★★★  宗道臣だけでなく、上原清吉をも嘘で宣伝に利用していた 八光流 奥山の下劣な手口 ★★★

上原が1962年(昭和37年)、知り合いの空手家に誘われて、

那覇市で開催された八光流柔術の講習会に4日間だけ参加した記録があることから、

本部御殿手の取手術は八光流の影響を受けているのではないかと主張する研究者がいたが、

本部御殿手側の資料提供により、上原清吉はそれより数年前から取手を教授していた事実が明らかとなり、
この説を唱えた研究家が雑誌上で謝罪して、この説は否定された。

この講習会は、奥山が沖縄県の新聞・テレビなどを利用して派手に宣伝したため、

上原に限らず沖縄県の多くの空手家が見聞のために参加していた。

なお、八光流は那覇市講習会の半年後の昭和37年発行の師範銘鑑で、

上原清吉の道場を「支部」として掲載しているが、そのとき上原清吉は道場をもっておらず、

架空の道場名を掲載して自流の宣伝に利用していたことが判明している。
(上原が道場「聖道館」を建設したのはその二年後)

八光流柔術は大東流の分派であるが、当時はその事実は隠されており源義光を開祖とする柔術という触れ込みだった。