『天神真楊流は変人信用流』 [無断転載禁止]©2ch.net
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わざわざ時間を掛けてこんな駄作を学ぶより
もっと役に立ち人生の糧となる素晴らしい流派を探して学びましょう。 技術はさておき、この流儀の人々は、
人を馬鹿にしたり、横暴だったり、
虚偽を言ったり、騙しとったり、
ろくな者がいない。
なにか、まともじゃない感じをうける。
おかしな連中にはかまわないことだ。
人生をむだにしちゃいけない。 まして、よその流儀のことをばかにして、
くさしたり、けなしたりするようなのは、
武道家として失格だ。
人格のおかしな指導者が多い流儀だ。
そういうところには、やはりそういう人間が居つく。
似た者ばかりが集まってくる。
人がだめになるような武道は、やってはいけない。 真楊会のことか。
以前通った人たちの評判わるいもんね。
かといって天楊会も久保田さん死んでからぐだぐだのようだし。
天神真楊流はそろそろ絶滅するんだろうなぁ。 たぶん天楊会の方が先に消滅するよ。
真楊会は若手がいるようだからもう少し続くかもね。
ただもう技法の方は本来の天神真揚流から崩れてしまってどこもダメだよ。
かといって、口伝や殺活法は真楊も天楊も教えていないようだし。
目録、免許、免許皆伝と各段階で学ぶ技(殺活法、口伝、薬法を含む)が明確に定められていて
段階的に稽古できるようになっていたのに
柴田も久保田もそれを廃止してしまったからね。
それが衰退の原因の一つだと思う。
柴田一門も久保田一門もこれらを今の時代にそぐわないとか言って軽視していたようだが
傳位制はいわば、流儀の骨格のようなもの。
これを廃止すると一気に会の衰退が加速しグダグダになる。
現代武道でいう級段位制にあたるものだからね。 どいつもこいつも頭悪すぎだよ。
たかが門人10人程度の小規模な会すらまともに運営できないようではね。
流祖の磯又右衛門柳関斎源正足なんて電話もメールもパソコンも無い時代に
全国約5000人の門弟を統括していたのに。 なるほどね。
久保田さんとこはかつては乱取りに走りすぎたことがあったらしい。
それで型稽古がおろそかになって、最近は立て直そうとしているみたい。
柴田さんのところは最近は技自体をおかしくしているらしい。
順番めちゃくちゃにして座技など廃除したりひどいそうだ。
元々天神真楊流は、図や文章にするべきたくさんの方法論があったのに、
ほとんど伝わらなくなってしまったのは、伝えかただけでなく現場づくりがいけなかったんだとおもう。 磯又右衛門はすごくのびのびとおもしろいことをひたすら追求していたにすぎないんじゃないかとおもう。
だから人気になる流儀が生まれて江戸で賑わったんじゃないかな。
そういう楽しいひたむきな態度がなく「伝統だ」といって駄々流しにするようなことしかできないから、
せっかくの伝統も腐敗していくんじゃないのかな。
この2017年現在にそんな組織づくりしか出来てない時点で無能の集まりなんじゃないの。 >>10
久保田の師、酒本房太郎(柔道九段)の代から乱捕至上主義。
さらにその師八木寅次郎も型はやってたが、やはり乱捕好き。
横山作次郎を講道館から呼び寄せ練習相手にしてたとか。
久保田派が崩れ始めたのは八木の代からだと思うね。
柴田の方は乱捕はあまりやらなかったようだが、
二代前の宮本半蔵とかは柔道7段持ってたはず。
相宮はやってなかったと思うね。
崩れ始めたのは相宮の代からかな。
記憶があいまいだが
かつて酒本房太郎と宮本半蔵が演武会で演武をすることになったが
構え掛声、形が違いすぎて稽古にならず組むのをやめたとかいう話があったね。
実際、今もお互いを批判し合ってるよwww それは凄いエピソードだね。
まさに今の双方を体現している。
柴田さんのやってるのと久保田さんとこのやってるのはあんまりに違うからね。
先人が図解すら作って残してくれてあるっていうのにこのズレっぷりは酷すぎる。
いかに伝えることに失敗してるかってことだとおもうよ。 久保田さんとこは、八木からおかしくなっただろうね。
柴田さんとこは、柴田さんからおかしくなってるんじゃないかな。 かつて江戸でもっとも盛況した柔術が今や会ふたつとも絶滅危惧とは残念でならない。
むしろ九州あたりで小さく伝えているところにひっそり綺麗に伝わっていったりして。 天神真楊流が全国に広まったのは会がしっかりしてたから。
家元制にし本部をしっかりと定め、支部道場を統括できるようにしたんだよ。
細かいルールもしっかり定めた。
違反したら破門にし伝書や切紙を没収した。破門にされた門人は数知れず。
それに各段階で習得できる技を定め、
各段階に達した門人には伝書切紙を与え
目録だか免許までいったら支部道場を作って門弟を育成することを許した。
やり方としては、講道館に近いと思うね。
真楊流は現代武道方式の先駆けだと思うよ。
ただ家元の目が届かない門人達はやりたい放題やってルール無視なんて当たり前で
当時からグダグダだったようだけど。
破門にされた奴が独立して新流派を創始したりしてるし。 >>14
柴田に技を教えた相宮も悪いよ。
弟子を教育するのは師の役目だからね。
他に門弟がいればこんなことにはならなかった。
>>15
地方の真揚流は講道館柔道に鞍替えした所が多いからね。
今でも古臭い柔道場を調べると真楊流の稽古場だったところがいくつかあるね。
20年位前はまだマシなのが各地に残っていたらしいが。さすがに今はないでしょう。 >>16
なるほど勉強になる。
やはり組織づくり運営づくりがきちんとしてないとこういうものは発達していかないんだろう。
磯又右衛門の家系が途絶えてしまったのは残念だった。
本家がしっかりしてればもうすこししっかり残ったんじゃないか。 >>17
悪い人にそそのかされたのが失敗、相宮さんは脇が甘かったね。 組織と傳位やルールがあってこその技だよ。
根 組織
幹 ルール、傳位
枝葉 形、口伝、殺活法、薬法
家元制を採用していた真揚流は、
家元が途絶えた瞬間から消滅への道を歩み始めた。 >>19
うーん。
明治とか大正とかに建てられた柔道場の歴史を調べてみると
元々柔術の稽古場だったところが多いって感じ。
ただ、真揚流と柔道の共通点は乱捕と講道館護身術の一部の技だけだと思うね。 >>21
樹木でいうと根が腐ってしまったかんじか。
磯さんは尾張の出身らしくてどちらかというと関西圏の人。
天神真楊流も京都北野天満宮で発祥したものと伝えられている。
その「京都」っていう点は磯さんの装飾なのかもしれないけど。
でも、もしも磯さんが江戸のほうの家系だったらもう少ししっかり残ったんじゃないかな、なんて考え過ぎか。 >>22
つまりは、真楊流型技術→乱取りテクニック→講道館、ていう時代の流れだよね。
もちろん乱取り自体は他の流儀でもやっていたらしいから真楊流にかぎったことじゃないけど、
でも柔道競技が抑え込み技を一本にしているのは真楊流ゆかりだなぁなんて思ったりする。 楊心流が太宰府天満宮だから、菅原道真繋がりで京都の北野天満宮にしたのだろう。
京都で修業しているときに内弟子の岡田縫殿之輔、西村外記之輔を召し連れて
天満宮の絵馬堂で手解、試合裏、投捨を編出して自らが学んだ流派の文字を取って
天神真楊流と号したとある。
装飾ではなく史実だろうね。
ちなみに磯の直系は二代目まで。磯自体も養子で元は岡山八郎治という名前だった。
松永という高弟を二代目の養子にし三代目を継がせた。 >>25
ちょっと待って、待ってくれ。
大変な学だ。
ご自身のことが気になってきた。
こんなの野暮を知ってだが、
ご自身、真楊流の方ではないのですか?
もしかして、
真楊会の方でないですか? この程度の知識で大変な学とか書かないでよ。
別に俺が調べたことではないのに。
みんな知ってることだと思うよ。
こんなマイナー流儀に興味を持ってこのスレに書く込んでいるところを見ると
もしかして君は真楊会の方ですか 真楊会へは以前、江戸川橋へ見学としておじゃましました。
それは、詮索くらいのつもりでした。
そこで、二十代くらいの若手の方といろいろ話をしました。
その人は、関西方面の出身の方でしょうか、
柴田さんにタメ口をきき、ハゲと呼び、
柴田さんにダメ出ししていました。
一体この人は何者なのかなとおもっていたら、
稽古のあとで色々と話をしてくれました。
とても博学な人でした。
北陸の出身だと言っていました。
あなたはもしかして、その人ですか?
その人は、「いたつさん」という人を尊敬していて、
その方との思い出をいろいろとしてくださいました。
そのいたつさんが真楊流を継ぐだろうと、述べておられました。
あなたはもしかしてその方?
でなければ、「いたつさん」ご本人ですか? >>28
真楊会にいたことはない。
真揚流はかなり前にやってたが今はもうやってない。
真揚流は一昔前は久保田、柴田以外にも少しあったんだよ。
やってみた感想として真揚流は面白味に欠けた絞技ばかりのつまらない柔術だったよ。
>柴田さんにタメ口をきき、ハゲと呼び、
>柴田さんにダメ出ししていました。
タメ口でハゲとか言われて柴田キレないのかな?
>そのいたつさんが真楊流を継ぐだろうと、述べておられました。
イタツさんと一度話してみれば。
今はもう真楊会にいないらしいが、噂では天神真楊流の知識が凄いらしい。
連絡とってみたら道が開けるかもよ。(日本で五本の指に入る詳しさかもね)
あ、でも真楊流やってないんだっけか。 あと柔術やるんだったら柔道着の袖を肘が出るくらいの長さに切った方がいいよ。
昔ながらの半袖稽古着ってやつ。
武道衣売ってる店に柔道着もってて頼めば切ってくれるよ。
真楊会の演武とか見ると腕まくりしてる人がいるけど袖切ればいいのに。 >>29
あぁ、たしかに真楊流は絞め技ばかりだ。
なんというか、
投げも派手なものじゃなく、ころっと倒すような技術で、
抑えがこまごましていて、必ずといっていいほど絞める。
抑えとして絞めをかけていて、もし暴れるのがひどいようなら絞め落とすっていうことだろうか。
そういう意味では独特な発達をしたといえます。 >>30
見学いったときに柴田さんは剣道着がいいと言っていた。
古くからあまりかたちが変わってないらしい。
いろいろ話してくれたその若手の人がいうには、専用の道着をつくる人もいると言っていました。
いたつさんという方は、下履きにも刺子をしているそうです。見たことないけど。
その若手の人も、袴の下に短い白いのを着けていました。 つまり、服装を皆こだわってました。
おそらくは講道館とは違うんだっていうのを、
きちんとしたいんだとおもいます。 >>32
下履きに刺子とは昔ながらだね。
柔術の稽古着は柔道着と剣道着を足して二で割った感じだけど売ってないんだよ。
作り方は昔の書籍に書いてあるから仕立て屋に頼めば作ってくれるかもしれないけど値段が高そう。
構造は柔道着と同じ腰継菱刺なんだけど、全体的な形は剣道着に近いんだよ。
柴田の持ってる相宮のおさがり稽古着が昔の形のままだよ。
あれを写して量産すれば稽古着問題は全て解決なのだがね。
演武映像を見た限りでは
生地は晒、腰上は緻密な紺糸十字刺、腰下二重格子刺、半袖、丈は柔道着より少し長いといったところか。
後ろではなく横を切っているからその点は柔道着に近いかな。 >>34
たしか銀龍印という日本製の剣道着が、
腰継だったとおもう。
剣道着は袖が延びてないからいいよね。
袖を延ばしたのは柔道の都合だとおもう。
着たときのかたちは剣道着のほうがかっこいい。
真楊流の図解で、道着の背側の裾が割れていたから、
着物でいう半着のなごりなんだろう。
その仕様は今の剣道着も引継いでいる。
柴田さんのは昔の原型に則したいいものだろうね。
最近の映像でも着てるのを見た。
いたつさんという方も柴田さんのそういうところの影響があるのかもしれない。
いたつさんとお会いできればそのあたりもうかがってみたいんですけどね。 銀龍印はすごくいいね。ただ白だったらもっとよかった。
別に稽古着の色は規定されていないが、暗黙の了解で皆白いの着てるからね。
>真楊流の図解で、道着の背側の裾が割れていたから、
確認したがたしかに背側が切れているね。
ただよく見ると横も切れている。剣道着と柔道着の中間だね。
>いたつさんとお会いできればそのあたりもうかがってみたいんですけどね。
真揚流復活のカギはイタツさんにあるかもね。
イタツさんは柴田から追放されたとか自分から出ていったとか色々書かれている。
だけど本当に天神真楊流が好きならば柴田の作った真楊会に拘らず
今もどこかでやっているのではないかと思うね。
そもそも体制が崩壊しているし、
イタツさん自身全てできるのだから問題ないでしょう。
復活したところで、真楊流そのものに技術的欠陥があるし、
俺からしたらもうどうでもいい話だけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています