剣術では、まず先の攻撃技を完成するのが本筋である。
そのために、まずは自由自在に切り、突き通す技術を必死で身につけるのである。
そして、その命懸けの技術を、こともあろうに丸腰、素手で行うからこそ、
無刀捕りを神業と言うのである。
神業とは人間にできなくて当たり前ということである。
この剣術最高境地の神業である無刀捕りの構造を全く理解せず、
また、しようともせず、演武会のたびにその真似事をして(つまり本質は単なる時代劇的な約束アクションでしかないのに)、
こともあろうに剣術会究極の神業である無刀捕りを披露しているのが他ならぬ我らが大東流や合気道なのである。
私は、いつも、このような武道の超絶技にして、悟りでもある剣の奥義をあまりにも軽んじたショー的な演武を見聞するにつけ、
大東流を修行する末端者の一人として、剣の道を命懸けで究めようと日々精進しておられる方々に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになるのである。