それによると、大山倍達氏は我が国に大山智弥子、南朝鮮に洪順浩という二人の、共に「正式」の婚姻手続きを踏んだ合法的な、共に大山氏にとって「初婚となる」妻がいたそうである。

 大山氏は昭和二十六年に智弥子夫人と入籍しているが、この時は大山氏の朝鮮籍に夫人が入籍している。
 その後、昭和四十三年に家族揃って日本に帰化し、通名「大山倍達」を本名としている。
 洪順浩夫人とはそのたった五年後の昭和四十九年に南朝鮮で「崔永宣」として入籍している。

 つまり、道場生に対してクソ偉そうに人生を説き、少年誌少年マガジンでは人生相談コーナーまであり、「財産を残していたら、私の墓に唾を吐きかけろ」とまで書いた「人格者」のはずの大山倍達氏は、
その生涯にわたり大正十二年(一九二三年)生まれの日本人「大山倍達」と大正十一年生まれの南朝鮮人「崔永宣」と生年が一年違う二つの国籍を使い分けていたことになる。