結果的に日新館が岡大の退路を絶った。
連盟内部で、問題視されていたのは備中伝と竹内流との関係性であり、日新館と相伝家道場ではない。
司箭流、今枝新流、岡大古武道は連盟に残留し、調整を継続するという選択肢も可能だったのではないか?
感情的になって「ほな、やめたるわい!」と一気に兵を退く局面だったのか疑問が残る。
岡大古武道は、司箭流、今枝新流の演武という名目の下に表面的には備中伝と絶縁できた。
日新館の代表が、岡大古武道も巻き込んで脱退したというので、そのような細かい配慮はなかったのではないか?
この件についての日新館側からの公式ななんらかの説明を待ちたい。