくて 常設道場持ったのも
数日前に偶然通りがかって知った >>309
言うても太気拳で戦う場合って、横から突っ込んで畳み掛けに行くか
逃げ回りながら戦うかの二択くらいしかなくないか? 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 >>313
松井館長にぶっ叩かれて何度もダウンしてたよね。 >>315
(>_<)爆笑wwwwww
それだったら、喧嘩なら強いって言い訳にしか聞こえんわ。(>>319も)
実戦も試合も両方弱いのが太気拳? 中国に似てくる日本 中国研究所理事長 杉山文彦
主権在民考えない発言
日本人は中国嫌いだと世上言われている。
事実、内閣府の世論調査では、中国に「親しみを感じない」という回答がここ数年7,8割を占める。
しかし私には最近、日本は日に日に中国に似てくるように思える。
自民党若手議員の勉強会で「沖縄の二つの新聞はつぶさにゃあかん」と気勢が上がる。
「法的安定性は関係ない」との発言が首相補佐官の口から飛び出す。
こういった発言は、共産党が全てを指導し、自由も平等も、また法的公正も、
みな共産党の指導(都合)に沿う範囲でのみ認められるという中国の体制の下でこそふさわしい。
実際、中国では政府に批判的な新聞の編集者が辞めさせられたり、社会活動家や弁護士が法的根拠も不明確なままに拘束されたりする。
日本はどうか。
憲法は主権在民、基本的人権、表現の自由をうたっているから、前述の発言は国民としての基礎的教養を欠き、ルールを無視しているということになる。
ところが、くだんの言は、選挙で選ばれた議員やその周囲に集う者の言葉である。
こうなると国民のかなりの部分が、主権在民や人権尊重を理解せずに物事を判断し、憲法に基づくルールとは違った心情で生活していることになる。
どうしてこんなことになってしまったのか。
長らく教職にあった私としてはやはり教育の問題を考えざるを得ない。
子供が自我を形成し大人になってゆくことは、それまでなんとなく従っていた周囲の状況を自分の目でとらえ直して自分なりの社会のイメージを形成し、
それに働きかけるようになることである。
いや、人権だの自我だのと面倒なことを言わずとも「美しい日本」の伝統によれば良いと考える人も多いだろう。
しかし、それではうまくいかぬことは、第2次大戦の悲劇が示している。
それでもという「美しい日本」派の人は、ぜひとも自民党の「憲法改正草案」と「中華人民共和国憲法」を熟読していただきたい。
両者はよく似ている。
どちらも権力の暴走から国民を守るためではなく、権力によって国民を動員するためのものである点で基本的性格を共にしているからだ。 >>292
相手も下手くそだったから良かったけど普通ならパンチの後にガード下げたところにハイキック来てるよな >>323
太気拳の人ってハイキック練習するんですか? >>324
空手家から太気へ移る例が多いのでハイキックも使う >>325
なるほど、つまり太気拳だけの人、柔道出身の人とかは蹴りの防御はできても自分は蹴れないわけですか。 >>326
蹴りの防御練習の時にお互いに蹴りも出すから全く蹴れないわけではない >>327
軸足は返しますか、また踵はあげますか? >>327
前蹴りとか膝蹴りくらいでフルコン空手の人みたいに接近してのハイキックとかはできないですよね。 できない人もいるし
できる人もいるが
ふだんローしか蹴れないふりをして
他流試合では上体を後ろにそらしてハイキックで目を蹴る師範もいる。 基本的に軸足の踵は返さないと良い蹴りは打てないんじゃないですかね 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 物理的に回し蹴りは軸足の踵をしっかり返さないと蹴れないようになってますよ
蹴り足の鋭さ=軸足の踵の返しの鋭さと言っても過言じゃないと思います 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 純粋太気の人は龍形拳の足の高さ位しか蹴れないんじゃないですかね
だから前蹴りとか 太気を何年もやって何も感じられなかった人間と(内容や言葉遣いからして経験者ではないと思う)、もう1人のおかしな掛け合いコントみたいなスレだね。 立禅で内功を鍛えるってよくきくけど、鍛えられるとどんなメリットがあるの?
内功の定義が曖昧で、人によって違うから大気でいう内功の定義を教えてもらいたい。 >>338
誰とは言わんが
部外者と部外者が太気拳を語らってる訳わからん状況だな。
経験者が突っ込み入れようにも、間違いだらけでどこから突っ込み入れたらいいか分からず放置状態。
コピペ爆撃も加わってキチガイ三国志の幕開けw >>339
独りよがりな立ち方がわかるだけ(笑)
ナイコ―なんてナイコ―(笑) >>338
ぶっちゃげるとそれ以前に馬歩や三体式をやり込んでたのでそれ以上の物は何も感じられなかったって話ですけどね 立ち方わかったらさっさと違う練習した方が良いですよ
そんなもんに練習時間割いてるのはもったいない
武術は他にやるべき事いっぱいありますよ >>339
・力が増す
・腸がまっすぐになるから快便になる
・鼻の通りが良くなる
・気が強くなる
・制空権ができる
・喉が広くなる
・元気になる
・空気の流れや汚さが分かる
・自分の身体の状態が分かる
簡単に並べるとこんな効果の数々。気ってあるんだなって実感できる。 強い筋力を使わず骨格だけで立つ訓練
骨を繋げる訓練
物理的に強い場所を探す訓練
立禅にこれ以上のものが何かあるんですか?こんなもんが出来たからって別に強くなれるわけじゃないし 太気拳は立禅が全てと言ってもいいくらいだよ。
俺は立禅で2倍は強くなった。 では慣れ親しんだという三体式と馬歩をやればよろし。まさか立ち方のみで奇跡が起こると思ってるのかな。
まじめに答える意味ないですよ。部外者だもん >>350
僕は奇跡とか神秘とか摩訶不思議とかそんなの求めて無いですので
個人的には馬歩はともかく弓歩が甘いのでそれの見直しですかね 貴方たちはどうか知りませんが僕は物理法則、この宇宙にある法則以外は一切求めません プロの気功治療師は患者に気を吸いとられるから毎日最低二時間はタントウで気を充電しないと気が足りなくなって死ぬ。
(ただしレイキ・ヒーリングみたいに宇宙の気を使うのはこの限りにあらず) つまり外気治療ができないタントウは自己満足にすぎない。 >>358
澤井健一は
硬気功を北京の大道芸人から習ってたから石や石灯籠が割れたけど弟子には教えなかった。 >>355
貴方にはあなたの考えがあり僕には僕の考えがある
気功なんてファックユー この僕の物理的常識を覆せる程の何かがあるんですかね? >>364
誰が中国武術と言った。
学問、学力だよ。学校の勉強だよ。 門外漢として立禅の意味を言ってみる。
ムエタイガードというものがある。
後ろ手は拳をこめかみまで上げてガードし前手は前方にまっすぐ、もしくはその肘を外側に張り出して前方に出すというものである。
しかしこのガードが嫌いな人もいる。 てめ〜太気スレで中指立てといて無事に帰れると思ってか? >>367
勉強は好きなのでやってますがそれが何か? 理由は前方に出している手を払われてしまったら意味がない。
というものだ。
しかしタイ人が払われて突破されたのをみたことはない。
僕の言ってる意味は立禅の意味が分かるひとなら分かるはず。 物理とか宇宙の法則も突き詰めると摩訶不思議だよな
実は人間には周囲の空間と時間を歪める力があるだなんて信じがたいよな
もちろんごくごくわずかにだけれども 巨椋の複数名無しのキックの高校生に負けたシリーズが終わったら知念とsaruが代わりにスレを占拠したんだよな。 今は能力落ちてますけどそれでも平均からすると可成り頭良いと思います
これは遺伝ですので saruくん、中指立てたんなら立ち会う覚悟はできてんだろな。 てめ〜
【気功なんてファック・ユー!】とかほざいて、とぼけて誤魔化してんじゃね〜ぞ!ゴラァ! >>375
ふーむ。オフをやって主張を掌返ししたりしてスレをかなり盛り上げたんだがな。 >>378
頭のよい君なら373で何について語っているのかわかるよな >>383
そりゃそでしょ
まともに武術武道やってるなら物理法則に無い気功なんて眼中に無いでしょ 王郷斉は文化大革命の政治弾圧の影響で著書から気とゆう文字を削除して神経理論に宗旨変えしたが内功は触れると電撃ができた。
しかし凌空勁は弟子の尤彭煕しかできなかった。 >>384
まさか2重スリット実験の条件設定ミスを観測者によって変わるとかアホな事言ってるんじゃないでしょうね この世には電気ウナギとゆう生物もいるけど科学的に公認されている。
おまえは釣りがうまいな。 saru氏は馬鹿にされるのは嫌だが、他人を馬鹿にするのは平気らしいな。 時間と空間の歪みというフレーズでわからないかな
武術武道とはあんまり関係ないから別に知らなくてもいいと思うよ saruくんは太気を数年やって納得できなかったくせに
気功をバカにするとこだけは
しっかり太気に洗脳されてんだな!(爆笑)
気功を否定してる師範は内功も頭うちだぞ。(笑) >>392
相対性理論のなんか言いたかったんですか? >>394
僕はそのナイコ―ってのいらないですから もしかして
名無しはsaruの自作自演の話題そらしか?(爆笑) >>391
いや別に馬鹿にされるのも嫌では無いし、他人を馬鹿にはしてない
アホとは書いてるけど 嘘つけ!
内功を求めて
最近オフ会に出てたくせに。
あれも自作自演か!(爆笑) >>395
そうだよ
時間と空間を歪ませるものは重力
重力は質量を持つ物の周囲に発生する
人間は質量を持つ
もちろん人間の質量レベルでは時空の歪みはごくごくわずか
単純な話だったでしょ 出て無いですよ
ナイコウとか興味無いですから
立禅もやらないと組手やらせて貰えなかったからしょうがなくやってただけだし 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 >>400
それがどうかしたんですか?
僕の武術武道は高校レベルの理数の知識で解決する事ばかりだし必要無いです
ま、厳密に言えばそれも宇宙の物理法則ですけど 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。
「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、
日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。
それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。
「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。
「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。
つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。
ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。
巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。
捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。
そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。
だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。
自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。 能書きはいいから
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