二代目完英は沖縄に帰り、本土の自由組手を教えると言って、沖縄の人たちを
騙したが、実情はこんな程度だったのだ。大阪のインチキ町道場。

上地流が剛柔流の型などを盗み、流派の体裁を整えたのはこの沖縄時代からだ。
初代完文は文盲の無学な沖縄人で、和歌山の工場の守衛だった。那覇手をかじった
程度だったらしいが、中国に10年もいたとウソをついて大阪の工員たちを騙し、
インチキ道場を始めた。流派名の半硬軟は、どう見ても剛柔の言い換えでしかない。

しかし、大阪には糸東流の摩文仁など一流師範がいたから、上地流は大阪では
ほとんど広まらず、本土の進んだ自由組手を学べると騙された沖縄人たちの間で
だけ広まった。

上地流は本土では沖縄空手と称し、沖縄では本土の空手を強調した、一体どっちなんだと
言いたい。